藤原氏の摂関政治:1

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摂政・関白を独占した藤原氏の歴史
安和の変による源高明の失脚と藤原氏の政治闘争

摂政・関白を独占した藤原氏の歴史

『平安時代の歴史』の項目では、桓武天皇の東北遠征と内政の充実について解説し、桓武天皇の子である平城天皇と嵯峨天皇の対立の深まり(薬子の変)について書きました。平安時代初期には磐石であった天皇の親政体制も、藤原北家が台頭してくる9世紀半ばから衰退を始めます。10世紀以降も、飛鳥時代の聖徳太子以降に続いてきた法制としての『律令政治体制』は維持されていましたが、政治の実権は段階的に天皇の外祖父である藤原氏に奪われていきました。

平安時代の政治形態は、初期の『天皇親政』から10世紀半ば以降の『藤原摂関政治』へと移り変わりますが、皇后となった娘が皇太子を産めない時期に、藤原氏を外戚に持たない第71代・後三条天皇(在位1068-1073)が即位したことで藤原摂関家の影響力は衰えていきます。後三条天皇は、第59代・宇多天皇(即位887‐897)以来170年ぶりの藤原氏を外戚(天皇の母方の祖父)に持たない天皇でした。藤原氏の思い通りになることを嫌った後三条天皇は、天皇の威信と律令制の復興を掲げて親政を行いますが、後三条天皇の後を継いだ第72代・白河天皇(在位1073‐1087)が幼帝の堀河天皇に譲位して太上天皇(上皇)となって後も政治の実権を握ったことから『院政』が始まります。

1086年の院政の開始によって摂関政治は形骸化していきますが、平安時代末期には保元の乱(1156)・平治の乱(1159)に象徴される武士勢力の伸張によって公家から武家へと政治の実権が移っていくのです。平安時代の政治は、『桓武親政→藤原摂関政治→院政→平氏政権→鎌倉幕府』へと移り変わっていったと考えることができます。

『摂政(せっしょう)』とは政治能力のない幼少・病弱の天皇を補佐する役職(令外の官)であり、『関白(かんぱく)』とは成人の天皇の代理として政治を行う役職(令外の官)ですが、摂政・関白は実質的に朝廷の権力を掌握するという意味で公家の最高官位を意味していました。日本初の摂政は、593年に推古天皇の摂政となった聖徳太子であると言われますが、関白の語源は前漢の宣帝の『(実力者である家臣の霍光)に関(あずか)り白(もう)す』という詔勅にあると伝えられています。

藤原氏の歴史は、中大兄皇子(天智天皇)と一緒に大化の改新(645)を断行した藤原鎌足(中臣鎌足)とその次男・藤原不比等(659-720)によって始まりますが、文武天皇の時代(698)に藤原不比等の子孫のみが藤原姓を名乗って太政官の官職に就任することを許されました。藤原不比等の4人の息子たちはそれぞれ独立した家を興して、『藤原四家(北家・南家・式家・京家)』と呼ばれることになります。藤原四家の創設者たちは737年に揃って伝染病によってこの世を去ることになりますが、奈良時代から平安初期には南家と式家が隆盛し平安時代になると北家が急速に実力を蓄えてきました。

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藤原氏以前には皇族で摂政・関白になった人物はいましたが、人臣の身分で摂政・関白の位に就いた人物はいませんでした。藤原北家の藤原良房(ふじわらのよしふさ,804-872)は858年に人臣初の摂政となりますが、幼少の天皇を補佐して実権を握るというのが藤原氏の政権掌握のパターンとなっていきます。藤原良房は娘の明子(めいし)を第55代・文徳天皇の皇后に嫁がせて外戚となり、明子が産んだ惟仁親王(これひとしんのう)が9歳で第56代・清和天皇(在位858‐876)として即位すると摂政の役職に就きました。887年には藤原良房の甥で養子となった藤原基経(ふじわらのもとつね,836-891)が人臣初の関白(宇多天皇の関白)となり、ここから藤原摂関政治が本格化していくのです。

宇多天皇は藤原基経の死後に再び親政を行おうとして、菅原道真(845-903)を重用して基経の子である藤原時平の権勢を弱めようと努力しましたが、藤原時平らから『醍醐天皇の帝位を脅かそうとした』という讒言を受けて失脚し九州(現福岡県)の大宰府(大宰権帥)へと左遷されました。現在、菅原道真は福岡県の太宰府天満宮で『学問の神様』として崇められていますが、当時の怨霊信仰では京都の朝廷を呪詛する怨霊として恐れられている側面もありました。右大臣にまで昇格した後に陰謀によって左遷された菅原道真ですが、『日本三代実録』や『類聚国史(るいじゅうこくし)』『菅家文草』『菅家後集』の編者としても知られています。

