源平合戦と源頼朝による鎌倉幕府の成立

木曾義仲の上京と源平合戦の終結
源頼朝による鎌倉幕府の開設

木曾義仲の上京と源平合戦の終結

『平氏政権(六波羅政権)の滅亡』の項目で、平清盛(1118-1181)を棟梁とする伊勢平氏(桓武平氏の一派)の隆盛と滅亡について解説しましたが、平家政権に代わって台頭してきたのは河内源氏(清和源氏の一派)の源頼朝(1147-1199)と信濃源氏の木曾義仲(源義仲, 1154-1184)でした。

平維衡(たいらのこれひら)を祖とする伊勢平氏は、瀬戸内海周辺や九州を中心とする『西国』に拠点を持ちましたが、源頼信(みなもとのよりのぶ)を祖とする河内源氏は、土着の地方武士の勢力が強かった鎌倉を中心とする『東国』に拠点を持っていました。河内源氏(清和源氏)の系譜を遡ると、『第56代・清和天皇→貞純親王(さだずみしんのう)→源経基(つねもと,六孫王)→源満仲→源頼信(河内源氏の祖)』となっていますが、東国・陸奥地方における武門としての源氏の名声を高めたのは頼信の子の源頼義(みなもとのよりよし)でした。

スポンサーリンク

八幡太郎義家と呼ばれ源氏の軍神と讃美される源義家(1039-1106)は頼義の子であり、頼義・義家親子は『前九年の役と後三年の役』を戦って、陸奥・出羽地方(奥羽地方)から安倍氏と清原氏の土着勢力を追い落としました。しかし、清原氏の内紛に源義家が介入した後三年の役(1083-1087)は、源氏の勢力拡大を警戒する京都・朝廷から『私戦』と見なされて追討官符を受けられなかったので、源氏の勢力が奥州を直接統治することは出来ませんでした。

後三年の役の後に奥州地方を支配するようになったのは、清原武衡・家衡を破った藤原清衡(清原清衡)であり、清衡を始祖とする奥州藤原氏が四代(清衡・基衡・秀衡・泰衡)にわたって奥羽地方の覇者となりました。藤原頼遠・藤原経清を祖とする奥州藤原氏は、経清の子の藤原清衡の代で安倍氏・清原氏に代わる奥州地方の覇者となります。奥州藤原氏は京都の朝廷へ従順な態度を示し、『砂金・馬の交易』を通して経済的な繁栄を謳歌しますが、最後は源義経を匿った(かくまった)ことを理由に源頼朝によって滅ぼされました。

4代100年にわたって地方政治の栄耀栄華を実現した奥州藤原氏でしたが、政治的中立を維持できず源頼朝との決戦を断行できなかった藤原泰衡(やすひら)の代で滅亡することになりました。奥州藤原氏の権勢と財力を象徴する建築物として中尊寺金色堂が有名ですが、12世紀に栄えた奥州の平泉文化は京都文化と並ぶ華やかで贅沢なものでした。

平家滅亡のきっかけとなったのは、平氏追討のための武装蜂起を促す『以仁王(もちひとおう)の令旨(1180)』であり、以仁王の令旨を受けて信濃の源義仲(木曾義仲)と伊豆の源頼朝が挙兵しますが、初めに京都に進軍したのは北陸宮(ほくろくのみや,以仁王の子)を奉戴した木曾義仲でした。木曾義仲は以仁王の令旨を受けて信濃国で挙兵し、北陸道周辺に大きな勢力を確立します。木曾義仲は1183年の倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で、美貌の貴公子として知られる平維盛(たいらのこれもり, 1158-1184)率いる平家の10万の大軍を打ち破りました。

