奥羽地方の前九年の役・後三年の役と後三条天皇の登場

後三条天皇の即位と摂関政治の衰退
前九年の役と後三年の役における河内源氏(源義家)の活躍

後三条天皇の即位と摂関政治の衰退

『藤原摂関政治』の項目で、藤原摂関家の衰退について書きましたが、栄耀栄華の絶頂を謳歌した藤原道長(966-1028)の晩年は、東宮(皇太子)となる男子に恵まれず病苦に苦しめられるという悲惨なものとなりました。世は仏教の説く末法(まっぽう)の時代に入りつつあり、末法思想が普及していた日本では1052年から末法の時代に入ると信じられていました。

末法の世になると釈迦牟尼世尊(仏陀)が開祖となった仏教の功徳が通用しなくなるとされていましたが、末法が近づく11世紀半ばには、摂関政治が衰退して地方の反乱や不作による飢餓、地震・旱魃(かんばつ)などの異常気象が相次ぎました。そのため、社会不安や政治の混乱、天変地異、生活の困窮を末法思想と結びつけて考える貴族・僧侶・民衆が増え、阿弥陀如来の本願で西方極楽浄土に導いてもらおうとする浄土信仰が盛んになりました。

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浄土宗の法然浄土真宗の親鸞など浄土門を目指す鎌倉仏教は、この末法思想と浄土信仰を背景にしており、藤原氏をはじめとする平安末期の貴族たちも死後に極楽浄土に往生することを願って阿弥陀仏を本尊とする寺社を造営しました。

極楽往生を目的とする阿弥陀信仰に基づいて建立された代表的な寺社・伽藍(がらん)には、出家後の藤原道長が建てた法成寺(ほうじょうじ,無量寿院)と藤原頼通が建てた京都・宇治の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)があります。法成寺は既に現存しませんが、阿弥陀如来を本尊として藤原頼通が1052年に建立した平等院鳳凰堂は、現世に阿弥陀如来が管轄する西方極楽浄土を再現しようとした絢爛豪華な寺社であり、今も国宝・世界遺産として現存しています。藤原道長は、若い頃から気管支や胃腸の病気を患っていたといいますが、視力が衰え体調が思わしくなくなった1019年に54歳で院源(いんげん)を戒師として出家しています。

晩年の道長は背中に出来た腫物(はれもの)の痛みに苦しめられ、最愛の娘三人(敦康親王=小一条院妃の寛子・敦良親王妃の嬉子・三条天皇妃の妍子)が相次いで病没しました。1028年、遂に法成寺の阿弥陀堂の病床に伏すことになり、金色に光り輝く九体の阿弥陀如来像の手に鮮やかな色の糸を結びつけて、来世の極楽往生を願いながら死去しました。

道長の後を継いだ藤原頼通(ふじわらのよりみち,992-1074)は26歳で摂政となり、半世紀以上にわたって摂政の地位を維持しましたが、自分の娘に次の天皇となる東宮を産ませることは遂に出来ませんでした。藤原氏が摂関として政治の実権を握るためには、藤原氏の娘を皇后(中宮)にして天皇の子を産ませ『外戚政治(外祖父・外孫の関係による政治)』を行う必要がありますが、藤原頼通以降、藤原氏の男子は天皇の外祖父になれずその権勢は衰えていきます。

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道長が死去した時の天皇は第68代・後一条天皇(在位1016-1036)で、後一条天皇は第66代・一条天皇と中宮彰子(道長の娘)の子でしたが、藤原頼通と後一条天皇の関係は『叔父・甥の関係』であり『外祖父・孫の関係』よりも一段関係が弱くなりました。第69代・後朱雀天皇(在位1036‐1045)、第70代・後冷泉天皇(在位1045‐1068)と藤原頼通の関係も叔父と甥であり、藤原頼通は天皇の外祖父となった藤原道長と比較すると朝廷における専制的な影響力が衰えました。

藤原道長が死去した1028年には、東国(房総三国=上総・下総・安房)で平忠常の乱(たいらのただつねのらん)が起こり、朝廷は追討使として平直方と中原成道を遣わしますが平定することができず、次に追討使に任命された甲斐守・源頼信(みなもとのよりのぶ)が平忠常を降伏させました。平忠常の乱によって中央政府(朝廷)の地方統治が揺らぐようになり、源頼信が房総三国で武威を振るったことで関東平氏の多くが清和源氏の軍門に加わり、関東地方における清和源氏の勢力が拡大しました。

