花山天皇の出家と藤原道長の栄華
藤原摂関政治の完成と急速な衰退
『藤原氏の政治闘争』の項目の最後で、藤原兼通と藤原兼家の兄弟の確執について書きましたが、兼家は第64代・円融天皇(在位969‐984)に娘の詮子(せんし)を入内させていました。円融天皇と詮子の間に第一皇子の懐仁親王(かねひとしんのう,一条天皇)が産まれて暫くすると、円融帝は25歳で退位して皇位を第65代・花山天皇(かざんてんのう,在位984‐986)に譲って、5歳の懐仁親王を東宮(皇太子)にしました。
花山天皇の父は第63代・冷泉天皇で、母は藤原伊尹(これまさ)の娘・懐子(かいし)ですが、藤原兼家と花山天皇との血縁的な結びつきは弱いものでした。花山天皇の関白は藤原頼忠(ふじわらのよりただ)でしたが、この時代の政治の実権を握ったのは懐子の兄の権中納言・藤原義懐(ふじわらのよしちか)と義懐を補佐する左中弁・藤原惟成(ふじわらのこれなり)でした。
花山天皇がそのまま順調に皇位に在り続ければ、藤原兼家よりも先に藤原義懐が関白に任命される可能性がありましたが、花山天皇には精神疾患を患っていた父・冷泉天皇と同様にメンタル面に弱い部分があったといいます。そこに取り入ろうとした藤原兼家はチャンスが到来するのを待ち、花山天皇がこの上なく寵愛していた氏子(しし,正しい漢字は氏にりっしんべん)が20歳の若さで妊娠したまま死去した時に出家することを勧めるのです。氏子は藤原兼家の異母弟である藤原為光の娘でしたが、花山天皇は氏子と一緒に内裏後宮の弘徽殿(こきでん)で楽しい時間を過ごすことを何よりの楽しみにしていました。
愛する氏子を失い深い悲しみに打ちのめされた花山天皇は、兼家の子・藤原道兼(みちかね)や武士の源満仲(みつなか)に付き添われて、東山の元慶寺(がんぎょうじ,花山寺)に赴き剃髪をして出家しました。奈良・平安時代において天皇や貴族を政治の中枢から遠ざける最善の方法は『天皇・貴族を出家させてしまう』ことであり、当時の慣例では、一度出家(剃髪)の儀式を済ませた天皇・貴族は本人がいくらそれを取り消そうとしても決して元に戻れないという決まりになっていたのです。
986年に、藤原兼家の陰謀によって花山天皇は出家させられ、入覚(にゅうかく)という法名(ほうみょう=仏門に入ったものが名乗る名前)を名乗るようになりました。花山天皇の厚遇と信任を受けることで権勢を手にしていた藤原義懐と藤原惟成も、花山天皇からの庇護を失ったことで行き場を失い共に出家することになりました。政治的な陰謀で出家させられることもあれば、政治的な野心の望みを断たれて生命の危険を感じるような時に自ら進んで出家することもあるのです。
兼家の陰謀によって無理やり仏門に入らされた花山天皇(入覚)ですが、その後、本格的に仏教信仰と仏道修行を行うようになります。入覚は播磨国の円教寺を訪れて性空(しょうくう)上人に結縁(けちえん)し、比叡山延暦寺で受戒を受けています。花山天皇が政界を退いて後すぐに懐仁親王が第66代・一条天皇(在位986‐1011)として即位し、詮子の父である藤原兼家が摂政になりました。
東宮は、同じく兼家の娘・超子(ちょうし)が冷泉帝との間に産んだ居貞親王(いやさだしんのう,三条天皇)でした。兄の藤原兼通に散々昇進の道を邪魔された兼家でしたが、一条天皇が即位して漸く摂政になることができ廟堂の権力の頂点へと大きく近づきました。律令制の太政官では右大将である兼家よりも上位の官職に、太政大臣・藤原頼忠と左大臣・源雅信(みなもとのまさのぶ)がいたのですが、藤原兼家は自ら右大将を辞職して摂政が太政官よりも上位にあることを強調しました。
藤原兼家は、律令制下の太政官(朝廷高官の官位)として明文化されていない『令外の官(りょうげのかん)』である摂政・関白が、太政官の最高位である太政大臣や左大臣・右大臣よりも上位の存在であることをはっきり示したという意味で、藤原摂関政治の完成者として位置づけることが出来ます。一条天皇の摂政となった藤原兼家は、自分の息子など近しい血縁者を異例の早さで昇進させていきます。兼家の嫡子の藤原道隆(ふじわらのみちたか,953-995)は34歳で非参議から権中納言、権大納言へと短期間で昇進することになり、兼家の四男の藤原道兼(ふじわらのみちかね,961-995)は26歳で参議から権中納言へと昇進し、五男の藤原道長(ふじわらのみちなが,966-1028)は22歳で非参議から権中納言に出世しました。