美青年として京都で人気の高かった平維盛ですが軍勢を指揮する武将としての能力は低く、源頼朝には富士川の戦い(1180)で敗北し、木曾義仲には倶利伽羅峠の戦い(1183)で大敗しました。木曾義仲(源義仲)が、倶利伽羅峠の戦いで牛の角に松明をつけて突進させる戦術を用いて、平氏の大軍勢を崖下に追い落としたという伝説もありますが、倶利伽羅峠の戦いの敗北で平家の没落は決定的なものとなりました。京都を防衛する軍勢を失った平家は、1183年7月に安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びることになります(平氏の都落ち)。平氏を追い散らした木曾義仲は、京都に上洛して朝日将軍(旭将軍)と呼ばれ軍事の実権を握りますが、京都の治安を安定させるような指導力を発揮することはできず京都の政治情勢をより一層混乱させただけでした。

スポンサーリンク

源義仲(木曾義仲)と源頼朝から離反して義仲に付いた源行家は、鎌倉にいる源頼朝よりも早く京都に上洛したので政治的に有利なポジションにいましたが、朝廷の公家から疎んじられているという弱点がありました。朝廷の最高権力者である後白河法皇は、無教養で粗暴な源義仲を嫌っており、義仲の率いてきた大軍が京都で略奪や乱暴を働いたので京都の住民からの支持も殆ど得られませんでした。

義仲の軍勢が京都の住民から食糧の略奪を行った背景には、1182年の養和の大飢饉の影響があります。平氏追討の自分の功績を認めずに、京都から追い出そうとする後白河法皇と公家政権に不満を爆発させた源義仲は、1183年11月にクーデターを起こします。僧兵を集めて義仲に対抗しようとした天台座主の明雲(みょううん)を殺害し、義仲は後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉します。この義仲の反乱行為を、後白河法皇の院御所があった場所を取って法住寺合戦(ほうじゅうじかっせん)とも呼びます。

源義仲は朝廷で高位高官を得て厚遇されることを期待していましたが、後白河法皇や上位貴族の冷淡な対応に激怒して実力行使に走り、1183年12月に後白河法皇に源頼朝追討令を出させました。木曾義仲は源頼朝率いる鎌倉(東国)の武力侵攻を強く恐れており、1184年1月に源範頼(みなもとののりより)・源義経(みなもとのよしつね)率いる鎌倉の軍勢が京都に向かっていることを知ると、後白河法皇に迫って自分を征夷大将軍に任命させました。

肩書きだけは、夷狄(いてき)を討伐する武士の最高位である征夷大将軍を手に入れた源義仲ですが、義仲の手下が京都の市中で多くの乱暴狼藉を働いたために十分な軍勢を集めることも出来ず、源範頼と源義経の軍勢に一方的に追い詰められます。宇治川の戦いや瀬田の戦いで範頼・義経に連敗した源義仲は、1月20日に近江国粟津(滋賀県大津市)で戦死しました。義仲を没落させた宇治川の戦いの勝利によって、鎌倉に拠点を構える源頼朝の京都・朝廷に対する影響力が強まります。源頼朝に残された課題は、義仲が京都を占拠している間に西国の福原で軍勢を立て直した平家の打倒でした。

後白河法皇から平氏追討の宣旨を受けた源範頼・源義経の連合軍は、1184年1月の一ノ谷の戦い、1185年2月の屋島の戦いで義経の革新的な戦術により平氏軍を打ち破ります。瀬戸内海の制海権を奪われた平氏は、1185年3月24日に関門海峡で壇ノ浦の戦いに臨むことになりますが、範頼・義経の関東源氏軍に敗れて滅亡することになりました。

平清盛・重盛の時代に全盛を迎えて六波羅政権を確立した平氏(平家)でしたが、源義仲の上京によって京都を都落ちし、源範頼・源義経との戦いによって滅亡に追い込まれました。琵琶法師が弾き語りした『平家物語』の冒頭には、『奢れる者も久しからず、唯春の夜の夢の如し。 猛き者も遂には亡びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ』という言葉がありますが、源平合戦は正に権門・富貴の諸行無常を象徴するものでした。