桓武天皇の時代に征夷大将軍・坂上田村麻呂が征討した陸奥地方(奥州地方)でも、源氏(源頼義・源義家)と俘囚長の安倍氏が戦う前九年の役(1051‐1063年)が起こり、中央政府(朝廷)が派遣した国司・受領と地方豪族との対立が激化してきました。自前の武力を持つ在地勢力の反乱を鎮圧するために朝廷側にも正規軍(官軍)の軍事力が必要となり、武芸を得意とする武士の発言力と影響力が増してくることになるのです。

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前九年の役と後三年の役における河内源氏(源義家)の活躍

藤原頼通の時代に奥州地方で前九年の役(1051‐1062年)が起こりますが、この内乱ははじめ蝦夷(えみし)の俘囚長である安倍頼良(あべよりよし)が陸奥国司・藤原登任(ふじわらのなりとう)と対立することによって始まりました。朝廷に形式的には帰属していた俘囚長の安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築いて独立的な勢力を誇示していましたが、国司・藤原登任が統治する陸奥国衙(地方行政府)の領域にまで侵入して戦いになりました。この戦いでは安倍頼良が勝利しましたが、朝廷は安倍氏の反乱鎮圧のために後任の陸奥国司として源頼義(みなもとのよりよし,988-1075)を派遣しました。

1051年に、後冷泉天皇の生母・中宮彰子の病気平癒祈願のために恩赦が出され、安倍頼良(?-1057)と源頼義は講和することになりますが、安倍頼良は源頼義と同名(よりよし)であることに遠慮して安倍頼時(あべよりとき)と改名しました。安倍氏は朝廷に降伏して反抗する様子を見せていませんでしたが、鎮守府将軍・源頼義が巧みに安倍頼時の勢力を挑発して1057年に、安倍頼時は源頼義の営所を襲撃したという嫌疑を掛けられました。

源頼義は、頼時の子の安倍貞任(あべさだとう)を襲撃犯として差し出すように要求しましたが、頼時はそれを拒絶して本格的に前九年の役が始まりました。源頼義に安倍頼時を追討せよという朝廷からの宣旨(せんじ)が下され、源頼義は安倍頼時と同じ安倍一族であった安倍富忠(あべとみただ)を味方につけて、頼時を伏兵で襲撃し殺害することに成功しました。

首長の頼時を失った安倍氏は子の安倍貞任を首長に据えて朝廷軍との戦闘を続けますが、源頼義と源義家(八幡太郎義家,1039‐1106)は出羽国仙北(秋田県)の俘囚・清原氏(清原光頼)を味方に引き込んで大軍勢を結集し、一気に安倍氏を滅亡させました(1062)。前九年の役の結果は、源頼義は奥州支配を目指した思い通りの論功行賞を得ることができず伊予守に任じられ、安倍氏の勢力圏をも版図に入れた清原氏(特に清原光頼の弟・清原武則)が奥州を全面的に統治することになりました。

前九年の役で活躍した源頼義の父は河内源氏(武家としての清和源氏)の祖・源頼信(みなもとのよりのぶ,968‐1048)ですが、頼信は平忠常の乱(1028)を平定した人物です。源頼義には八幡太郎義家(源義家)・賀茂次郎義綱(源義綱)・新羅三郎義光(源義光)などの著名な子がいますが、特に源義家(八幡太郎義家)は新興武士階級の象徴的人物であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府の足利尊氏の祖先として崇敬された武士です。

源義家(1039-1106)は摂関政治の衰退期に台頭した武士の代表的人物であり、清原氏の内紛に干渉した後三年の役(1083-1087)での勝利によって更に源氏の存在感を強めました。義家は、院政期には白河上皇の護衛を勤めたこともありました。奥羽地方(東北地方)で勃発した後三年の役(1083-1087)は、前九年の役の戦後処理のまずさが影響した清原氏の内紛ですが、清原氏の当主・清原武貞(きよはらのたけさだ)は、前九年の役で敗れた安倍氏の家臣・藤原経清(ふじわらのつねきよ)の未亡人(安倍頼時の娘)を妻としていました。

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その安倍頼時の娘には、藤原経清の間にできた連れ子の藤原清衡(ふじわらのきよひら)がいましたが、清原武貞との間には清原家衡(きよはらのいえひら)が産まれました。清原武貞には既に清原真衡(きよはらのさねひら,-1083)という嫡子がいましたが、奥羽を統治する武家の棟梁(とうりょう)として専制的な支配を目指す清原真衡は、今まで通り一族の共同統治を理想とする叔父・吉彦秀武(きみこのひでたけ)や弟の清原清衡(後の藤原清衡)、清原家衡と対立しがちでした。

