モンゴル帝国による元寇と“ご恩と奉公”の揺らぎ

宋の皇帝専制を支えた科挙制度・文治主義・朱子学
元寇(蒙古襲来)が鎌倉幕府に与えた影響

宋の皇帝専制を支えた科挙制度・文治主義・朱子学

『平清盛の死と平氏政権の滅亡』の項目で、平氏政権の経済的繁栄を支えた日宋貿易について触れましたが、中華王朝の宋(960-1279)は、古代東アジア世界の中心であった唐(618-907)に代わる漢民族の中華帝国でした。

軍事力・経済力・文化水準で周辺諸国を圧倒し安定した政治秩序を形成していた唐が、黄巣の乱(874)・朱全忠の乱(907)によって滅びると、中国大陸は五代十国(907-960)という内部分裂の時代に入ります。日本は唐から国家(朝廷の位階と官職・税制・軍制)の基本的な枠組みである『律令制・律令政治』を輸入しましたが、唐の国威の衰退と共に菅原道真の献言によって遣唐使を廃止し(894)、五代十国時代になる頃には藤原氏による摂関政治が天皇専制に取って代わっていました。

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唐の時代には、生まれながらの家柄・血統(血縁)・地縁によって位階(官職)が決まる『貴族政治・血縁政治』の弊害を排除するために、官吏採用試験(進士科・明経科)によって官吏を任命する『科挙(かきょ)』制度の普及が図られましたが、既得権益層である貴族の影響力を除去することは出来ませんでした。科挙は隋の文帝により導入され、唐の女帝・武則天(則天武后,623-705)によって出自(家柄)を問わない人材任用が進められましたが、中央官僚を任用する科挙が本格的に定着したのは北宋(960-1127)の時代でした。

藤原氏の摂関政治(貴族政治)が全盛であった10~11世紀の日本では、出自・家格を問わずに試験で中央官僚(公卿)を任命する科挙制度は取り入れられませんでした。日本は中国から律令制(貴族政治を実現する法律・制度)と漢字だけではなく、儒教・仏教・文物・建築などさまざまなものを輸入しましたが、官僚政治(文治主義)を実現する科挙と去勢した男性の使用人である宦官(かんがん)は遂に導入されることがありませんでした。五代十国の内乱の時代を終わらせて唐に代わる漢民族の中華王朝を建国したのは、後周から禅譲を受けた太祖・趙匡胤(ちょうきょういん,在位960-976)でした。

趙匡胤(ちょうきょういん)が建設した宋(北宋)は首都を開封(かいほう)に置き、五代十国時代の内乱の原因となった地方行政機関=藩鎮(はんちん)の軍事責任者である節度使(せつどし)の武力を、粘り強い政治交渉で削減していきました。唐末期~五代十国時代にかけて、地方行政を担当していた藩鎮は行政官の観察使(かんさつし)と武官の節度使をリーダーとして地方の独立勢力のような様相を呈していました。

文治主義的な中央集権体制を理想とする趙匡胤は、地方に強大な軍事力が存在することを嫌って、各地の節度使を説得して引退させ、節度使そのものを実権(軍指揮権)のない名誉職へと変質させていきました。宋の初代皇帝・趙匡胤は、中国大陸の内部にある軍閥(節度使など軍事勢力)を弱体化させ、『軍事担当の武官』『行政担当の文官(科挙に合格した官僚)』よりも完全に格下の存在とすることで徹底的な『文民統制(シビリアン・コントロール)』を実現しようとしました。

趙匡胤がグランドデザインを描いた文民統制による官僚政治(文治主義)の理想は、宋(中華帝国)の周辺に強大な軍事勢力がなければ上手くいっていたかもしれません。しかし、中世の東アジアで合理的な文治主義の政治を実現するには強力な軍事力による安全保障が必要であり、宋の行き過ぎた文民統制による防衛力の低下は外敵(金)の侵攻を招く事になります。

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宋には北宋と南宋がありますが、開封を首都として華北・華南を広く領有していた時代の宋王朝を北宋(960-1127)といい、女真族の金(1115-1234)によって開封を奪われ(1126年の靖康の変)、杭州(臨安府)に遷都して以降の宋を南宋(1127-1279)と呼びます。宋の皇帝である太祖(趙匡胤)・太宗(趙匡義)・真宗(趙恒)によって宋の軍事力(軍人の権限)を抑制する文治主義が推進されていきましたが、この文民統制の徹底は宋の『軍事力の低下』を招き、中華帝国の内部を安定させたものの中華帝国の外部からの軍事的圧力を強めました。

慶暦の治を実現したとされる第4代皇帝・仁宗(趙禎)も、西夏や遼に膨大な贈物(貢物)をして友好関係(平和状態)を維持したために、人民に対して重税と賦役をかける圧政へと傾いていきました。第6代皇帝・神宗(在位1067-1085)の時代には、既得権益を削減して政治運営を効率化する『王安石の改革(新法運動)』が進められ宋は全盛期に到達しますが、第7代皇帝・哲宗(趙煦)の時代には新法派(財政改革層)と旧法派(既得権益層)の党争が激しさを増しました。徽宗と欽宗が金軍に捕虜にされる靖康の変(1126)によって、北宋から南宋へと変わりますが、宋の時代は中国大陸の文化・学問・貨幣経済・農業生産が高度に発達し隆盛した時代でした。

