武士政権としての鎌倉幕府と源氏将軍家の滅亡
北条氏の勢力拡大と得宗専制体制(執権体制)の確立
『源平合戦と源頼朝』の項目で、西国の朝廷(貴族政権)に代わる東国(関東)の鎌倉幕府(武家政権)の成立について解説しましたが、鎌倉幕府がいつ成立したのかには確実な定説がなく、1180年~1192年の間にかけて段階的に源頼朝を棟梁とする武家勢力が伸張していったと考えられます。学校の日本史の年表では、1192年を『いい国(1192)つくろう、鎌倉幕府』という語呂合わせで鎌倉幕府成立の年代としていますが、1192年は源頼朝(1147-1199)が征夷大将軍に任じられた年で幕府の統治体制が名実共に固まった年であると言えます。
源頼朝が日本史の表舞台で活躍し始めるのは、以仁王(もちひとおう)の平氏追討の令旨(1180)に呼応して挙兵した1180年からであり、同年には武士階級を政治的に統治する機関である『侍所(さむらいどころ)』を設置しました。侍所は『軍事・警察』という武士の専売特許である武力を統治する行政機関であり、御家人たちを鎌倉幕府のために召集・指揮(命令)する権限を与えられていました。侍所の長官である初代別当(べっとう)には、和田義盛(わだよしもり, 1147-1213)という有力御家人が任じられましたが、幕府内部の権力闘争(和田合戦, 1213)で二代執権・北条義時に和田義盛が敗れると、侍所の別当職は北条氏によって担われるようになります。
1184年には、源頼朝が公文所(くもんじょ,その後の政所)と問注所(もんちゅうじょ)を設置して、鎌倉幕府の行政機関の大まかな骨格が出来上がってきます。幕府の全国に及ぶ土地支配権を強化することになったのは、平家と源義経滅亡後に北条時政(北条政子の父親・頼朝の舅)が強硬に朝廷に要請した『守護・地頭(しゅご・じとう)の設置(1185年)』でした。
京都・朝廷の後白河法皇が頼朝の弟・源義経を厚遇して『源頼朝追討令(宣旨)』を出したという弱みがあったので、朝廷は嫌々ながらも守護・地頭の設置を認め鎌倉幕府の土地・人民の支配権が強化されました。初めに、源行家・源義経追討を名目とする惣追捕使(そうついぶし)と、現地での徴税権を持つ国地頭(くにじとう)と呼ばれる官職が1185年に設置されます。
朝廷の第82代・後鳥羽天皇(在位1183-1198)が、1185年に守護・地頭の設置を認めたことを『文治の勅許(ぶんじのちょっきょ)』といいます。この朝廷側の勅許によって、東国軍事政権(鎌倉幕府)は『軍事権・警察権・土地支配権(徴税権)』といった政治統治のための権限を手に入れることになります。
1186年に、臨時職であった国地頭が廃止された後に、全国各地に幕府の権威によって任命される地頭(在地領主)が配置されることになるのですが、地頭は荘園・公領の実質的な支配者(領主)になっていきます。守護(しゅご)は各国の地頭を監督する『律令制下の国司』に該当する官職であり、令外官である追捕使や平安末期の守護人(しゅごじん=国司が任命した地方武士の官職)が守護の原型でした。
武家政権の幕府が全国各地の行政官として任命する『守護・地頭』は、最初は朝廷の謀反人(平家・源義仲)の所領(平家没官領など)を接収して統治するといった役割でしたが、次第に京都の朝廷が律令に基づいて任命する『国司・郡司』を圧倒するようになり、日本全土が幕府の影響下に組み入れられていきます。1189年には、源義経を匿った藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を頭領とする奥州藤原氏を奥州合戦で滅ぼして、東国(鎌倉)を背後で脅かしていた奥羽地方を幕府の支配権に置くことに成功しました。
文治5年の奥州合戦(1189)の持つ意義は、奥州藤原氏と源義経を滅ぼしたというだけではなく、九州・西国にまで及ぶ全国の武士に動員令(出陣命令)を出したことで、鎌倉殿(源頼朝)が日本全国の武家の棟梁であることを示したことにあります。鎌倉殿の目的は、日本66カ国すべてに動員令を出してそれに従わせることで、鎌倉幕府の軍事指揮権と政治的権威を日本全土に行き渡らせることにあったのです。