実子がいなかった清原真衡は、朝廷に対する清原氏の家格(家柄のステイタス)を上げるために海道平氏(岩城氏)から養子・清原成衡(きよはらのなりひら)を迎え、その成衡に河内源氏二代目の源頼義から嫁を取ろうとしました。真衡の叔父で長老格だった吉彦秀武は、清原氏の血を引かない中央貴族(賜姓貴族)の平氏・源氏から養子を取るという発想にも反対だったようです。吉彦秀武は、養子・清原成衡が源氏の嫁を貰うと聞くと、出羽から遥々出向いて祝いの品物である砂金を届けようとしました。しかし、当主・清原真衡が奈良法師との碁(ご)に打ち興じて自分を無視したので、その無礼に激昂して砂金を庭に撒き散らして出羽の館へと帰りました。清原真衡は吉彦秀武を討伐しようとしますが、吉彦秀武は真衡と不和であった清原清衡と清原家衡を味方に取り込んで戦おうとします。

しかし、清原真衡が官軍である陸奥守・源義家に援軍を求めると、義家の高い武名を恐れた清原清衡と清原家衡は再び真衡側につきました。その後、真衡が急死したために清原氏と吉彦秀武の戦いは休戦となりますが、源義家が清衡と家衡とに奥六郡を三郡ずつ分与した際に清衡のほうが家衡よりも有利な群を多く貰ったために、清衡の領地を家衡が急襲して清衡の妻子と一族は全滅させられました。命からがら逃げ延びた藤原清衡は源義家の支援を受けて、武貞の弟・清原武衡(きよはらのたけひら)と結んだ清原家衡と戦うことになり後三年の役が本格化していきます。清原武衡と清原家衡は難攻不落とされた金沢柵(かなざわさく)に篭城して、清原清衡・源義家・源義光らの軍勢と戦闘を交えますが、兵糧攻めに遭って食料不足に耐え切れず清原武衡・家衡は討ち取られました。

奥羽地方(東北地方)における後三年の役は、清原真衡が吉彦秀武を攻撃した時に始まり清原氏の滅亡によって終わったわけですが、前九年の役と後三年の役での勝利によって源義家(河内源氏)は東国(関東)と東北の一部に大きな勢力を得ることになりました。特に、後三年の役後に朝廷からの恩賞や報奨を何も貰えなかった源義家(八幡太郎義家)は、私財を割いて自分のために戦ってくれた家臣たちに褒美を与えたので、東国一帯における源氏に対する地方武士の忠誠心が一気に高まりました。この義家の活躍と御家人との関係が、後に伊豆に流された源頼朝の拠点作りに大いに役立つことになります。後三年の役の後に東北地方の覇者となったのは清原清衡から名を改めた藤原清衡であり、清衡は奥州藤原氏四代(清衡・基衡・秀衡・泰衡)の祖となりました。

武士の戦役と奥羽地方の内乱の話が長くなりましたが、藤原摂関政治の衰退は、第70代・後冷泉天皇(在位1045‐1068)の頃から次第に明らかとなり、藤原頼通は後冷泉帝が崩御する直前に関白の職を辞しました。頼通の後を弟の藤原教通(ふじわらののりみち,996-1075)が継ぎますが、後冷泉帝の後に帝位を襲ったのは藤原氏と外戚関係を持たない第71代・後三条天皇(在位1068‐1073)であり、藤原教通は揚名の関白(ようめいのかんぱく=名前だけの関白)として政治の実権を失いました。藤原氏に遠慮せずに親政を行った後三条天皇は『記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)』を作って荘園整理を徹底して進め、公領なのに荘園としているような有力貴族・寺社の不正を正しました。

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この後三条天皇による荘園整理は『延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)』と言われ、摂関家の荘園でも適正な審査が為されたので藤原氏の財政基盤にも損失が及ぶことになったのです。後三条天皇は自身の東宮大夫(とうぐうだいぶ=皇太子の世話役)だった藤原能信(ふじわらのよしのぶ,995‐1065)の補佐を受けて、能信の養女・藤原茂子を中宮としましたが、後三条帝と茂子の子が第72代・白河天皇(在位1073‐1087)となります。

後三条天皇は摂関政治の復権を阻むために在位4年余りですぐに東宮の貞仁親王(白河天皇)に皇位を譲りましたが、摂関政治の抑制を手助けしたのは藤原道長の五男(明子の子)の藤原能信でした。藤原能信は藤原頼通と同じ藤原氏ですが、母親が違う兄弟である頼通・教通・彰子(彼らは倫子の子で、能信は明子の子)へのライバル心が強かったので、藤原摂関家を維持することに未練は無かったと言われます。

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