壇ノ浦の合戦の敗北によって、安徳天皇と母の建礼門院徳子、二位ノ尼が三種の神器と一緒に入水(じゅすい)しましたが、建礼門院は救出され、三種の神器のうち内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されました。壇ノ浦の戦いによって、幼帝の第81代・安徳天皇(1178-1185)が崩御し、三種の神器の宝剣(天叢雲剣・あめのむらくものつるぎ)が海中に水没しました。1180年の以仁王の挙兵から始まり1185年の壇ノ浦の戦いで終結する源平合戦を総称して、『治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)』と呼びます。

楽天AD

源頼朝による鎌倉幕府の開設

治承・寿永の乱の勝者となった源頼朝(1147-1199)は、鎌倉を中心とした関東地方(坂東地方)に京都の朝廷(公家政権)とは異なる武家政権を確立するために、自分に敵対する可能性のある全ての勢力を討伐し始めました。源平合戦の戦後処理の過程において浮かび上がってきた問題は、朝廷の後白河法皇に厚遇され始めた弟の源義経(1159-1189, 幼名・牛若丸,九郎判官)にどう対処するかということでした。

源義経は元々兄の頼朝に対する忠誠心が強く、頼朝に反旗を翻す気などは微塵もありませんでしたが、頼朝の許可を得ることなく朝廷から官位を貰ったことや、軍監・梶原景時の意見を無視して独断専行の戦をしたことで頼朝から激怒されました。壇ノ浦で捕縛した平宗盛・清宗父子は鎌倉に護送されましたが、源義経は東国(鎌倉)への帰還を禁じられ、義経は腰越状(こしごえじょう)を送って頼朝に許しを求めます。しかし、遂に鎌倉への帰還は認められず、怒った義経は『関東において怨みを成す輩は、義経につくべき』と吐き棄てて京都に帰りました。

義経が源行家と組んで関東政権に敵対する存在になると懸念した頼朝は、御家人の土佐坊昌俊に命じて義経の邸宅に夜討ちを仕掛けました。この夜討ちが頼朝によって命じられたと知った源義経は憤慨して、もう我慢できないとばかりに鎌倉の頼朝に対して宣戦布告し、後白河法皇から『頼朝追討の宣旨』を受けます。

しかし、京都で十分な軍勢を集めることが出来なかった義経は劣勢に立たされ、戦況の変化を読んだ後白河法皇は義経を見限って、今度は頼朝のほうに『義経追討の宣旨』を与えました。日本全国に追捕令を出された義経は窮地に陥り、九州の西国に逃れようとしますが暴風雨に遭って果たせず、奈良の吉野では愛妾の静御前が捕らえられました。居場所が無くなった義経は、幼少期を過ごした奥州の奥州藤原氏(藤原秀衡)を頼って逃げていきますが、秀衡の後を継いだ藤原泰衡が頼朝の圧力に負けて義経を襲撃します。独自の兵力を持っていなかった義経は、藤原泰衡の襲撃に観念して衣川館で自害しました。

頼朝が義経に対して激怒した理由には、京都・朝廷とは異なる政治権力を鎌倉に打ちたてようとしている時に、義経が朝廷の権威を重視して鎌倉の頼朝の意向を軽視したことにあります。つまり、御家人の武士に『官位・領地=ご恩』を与えるのは武家の棟梁(征夷大将軍)である自分の権限であり、京都の天皇・上皇から官位や領地を与えてもらって喜んでいるようでは『武士政権の成立』が不可能になるという不安が頼朝にはあったのです。

長年にわたって『公家の番犬(護衛)』として低い身分に甘んじてきた武家が政治の主役になるためには、朝廷から人事権と論功行賞の権限を奪う必要がありますが、義経は『朝廷の人事権』を率先して認めるような行動を取ったので頼朝の憤激を買ったわけです。幕府が御家人(地方武士)の忠誠や奉公を得るためには『ご恩と奉公の論理』を働かせなければならず、そのためには、朝廷ではなく幕府が御家人に対して『ご恩=官職・領地』を与えられる仕組みを作り上げなければなりません。源義経が頼朝に征伐された理由には、優れた武将である義経が鎌倉政権に反逆する可能性があったということもありますが、それ以上に鎌倉(頼朝)よりも先に朝廷(後白河上皇)から『ご恩(官位・領地)』を受け取ったというのが最大の理由でしょう。