兼家には、次男の藤原道綱と三男の藤原道義もいましたが、これらの兄弟は道隆・道兼・道長とは母親が違ったので急速な昇進の恩恵を得ることが出来ませんでした。道隆・道兼・道長の三兄弟は、摂津守・藤原中正(ふじわらのなかまさ)の娘・時姫(ときひめ)の子であり、三兄弟の同母姉妹には超子(冷泉天皇の妃)と詮子(円融天皇の妃)がいました。詮子は第66代・一条天皇の生母であり超子は居貞親王(いやさだしんのう)の生母ですから、それらの同母兄弟姉妹である道隆・道兼・道長は廟堂での出世に大きな便宜を図ってもらうことが出来たのです。
一条天皇の即位によって権勢の絶頂に到達した藤原兼家は、988年に山背国における藤原氏の氏寺・法性寺(藤原忠平が創建)において60歳の慶賀行事を開きますが、この時に源頼光(みなもとのよりみつ)が多数の馬を献上して廟堂を驚かせました。その二年後の990年に、兼家は摂関の位と氏長者の立場を長男の内大臣・藤原道隆に譲って死去しますが、譲られた藤原道隆は11歳の一条天皇に入れていた娘の定子(ていし)を中宮とし、息子の藤原伊周(ふじわらのこれちか,974-1010)を内大臣にします。
藤原道隆の家は『中関白家(なかのかんぱくけ)』と呼ばれて権勢を極めましたが、道隆は深酒による不摂生が祟って43歳で死去しました。道隆は子の藤原伊周を関白にしたがっていましたが、一条天皇がこれに同意しなかったために伊周は内覧(関白に準ずる天皇の代理職)に留まりました。道隆の後を継いで関白になったのは、花山天皇の出家の陰謀で大きな役割を果たした道隆の弟・藤原道兼でしたが、道兼は関白になって僅か7日後に伝染病によって急死し『七日関白』と呼ばれました。
道兼の死後に関白の地位を巡って争ったのは22歳の藤原伊周(道隆の子)と30歳の藤原道長(道隆の弟)であり、二人は甥と叔父の関係にありました。中宮定子を深く寵愛していた一条天皇は、定子の兄である藤原伊周を関白にしたいと考えていましたが、一条天皇の生母である詮子(出家して東三条院と号す)は、自分の弟である藤原道長を強く支持していました。母・詮子(東三条院)の要請に抵抗できなかった一条天皇は、藤原道長を関白の前段階となる内覧に任命しました。
姉・詮子の手厚い力添えによって藤原道長は摂関になることが出来たのですが、『大鏡』には道長の貴族(公卿)らしからぬ負けず嫌いな豪胆さを伝えるエピソードが多く残っています。父・兼家が、当時英才として世に聞こえていた藤原公任(ふじわらのきんとう)を賞賛して、『自分の息子たちは公任の影さえ踏むことができない』と慨嘆したところ、道長は『影などではなく顔を踏んづけてやる』と放言したといいます。『大鏡』によると弓術にも優れていた道長が、『もし、我が家から帝や后が出るならば、この矢当たれ』と叫んで弓を射ると的に見事に命中し、『もし、私が摂関になるのであれば、この矢当たれ』と言って弓を射るとまたもや的の真ん中に命中したとされています。
また、藤原道長は宇多天皇の血筋を引く右大臣・源雅信(みなもとのまさのぶ)の娘・倫子(りんし)を妻にし、醍醐天皇の皇子である左大臣・源高明(みなもとのたかあきら=安和の変で失脚)の娘・明子(めいし)を妻にしましたが、道長が女性を評価する基準はその家柄(身分)の高さと財力の大きさでした。当時の藤原摂関家は、天皇との血縁関係の深さと天皇の外祖父になることでその権力を得ていたので、藤原氏の結婚の基準はその女性がどれだけ天皇に近いのか、その子どもが将来どういった地位に就けるのかという部分にあったと言って良いでしょう。有力皇族(賜姓皇族)の娘である身分の高い高貴な女性を妻に迎えれば、廟堂(朝廷)における自分の支援者が多くなりより優位な政局を作れるというわけです。
そして、道長は最後に残ったライバルである中関白家の藤原尹周を追い落としにかかるわけですが、そのチャンスは996年に花山法皇(入覚)と藤原尹周の女性関係からやってきました。花山法皇は寵愛していた氏子の死後に藤原為光の四女と会っていたのですが、藤原伊周は為光の三女と情を通じていました。伊周は花山法皇が自分と同じ女性に手を出していると勘違いして、弟・隆家にそのことを話してしまいます。花山法皇に女性から手を引かせようと考えた隆家は、威嚇のための射撃を花山法皇に向けてしてしまいます。その弓矢が花山法皇の袖を射抜いたことから問題が大きくなり、詮子(東三条院)の病室から呪物が見つかったこともあって、藤原尹周ら中関白家に大逆罪(国家反逆罪)の嫌疑がかけられることになったのです。