奥州合戦で日本66カ国に威名を轟かせた源頼朝は、1190年に総勢30万騎の軍勢を従えて京都に上洛し、律令制の貴族高官である権大納言(ごんだいなごん)と武官の最高位である右近衛大将(うこのえたいしょう)に任じられますが、すぐにその官職を辞退して鎌倉へと戻ります。鎌倉の政治体制を固めた源頼朝は、1192年に征夷大将軍に任命されて公式に全国の武士に召集をかけられる軍事指揮権(兵馬の権)を掌握しました。
鎌倉幕府の政治機関としての職制は、1180年の侍所の設置や1184年の公文所(政所)・問注所の設置から始まって段階的に整備されていき、征夷大将軍を頂点としてその下に『政所(公文所)・侍所・問注所・京都守護・鎮西奉行』といった部署(職制)が置かれることになりました。こういった鎌倉幕府の職制については、『吾妻鏡(あづまかがみ)』という歴史書に詳しく書かれています。
日本全国の武士を召集・統率する武門の総大将となった源頼朝は、1193年に富士の巻狩りという大イベントを行いますが、ここで嫡男・源頼家が鹿を射止めるという慶事が起きたものの、曾我兄弟(曾我十郎祐成・曾我五郎時致)による頼朝暗殺未遂事件が起きました。源頼朝は、関白・九条兼実(くじょうかねざね,1149-1207)と懇意にして朝廷との関係を深めていき、幕府と朝廷が政治的に協力する『公武協調体制』を維持していましたが、1195年の東大寺供養では頼朝と兼実が一緒に式典に出席して協調体制をアピールしました。
1199年に源頼朝が急死すると、その後を継いだのは二代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ,1182-1204)でした。源頼家は武家の棟梁として武勇と狩猟には優れていましたが、比企能員(ひきよしかず)の娘・若狭局(わかさのつぼね)を妻として比企氏を重用する独裁政治を行った為に、母・北条政子をはじめとする御家人連合から親裁権(政治的な権限)が停止されました。
御家人の合議制(集団指導体制)に憤慨した源頼家は、比企氏と共に『比企能員の乱(1203)』を起こしたものの北条氏の連合軍に鎮圧され、翌年に北条氏が放った刺客によって頼家は暗殺されました。比企氏の乱のきっかけは、1203年に頼家が重病に陥った時に、北条氏(北条政子・北条時政)が頼家の長男・一幡(いちまん)と頼家の弟・千幡(せんまん,後の実朝)とで日本の地頭職を二分するという決定を下したことでした。頼家の外戚として権勢を振るっていた比企氏がこの決定を嫌って反乱を起こしたとされますが、実際は幕府の実権を巡る北条氏と比企氏の権力争いであったと見られています。比企能員の乱の失敗で頼家が伊豆の修善寺に幽閉されると、三代将軍として源実朝(みなもとのさねとも,1192-1219)が即位します。
比企氏の乱の後には、将軍の独裁体制に代わって東国御家人の合議制(集団指導体制)によって幕政が運営されるようになり、北条氏(北条政子・北条時政)と京都から来た実務官僚の大江広元、三善康信らが幕政の中心を担うようになります。源実朝は殺生禁忌の公家文化(京風文化)を尊ぶ温厚で教養に富んだ人物であり、『武家の棟梁』というよりは『公家の歌人(知識人)』とでもいうような将軍でした。『古今和歌集』や『新古今和歌集』といった公家文化や朝廷の帝王学を愛好した実朝は、自身の歌集である『金塊和歌集(きんかいわかしゅう)』を残しています。
しかし、後鳥羽上皇に寵愛されて公家政権(朝廷)に接近し過ぎた三代将軍・源実朝は、京都出身の公家を重用して東国御家人の権利と地位を保護することを忘れていたので、次第に御家人たちの実朝に対する反感が強まります。1219年、雪の降り積もる季節に、二代将軍頼家の遺児である公暁(くぎょう)によって源実朝は鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で暗殺され、源氏将軍家は三代で断絶しました。