スポンサーリンク

義経追討の過程において、北条時政(北条政子の父・頼朝の義父)の朝廷に対する熱心な働きかけで日本全土に守護(しゅご)・地頭(じとう)が設置されることになり、鎌倉政権の全国の領地支配に対する影響力が高まりました。貴族化して藤原氏の摂関政治を模倣した平清盛の平氏政権(六波羅政権)は独自の『武家政権』を樹立することがありませんでしたが、京都(西国)から遠く離れた鎌倉(東国)に拠点を置いた源頼朝は『武家政権の確立』に成功します。

公家政権(朝廷)は『武力による軍事活動』を嫌悪するケガレ思想を持っていましたが、頼朝が樹立した武家政権(幕府)は『武力による軍事活動』によってライバルの平氏を滅亡させ『武家の公家に対する優位』を突きつけます。古代日本では、汚れ仕事を行う『貴族(公家)の番犬』として差別されてきた武家が、遂に政治の主役となる時代が到来したのでした。

武家の台頭は既に保元・平治の乱の時代から始まっていましたが、平清盛の時代にはまだ関白・太政大臣を頂点とする『朝廷の実質的な人事権』が生きていました。しかし、源頼朝が武士の棟梁を務める鎌倉政権が源平合戦(治承・寿永の乱)に勝利すると、関白・太政大臣を頂点とする律令制の身分秩序が形骸化し、征夷大将軍を頂点とする武家政権に政治の実権が移っていきます。つまり、武家の棟梁であれば、何の実権もない関白・太政大臣よりも征夷大将軍になりたいと本気で思える時代がやってきたということです。

朝廷の公家(上位貴族)達は、武士を軍事活動に利用するための単なる家人(臣下)としか見ていませんでした。しかし、実力を蓄えた東国武士たちは源氏の棟梁である源頼朝を担いで、自分達だけでは何も出来ない朝廷とは異なる『独立した政治権力』を構築し始めたのです。朝廷の律令制を根拠とする政治権力と並び立つ新興階級(武士)の政治権力が『幕府』であり、元々は征夷大将軍が駐留する前線基地という意味であった幕府は次第に『武士の政府(政権)』そのものを意味するようになります。東国に本拠を置いた鎌倉殿(頼朝)が征夷大将軍に任命された時に、太政大臣を頂点とする律令制下では大した重みを持たなかった『令外官・征夷大将軍の価値(影響力)』が格段に引き上げられたと言えます。

清和源氏の棟梁である源頼朝が鎌倉幕府を開設して武家政権を確立したのは、一般的には征夷大将軍に任命された1192年であるとされていますが、朝廷から半ば独立した武家政権を確立していたという意味では、権大納言・右近衛大将に任命された1189年の段階で既に幕府は成立していたと見ることも出来ます。

武士の『朝廷からの独立性』を高めたくなかった後白河法皇は、源頼朝を征夷大将軍に任命することを渋りましたが、後白河法皇の死後すぐに後鳥羽天皇によって征夷大将軍に任命されました。この時点で既に『幕府の朝廷に対する優位性』は明らかでしたが、人事権や土地の支配権まで含む幕府の優位性が決定的になるのは、後鳥羽上皇の倒幕計画(執権・北条義時追討)が失敗する『承久の乱(1221)』の後でした。承久の乱における朝廷側の敗北は、『朝廷は幕府を実力で服従させることが出来ない』という厳然たる事実が天下の人々に晒されてしまった大事件でした。

楽天AD
Copyright(C) 2007- Es Discovery All Rights Reserved