岩手県の名前と歴史

岩手県の誕生:南部氏由来の『盛岡』から岩手山にちなんだ『岩手』への変化

岩手県の誕生:南部氏由来の『盛岡』から岩手山にちなんだ『岩手』への変化

陸奥国と呼ばれていた時代から豊臣秀吉の奥州仕置を経て、南部氏と津軽氏が藩の主となった東北地方の大まかな歴史については、[青森県の名前と歴史]の項目で説明しました。盛岡藩(南部藩)は戊辰戦争で、幕府に味方する守旧派の『奥羽越列藩同盟』に参加して徹底抗戦を行いましたが、新政府軍に敗れて白石藩13万石への減転封処分を受けることになりました。南部氏の拠点であった盛岡は奪われて、松本藩戸田家と松代藩真田家が治める新政府軍の直轄領とされました。そして、1870年(明治3年)7月10日には、盛岡藩(南部藩)は自ら財政難で藩政を維持ができないという理由から、廃藩置県に先立って廃藩を申請して『盛岡県』に再編されました。

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盛岡県が成立した時の管轄地域は、『陸中国岩手郡・稗貫郡・紫波郡・和賀郡の一部』であり、南部氏が支配していた頃の盛岡藩と比べるとその管轄地の範囲は大幅に縮小されることになりました。1871年(明治4年)の廃藩置県による第一次府県統合では、現在の岩手県に該当する地域に『盛岡県』と『一関県』が置かれることになりますが、盛岡県には『和賀郡・稗貫郡(ひえぬき)・志波郡(しわ)・岩手郡・閉伊郡(へい)・九戸郡(ここのへ)』が含まれ、一関県には『気仙郡(けせん)・本吉郡・栗原郡・登米郡(とめ)・玉造郡(たまつくり)・磐井郡(いわい)・胆沢郡(いさわ)・江刺郡(えさし)』という由緒ある郡名が含まれていました。

盛岡県は廃藩置県によって1872年(明治5年)1月8日に『岩手県』へと現在の県名に改称されますが、1876年(明治9年)の第2次府県統合では、磐井県から胆沢郡・江刺郡・磐井郡を、青森県から二戸郡を編入して県土を拡大しました。歴史的な由来や経緯を重視するのであれば、岩手県は盛岡県となり、青森県は弘前県となってもおかしくはなかったのですが、明治維新は『幕藩体制(藩政)の旧習・権威を否定する近代化革命』という意味合いを持っていたので、岩手県もまた南部氏の支配体制を彷彿させる盛岡県ではなく、盛岡が含まれている岩手という郡名のほうを県名に採用したのでした。岩手県への改称に当たっては、盛岡県が自ら固陋因習を正して県政と人心を刷新したいという陳情を行ったという体裁が取られました。

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『盛岡』という地名の意味は『盛んに繁栄する岡(台地)』というものですが、元々は南部氏家臣の福士氏が築いた『不来方城(こずかたじょう)』があった地名を、『人が来なくなる土地』というのは縁起が悪いということで、南部利直(なんぶとしなお)が慶長年間(17世紀初頭)に『盛岡城・盛岡』へ改名したのが始まりとされます。不来方城と盛岡城は城郭としては別々に建てられた城ですが、その城があった地名が『盛岡』へと改称されたことになります。

現在でも岩手県民・盛岡市民の一部には、明治維新で取り上げられた『岩手』という地名よりも南部氏に由来する『盛岡』のほうに親しみがあるとも言われ、『岩手公園』の愛称として『盛岡城跡公園(もりおかじょうあとこうえん)』が採用されたりもしていますが、地図や公式文書では『盛岡城跡公園(岩手公園)』の表記が多くなっています。財政難もあり盛岡城の史跡としての復元は極めて難しい状況が続いています。

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岩手県の県名となった『岩手』という地名そのものは、盛岡以上に古いとも言われる地名・郡名であり、その由来は東北地方の名峰の一つである標高2038メートルの『岩手山』と考えられています。岩手山は二つの外輪山からなる複成火山であり、火山湖やカルデラ地形もあり、過去に溶岩が流れ出た溶岩流の跡も多く残されていることから、『岩が出る(溶岩が出る)』という自然事象の観察から、『岩出→岩手への転化』が起こったようです。岩手県の別名は『巌鷲山(がんじゅさん)』とも言うが、元々は『巌鷲山(いわわしやま)』と呼ばれていた山名が、『岩手』の音読みであるがんしゅに似ていることから岩手山へと転化していったとも言われます。春の岩手山は雪解け時期の山の形が飛んでいる鷲の形に見えるために、巌鷲山と呼ばれるようになったという伝承があります。

岩手県は、2011年現在、政治資金規正法で起訴されている小沢一郎の地盤がある県でもありますが、近代の岩手県は藩閥政治を覆した庶民宰相の原敬(はらたかし)、反軍演説の斎藤実(さいとうまこと)、俳人の石川啄木、作家・詩人の宮沢賢治など多くの逸材を輩出している県でもあります。

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