第60代・醍醐天皇(在位897‐930)の時代には摂関を置かなかった(『延喜の治』)のですが、時平の弟の藤原忠平が醍醐天皇の崩御後に、妹の穏子(おんし)が産んだ8歳の第61代・朱雀天皇(在位930‐946)の摂政となります。第62代・村上天皇を経て第63代・冷泉天皇(在位967‐969)の時代以降になると藤原氏の摂関常置の時代となり、白河上皇の院政期まで藤原氏は栄耀栄華をほしいままにしたのです。

また、形式的な摂関政治は明治維新(1868)の頃まで続き、藤原良房から始まる藤原北家の摂関独占の歴史の長さには驚嘆させられるものがあります。藤原氏は朝廷の権力を独占するまでの過程で、ヤマト王権以来の古来の名門氏族を政略や陰謀によって追い落としてきましたが、その代表的な他氏排斥事件として『承和の変(842)・応天門の変(866)・安和の変(969)』などがあります。

承和の変(842)は藤原北家の藤原良房が、妹・順子と仁明天皇の間に生まれた道康親王(みちやすしんのう,文徳天皇)を皇位に就けようとして勃発した政変です。藤原良房は嵯峨上皇と皇太后・橘嘉智子(たちばなのかちこ,檀林皇太后)の強い信任を得ることに成功していましたが、当時、実権を握っていた嵯峨上皇が認めていた正式な皇太子は淳和上皇の皇子・恒貞親王(つねさだしんのう)でした。

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皇位は『第52代・嵯峨天皇(在位809-823)→第53代・淳和天皇(在位823‐833)→第54代・仁明天皇(在位833‐850)』と続きましたが、仁明天皇の後は淳和天皇の皇子である恒貞親王が継ぐことになっていました。しかし、仁明天皇(にんみょうてんのう)と藤原良房は道康親王を天皇にしたいと考えており、淳和上皇が崩御(840)して嵯峨上皇が危篤に陥るとその考えを実行に移す恐れが出てきました。

恒貞親王が廃嫡されるのではないかと心配した伴健岑(とものこわみね)橘逸勢(たちばなのはやなり)は、阿保親王(平城天皇の皇子)に相談して恒貞親王をいったん安全な東国に移そうと考えていたのですが、阿保親王はその計画を裏切って檀林皇太后に上告しました。伴健岑と橘逸勢は謀反人として捕縛され流罪に処されることになり、恒貞親王派であった大納言・藤原愛発(ふじわらのあいち)、中納言・藤原吉野、参議・文室秋津(ふんやのあきつ)も捕縛されて処分されました。

最終的に恒貞親王は廃太子されて新たに道康親王が皇太子となり、第55代・文徳天皇(在位850-858)として即位しました。藤原北家(藤原良房)はこの承和の変により、古来からの有力貴族であった伴氏(大伴氏)と橘氏の勢力を抑えることに成功し、更に866年の応天門の変では、左大臣・源信(みなもとのまこと,810-869)を告発した大納言・伴善男(とものよしお)が応天門炎上の犯人とされて大伴氏は政治的に没落していくことになります。

安和の変による源高明の失脚と藤原氏の政治闘争

藤原氏の権力基盤を固める他氏排斥事件として起こった『安和の変(あんなのへん,969)』は、源連(みなもとのつらぬ)橘繁延(たちばなのしげのぶ)らが、為平親王を擁立して皇太子・守平親王を廃そうとしているという源満仲(みなもとのみつなか)と藤原善時の報告によって始まります。その結果、橘繁延と僧蓮茂(れんも)、藤原千晴(ふじわらのちはる)らが検非違使によって捕縛され配流されますが、他氏排斥を狙う藤原氏の究極の目的は左大臣・源高明(みなもとのたかあきら,914-983)の左遷でした。学問に励み有職故実に精通していた源高明は、7歳の時に源姓を賜った賜姓皇族(賜姓源氏)であり、第62代・村上天皇(在位946-967)の異母兄でした。

また、紫式部が書いた『源氏物語』の主人公・光源氏(ひかるげんじ)のモデルになったのが源高明ではなかったかという仮説もあります。第63代・冷泉天皇は精神的な問題を抱えており早急に皇太子を決める必要があったのですが、兄の為平親王(952-1010)ではなく弟の守平親王(円融天皇)のほうが皇太子になることになりました。冷泉天皇(憲平親王)・円融天皇・為平親王の三人は同母兄弟なのですが、為平親王の妃が源高明の娘であったために摂関政治を行う藤原氏から疎まれていたのです。

『安和の変』の根本原因は、為平親王の妃が源高明の娘であること、そして、為平親王が天皇になれば源高明が次期天皇の外戚となって朝廷の実権を握るのではないかという藤原氏の不安にありました。第62代・村上天皇の時代には、人臣初の関白となった藤原基経の子・藤原忠平が関白太政大臣として政治の実権を握り、その下に右大臣・藤原実頼(ふじわらのさねより)、大納言・藤原師輔(ふじわらのもろすけ)、参議・源高明がいました。その大納言・藤原師輔の娘である安子(あんし)が村上天皇の中宮(皇后)となって、憲平親王(冷泉天皇)・為平親王・守平親王(円融天皇)の三兄弟を産んだのです。