北条時政(1138-1215)・北条義時(1163-1224)・北条政子(1157-1225)の父子を中心とする北条氏は、1200年に頼朝に重用された梶原景時を討伐して、時政が初代執権(しっけん)として就任します。1203年に、比企能員の乱を鎮圧して頼家の外戚となって権力を伸ばしていた比企氏を滅亡させ、1205年には、北条時政が娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍にする計画を立てて、朝雅と対立する畠山重忠(はたけやましげただ)を打倒します。
しかし、時政の子の北条義時と北条政子は、平賀朝雅の将軍擁立に反対して、有力御家人と団結して時政を執権職から引退させ平賀朝雅を殺害しました。1213年には、侍所の初代別当にもなった有力御家人である和田義盛を挑発して反乱を起こさせ、和田合戦に勝利した執権の北条氏が幕府の実質的権力を握るようになってきます。1247年には、5代執権・北条時頼(ほうじょうときより,1227-1263)が宝治合戦(ほうじかっせん)で三浦泰村(みうらやすむら)を筆頭とする三浦一族を滅亡させました。朝廷の治天の君・後鳥羽上皇(1180-1239)を敬愛していた三代将軍・源実朝が公暁に暗殺されると、後鳥羽上皇が描いていた頼仁親王を実朝の後の将軍にするという『朝廷の権威回復』のための計画も実現が不可能になりました。
北条政子が次期将軍に据えるために親王の東下を後鳥羽上皇に求めますが、後鳥羽上皇はこれを拒絶します。実朝のいない鎌倉幕府に親王を送っても幕府の傀儡(かいらい=操り人形)の将軍にされるだけというのが後鳥羽上皇には分かっていたからですが、実朝の死後に後鳥羽上皇の幕府に対する政治姿勢は急速に硬直化していきます。二代執権・北条義時の弟・時房が軍事的圧力をかけたことで、鎌倉幕府の将軍として左大臣・九条道家の子である2歳の三寅(みとら,藤原頼経)が京都から下されました。
実朝の後を継いだ4代将軍・藤原頼経(ふじわらのよりつね,1218-1256)と5代将軍・藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ,1239-1256)の摂関家出身の二人の将軍のことを『摂家将軍(せっけしょうぐん)』といいますが、摂家将軍の後には皇族出身の『皇族将軍(宮将軍)』が続きました。皇族将軍(宮将軍)は、後嵯峨天皇の皇子である6代将軍・宗尊親王(むねたかしんのう,1242-1274)から始まり、7代・惟康親王(これやすしんのう,1264-1326)、8代・久明親王(ひさあきしんのう,1276-1328)、9代・守邦親王(もりくにしんのう,1301-1333)と鎌倉幕府の滅亡まで続きました。
歴代の北条氏が就任・独占した『執権(しっけん)』という役職は、元々政所の別当の中枢を担う役職でしたが、征夷大将軍(鎌倉殿)を側近として補佐する役割を意味するようになります。2代執権・北条義時が侍所の別当を兼務してからは、執権が幕府の最高位を意味する役職となり、義時以降は執権を担う北条氏の『得宗(宗家・本家)』が幕府における権限を強めていきます。鎌倉中期~後期になると北条氏の得宗が幕政を専断する独裁体制が強化されていきますが、この政治体制のことを『得宗専制(得宗専制体制)』と呼びます。
執権を補佐する有力な幕府のポストとして『連署(れんしょ)』という役職がありましたが、この連署も北条氏一門から選出されていました。『愚管抄(ぐかんしょう)』を書いたことで知られる(九条兼実の弟である)天台座主の慈円(じえん)は、武力によって幕府を征伐することは難しいので公武協調政策を取るべきだとして、後鳥羽上皇の武力による討幕計画(承久の乱)を諌めようとしました。