朝廷において藤原伊周を緻密に追い詰めていった藤原道長は、伊周を大宰権帥として左遷することに成功し中関白家の関係者も次々と流罪に処していきました。ここに至って朝廷における藤原道長の覇権は確立し、『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば』という道長の栄華が実現していくことになるのです。当時、廟堂における最高位の貴人を指して『一の人(いちのひと)』と呼んでいましたが、正に藤原道長は一の人として日本の政治の中枢に君臨することになったのでした。
ライバルの藤原伊周を追い落とした道長は、1001年に姉・詮子の40歳の祝賀行事を開催しますが、その時には妻・倫子との間に出来た娘・彰子(しょうし)を一条天皇の中宮に据えていました。彰子が中宮になったことで定子は皇后になるわけですが、この時代は中宮定子(ちゅうぐうていし)と中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)の二人が後宮で力を持っていたことから『二后並立の時代』と呼ばれることもあります。
中宮彰子は『源氏物語』『紫式部日記』の作者である紫式部が仕えたことでも知られる中宮(皇后)ですが、中宮彰子は一条天皇との間に子を妊娠すると、父である道長の邸宅・土御門殿(つちみかどどの)に里帰りして出産しました。土御門殿は藤原道長が平安京に所有していた最も広壮な邸宅ですが、道長はこの邸宅を妻・倫子の実家(左大臣・源雅信、藤原穆子(ぼくし))から貰い受けました。当時は、夫が妻の実家に通い続ける『通い婚(かよいこん)』と呼ばれる婚姻形態が一般的だったのですが、通い婚を長期にわたって行い続けるとその夫妻の家として女性の実家から邸宅を譲り受けられるケースも多かったのです。
一条天皇が最も深く寵愛して長く一緒にいたのは、中宮彰子(988-1074,道長の娘)ではなく中宮定子(977-1001,道隆の娘)でしたが、中宮定子の子である敦康親王(あつやすしんのう,999-1019)は第一皇子でありながら東宮(とうぐう=皇太子)になれる可能性がほとんどありませんでした。皇子が次期天皇となる東宮に推戴されるためには『強力な後見人(支持者)』が必要であり、そのためには中宮となっている女性の実家の男性貴族が実力を維持していなければなりません。
しかし、敦康親王を後見するはずだった藤原道隆の中関白家は、道長との権力闘争に敗れて衰退しており、敦康の叔父にあたる当主の藤原尹周(これちか)は大逆罪の疑いをかけられて九州の大宰府に左遷されてしまいました。道長の長女である中宮彰子は、一条天皇との間に第二皇子の敦成親王(あつひらしんのう,1008-1036)と第三皇子の敦良親王(あつながしんのう,1009-1045)を産んでいますが、彰子の妹・妍子(けんし)は第67代・三条天皇との間に女子の禎子内親王(ていしないしんのう,陽明門院)を産んでいます。
藤原行成(ふじわらのゆきなり)に漢の文帝や唐の太宗になぞらえられる賢帝であった第66代・一条天皇(在位986-1011)が1011年に32歳の若さで崩御すると、第67代・三条天皇(居貞親王,在位1011-1016)が即位したが藤原道長との仲はあまり上手くいかず対立が多かったといいます。三条天皇は藤原氏の傀儡として政治を行うことを嫌ったために道長との関係が悪化したとも言われますが、道長は自分の外孫である敦成親王(後一条天皇)に早く譲位するように三条天皇にしきりに迫っていました。
天皇が親政を行う王道政治こそがあるべき政治の姿と考えていた藤原実資(ふじわらのさねすけ)、三条天皇の権威を蔑ろにする道長への義憤や不快を自身の著作『小右記(しょうゆうき)』に書き残しており、道長を『大不忠の人』としています。『いよいよ王道弱く、臣威強し』と摂関政治の世の中を嘆いた藤原実資ですが、実資が精神的に支持していた三条天皇は眼病を患って次第に政治が覚束なくなり道長側の敦成親王に譲位することを決意します。
ここで注意したいのは、藤原道長というとすぐに『摂政・関白』というイメージがあるのですが、道長自身は花山天皇や一条天皇、三条天皇の時代には摂政・関白の座に就いておらず、20年以上にわたって左大臣と内覧(関白に準じる役職)の地位に留まっていたということです。道長は自分自身が摂関の地位に就くことには余り関心がなく、事実上の『一の人(最高権力者)』としての権勢を振るいながら、長期的に存続可能な藤原摂関家の基盤整備(血縁ネットワークの拡大)に全力を注いだのでした。