いずれにしても、安和の変によって権勢の絶頂にあった左大臣・源高明は大宰権帥(だざいのごんのそつ)へと左遷されることになり、藤原氏の摂関政治の基盤はより強固なものになっていきました。安和の変の首謀者は、一説では、高明の後に左大臣に就いた権大納言・藤原師尹(ふじわらのもろまさ)ではないかといわれています。高位の皇族である源高明が藤原氏との権力闘争に敗れた背景には、源高明を支持してくれていた村上天皇や藤原師輔(師輔の二人の娘は源高明の妻となった)が既に死去していて、朝廷の有力貴族の中で孤立していたということがありました。源高明は有職故実(朝廷の儀礼・行事)に深く精通していたとされ、『西宮記(さいきゅうき)』という有職に関する著書を残しています。

摂関を独占した藤原氏は、12世紀以降になると『近衛・九条・一条・二条・鷹司』の五摂家が交代で摂政・関白を担うようになりますが、その時には既に日本の政治の実権は源氏・北条氏をはじめとする武家に移っていました。有力な賜姓源氏だった源高明を朝廷から追い落としたことで、藤原摂関家に敵対できるような有力な氏族はいなくなり、この後は同じ藤原氏内部での権力争いが激しさを増していきました。幼少だった第64代・円融天皇(在位969‐984,守平親王)の摂政となったのは藤原実頼でしたが高齢のためにすぐに没してしまいます。

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その後を継いで摂政となったのが藤原師尹(もろまさ)ですが、この師尹も49歳という若さであっけなく死んでしまいます。その師尹の地位を巡って、(師尹の弟である)藤原兼通(ふじわらのかねみち,925-977)藤原兼家(ふじわらのかねいえ,929-990)の兄弟間で激しい争いが起こります。村上天皇の崩御後に、冷泉天皇に蔵人頭に任命された弟の藤原兼家は兄の藤原兼通を出世競争でリードしますが、摂政・藤原伊尹(これまさ・これただ,924-972)の死後に権中納言・藤原兼通が大納言・藤原兼家を飛び越えて円融天皇の関白に任命されることになります。

藤原兼通が藤原兼家よりも先に関白に就任できたのは、兼通の妹で村上天皇の中宮だった安子(あんし)の書きつけが残っていたからだと言われています。安子は円融天皇の母なので、安子の『関白は兄弟の順番で任命するようにしなさい』という遺言の書きつけを見て、円融天皇は渋々ながらも藤原兼通を関白に任命したといいますが、『大鏡』に残されたこのエピソードが史実であるか否かは分かりません。『大鏡』『栄花物語』には藤原兼通と兼家兄弟の確執を示す逸話が残されていますが、晩年に重病にかかった関白・兼通は自分を見舞わずに次の関白になろうとした兼家を深く憎悪して、右大将だった兼家の官位を取り上げて治部卿に降格させてしまったといいます。

そして、関白の地位を藤原頼忠に譲り、兼家から奪い取った右大将の地位を藤原済時(ふじわらのなりとき)に与えてしまったのです。藤原頼忠の後には、第66代・一条天皇(在位986‐1011)の外祖父となった藤原兼家が結局摂政の地位に就くことになるのですが、徹底的に兼家の出世を妨害しようとした兼通は、兼家よりも10年以上早く病没しています。平安時代の政治は公家による温和な貴族政治というイメージがありますが、実際の朝廷内部では親子・兄弟・親類といった肉親の間でさえも激しい権力闘争が行われていました。

藤原兼家が摂政にまで登りつめられた理由としては、二人の娘を冷泉天皇と円融天皇の女御(にょうご)にしていたということがあり、冷泉帝の女御になった超子(ちょうし)は東宮(皇太子)の居貞親王(いやさだしんのう,976-1017)を産みました。円融帝の女御となった詮子(せんし)は懐仁親王(かねひとしんのう)を産み、懐仁親王は第66代・一条天皇として即位することになりました。

居貞親王は一条天皇の後に第67代・三条天皇(在位1011-1016)となりますが、藤原兼家の兄の兼通も自分の娘を天皇に入内(じゅだい)させたものの、皇子や皇女を得ることは出来ませんでした。兼家の前に関白を務めた藤原頼忠も娘の遵子(じゅんし)を天皇の妃にしましたが、子を得ることが出来なかったので外祖父として権勢を振るえませんでした。摂関政治の権力の源泉は、天皇の皇后(中宮)にした自分の娘が、次の天皇になるべき皇子を妊娠して出産することにありますから、娘が次期天皇になる皇子を産めなければ権力の中枢から退けられることになるのです。そして、藤原摂関家の衰退も、藤原道長・頼通以降の藤原氏の娘が、次期天皇となる東宮を上手く産めなかったことから始まったのでした。

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