しかし、討幕計画を断行すると決めた後鳥羽上皇は、遂に北条義時追討の院宣を出して、承久の乱(1221)を起こし、北条氏率いる鎌倉幕府との戦いに敗れて後鳥羽院は隠岐に流されました。後鳥羽上皇に協力的であった順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐へと流されましたが、この朝廷と幕府の軍勢が真正面からぶつかり合った承久の乱によって『幕府の朝廷に対する政治的優位性』が確定することになります。
慈円が『愚管抄』の中で『乱逆の世・武者の世』と呼んだ時代が本格化し、西国(京都)の公家政権から東国(関東)の武家政権へと政治の実権が移ることになります。在位わずか3ヶ月足らずだった幼帝・仲恭天皇(四歳)も廃されて、当時は『九条廃帝』と呼ばれました。承久の乱後に、京都の朝廷の動向を監視して軍事権・警察権を掌握する『六波羅探題(ろくはらたんだい)』が設置され、その初代探題には北条泰時と北条時房が任じられます。京都守護を改変した六波羅探題の設置によって、京都と南都北嶺の支配権も幕府に握られることになりました。
3代執権・北条泰時(1183-1242)は、幕府の中枢を担った北条政子と大江広元の死後に執権として就任し、幕府の最高意志決定機関である『評定衆(ひょうじょうしゅう)』を設置します。評定衆の設置によって『有力御家人の合議制』が確立しましたが、北条氏の得宗専制体制が強化される鎌倉時代後期になると評定衆の権限は弱体化(形骸化)しました。北条泰時は、1232年(貞永元年)に史上初の武家法である『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』を制定して、朝廷の律令に基づく法秩序からの『鎌倉幕府の独立性』を強調しました。
日本国の伝統的秩序はすべて『朝廷(公家)の律令制度』に由来するものでしたが、有力御家人の合議を経て成立した御成敗式目によって『武家による新秩序』が出現することになったのです。『公正な道理に基づいた所領の裁判』と『武家と公家の協調体制』を規定した51か条の御成敗式目は、北条泰時・時房だけではなく、三浦義村・二階堂行村・中原師員・三善倫重・斉藤長定など評定衆11人の連署によって制定され、一味神水の誓約によって施行されました。
つまり、御成敗式目は有力御家人の連署によって制定された『合議体制(集団指導体制)の結実』だったわけですが、泰時の死後、5代執権・北条時頼(ほうじょうときより,1227-1263)、6代執権・北条長時(ほうじょうながとき,1229-1264)を経て、北条氏の得宗専制が強化されていき東国御家人の連帯感や団結心が弱まっていきます。
鎌倉幕府崩壊の間接的なきっかけとなるのは、元(モンゴル帝国)のフビライ・ハーン(クビライ・ハーン)が主導した元寇(文永の役・弘安の役)によって『御恩と奉公の原理』が崩れたことでしたが、北条氏が有力ポストを独占する得宗専制に対する『御家人の不公平感』の高まりも鎌倉幕府の崩壊を早めたと言えます。
有力御家人の安達泰盛(あだちやすもり)を、(北条氏を支持する)内管領・平頼綱(たいらのよりつな)が滅ぼした1285年の霜月騒動(しもつきそうどう)によって得宗専制体制が完成し、北条貞時が自分を補佐していた平頼綱一族を討伐する1293年の平禅門の乱で得宗の政治権力は全盛に達します。しかし、北条氏が他の有力御家人との一味神水の協力体制を失っていた鎌倉時代後期の14世紀には、既に鎌倉幕府の瓦解が予見されていたとも言えるのです。内部分裂が緩やかに進行する鎌倉幕府に最後の一撃を加えるべく歴史の舞台に登場したのが、強硬な王政復古の理想を掲げる第96代・後醍醐天皇(在位1318-1339)でした。
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