その証拠に、三条天皇の後に外孫の敦成親王が第68代・後一条天皇(在位1016-1036)として即位した時に道長は摂政になるのですが、わずか一年で嫡子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)に摂政の位を譲っています。後一条天皇が立ったばかりの時の東宮ははじめ三条天皇の子・敦明親王(あつあきらしんのう)でしたが、三条天皇が崩御すると敦明親王は東宮を辞退して、中宮彰子の子・敦良親王(後朱雀天皇)が立太子されました。
道長は、後一条天皇の後宮に三女・威子(いし)を入内させたので、後一条天皇と威子(母親の彰子の妹)は甥と叔母の夫婦ということになります。更に、道長は三条天皇にも妍子(けんし)を入れていたので、太皇太后(たいこうたいごう)の彰子(一条天皇の中宮)、皇太后の妍子(三条天皇の中宮)、皇后の威子(後一条天皇の中宮)の『三后(さんこう)』を藤原氏で独占したことになり、正に『全く欠けることのない完全な満月』の心境だったわけです。
三代にわたる天皇の皇后を一つの家(藤原氏)が連続して輩出した驚異的な事態を指して『一家立三后(いっかりつさんこう)』といいますが、藤原実資の『小右記』には「一家立三后、未曾有なり」とあります。用意周到な道長は、更に東宮・敦良親王(第69代・後朱雀天皇)の妃として四女・嬉子(きし)を入れていました。この嬉子の入内が無ければ、第70代・後冷泉天皇が誕生しなかったことになるので、道長・頼通以降の藤原摂関家の栄耀栄華はもっと早い時点で斜陽を迎えたことになります。あれほど将来の外戚政治に対して念入りに備えていた道長でしたが、道長の計算違いは後一条天皇と威子との間に男子が一人も産まれなかったことでした。
藤原摂関家の権力の源泉は『天皇との外戚関係(藤原氏が天皇の外祖父になること)』ですから、『皇子に入内させる娘がいない状況』や『娘が東宮となる男子を産まない状況』になればその栄耀栄華はあっという間に衰退してしまうわけです。太政大臣として位人臣を極めた藤原道長は1019年に出家して行観(行覚)と名乗り、嫡男・頼通の後見を勤めながら法成寺(ほうじょうじ)の建立に力を注ぎます。1027年に道長は62歳で病没しますが、その後を嫡男の藤原頼通(992-1074)が継ぎます。頼通も父・道長と同じように天皇との姻戚関係を強固に結ぼうとしますが、自分自身の娘の数と男の子に恵まれず、第69代・後朱雀天皇(在位1036-1045,敦良親王)と第70代・後冷泉天皇(在位1045-1068,親仁親王)との間に藤原氏と血縁関係のある皇子を作ることが出来ませんでした。
藤原摂関家の権勢を維持するためには後朱雀天皇と藤原氏の娘(中宮)との間に何としても男子を設けることが必要でしたが、藤原頼通が娘・原子(げんし,正しい漢字はおんなへんに原)を、頼通の弟・藤原教通(ふじわらののりみち)が娘・生子(せいし)を、同じく弟・藤原頼宗(ふじわらのよりむね)が娘・延子(のぶこ)を入内させたにも関わらず男子を得ることが出来ませんでした。東宮を立太子できないことに絶望した頼通の後を継いだのが、関白・藤原教通(996-1075)でした。藤原頼通は、1052年に壮大優美な宇治の平等院鳳凰堂(末法思想と浄土教の教義が結集した仏教建築)を建立したことでも知られますが、頼通は1067年に関白の職を辞して宇治で現役の為政者を引退しました。
藤原教通は、第70代・後冷泉天皇に娘・歓子(かんし)を入れて何とか次期天皇となる東宮を得ようとしましたが得られず、結局、藤原氏と外戚関係を持たない第71代・後三条天皇(在位1068‐1073)が即位したことで藤原摂関家の凋落は決定的なものとなりました。後三条の後には上皇となっても政権を掌握し続けた第72代・白河天皇(在位1073-1087)がでて、時代は藤原氏の摂関政治から後白河法皇(1127‐1192)の時に全盛を迎える『院政』へと段階的に移り変わっていきました。そして、後白河院による院政の先には武装した身分の低い武士たちが実力で公家の実権を奪い取る『武士の世=源氏の鎌倉幕府』が待ち受けていることになります。
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