宋は軍事活動によって支配領域を拡大していく『世界帝国』としての性格と防衛力を失っていきましたが、宋が過去の中華王朝にはないほどの文化的・経済的・学問的な成熟を極めたということにも注目する必要があります。宋王朝の先進的な文物・思想・貨幣はアジア全域へと波及していき、アジア各国の経済活動や生活文化・政治思想に大きな影響を与えることになりました。

戦乱の少なかった中国大陸では人口と農業生産力が増加して文化的な生活水準が格段に進歩しましたが、宋の文化活動の一翼を担った皇帝として第8代・徽宗(趙佶,1100-1125)が有名です。徽宗(きそう)は『風流天子(ふうりゅうてんし)』と呼ばれ、画人(院体画)や文人、書家として独創的な才能を開花させましたが、政治家としての手腕には全く優れた部分がありませんでした。

風流天子の徽宗は、政治活動よりも芸術活動を重視して奢侈贅沢(しゃしぜいたく)な生活を好んだ為に、人民に重税をかける悪政を行いました。遂に、徽宗とその子欽宗は金に対する外交政策に失敗して、靖康の変(1126)で北宋は滅亡して欽宗は北方に連れ去られました。杭州(臨安)を首都とする南宋で、皇帝として即位したのは欽宗の弟・高宗(趙構)でした。

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北宋の学術振興の現れとされるのが、王安石と対立した旧法派の司馬光(1019-1086)が書いた歴史書の『資治通鑑(しじつがん)』であり、唐の呉兢(ごきょう)が書いた『貞観政要(じょうがんせいよう)』と並ぶ帝王学の重要書籍とされました。宋の時代の工芸品として最も多く輸出されたのが宋銭(銅銭)と陶磁器であり、陶磁器では景徳年間(1004ー1007)に作成された景徳鎮窯の青磁が最も有名です。それ以外にも、龍泉窯や汝窯で色釉などの釉薬(うわぐすり)を使った価値のある陶磁器が制作されました。学術・思想では、北宋の程頤(ていい,1033-1107)程顥(ていこう,1032-1085)、南宋の朱熹(しゅき,1130年-1200年)が登場して、孔子以来の儒学思想(儒教思想)に画期的な変更を加えました。

程頤・程顥は、万物自然の基本原則である『理』の存在を説き万物の構成要素として『気』を考える『理気二元論』を展開しましたが、その前提にあるのは人間の本性を理とし理を直感的に把握できるとする『性即理』の仮説でした。朱熹(朱子)は理気二元論を前提として儒学の学問体系を再構築し、『論語・孟子・大学・中庸』の四書の注釈書である『四書集注(ししょしっちゅう)』をまとめました。

朱熹の朱子学では、政治秩序を維持するための『君臣の別(身分制度の区分)』が厳しく説かれ、天子専制(君主専制)の王道政治こそが正しく家臣が君主に反逆することは許されないとする『名分論(大義名分論)』が主張されました。この王道政治(君主政治・天皇親政)を正当化する朱子学のイデオロギーは、後醍醐天皇の建武の新政や明治維新(倒幕運動)を断行した幕末の志士たちに大きな影響を与えました。

高宗の政権下では、対金の強硬派(主戦論派)である岳飛(がくひ,1103-1141)と和解派(外交協調派)である秦檜(しんかい,1090-1155)が対立しますが、政争では和解派の秦檜が勝利し、後世において愛国心の象徴とされる岳飛は謀殺されました。遼・西夏・北宋を打倒して華北を領有した金ですが、契丹(きったん)の耶律留哥(やりつりゅうが,1165-1220)の反乱やチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国の攻撃によって1234年の哀帝の時代に滅亡することになります。金の滅亡後に南宋は北宋時代の領土であった開封と洛陽を奪還しますが、精強な騎馬軍団を有するモンゴル帝国の猛攻を受けて、1279年の厓山の戦いで衛王・趙ヘイを皇帝とする宋王朝は滅亡しました。

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元寇(蒙古襲来)が鎌倉幕府に与えた影響

宋王朝(南宋)と金に代わって中国大陸を統一したのは、遊牧民族であるモンゴル民族の元(大元,1271-1368)でした。中国(漢民族)は女真族の金に引き続き異民族であるモンゴル民族に統治されることになりますが、チンギス・ハーン(1162頃-1227)によって民族統一を達成したモンゴル民族は、西は東ヨーロッパやアナトリア(トルコ)、南はアフガニスタンやチベット、ビルマ、東は中国と朝鮮半島にまで及ぶ史上空前の大帝国の建設に成功しました。

モンゴル帝国が中国王朝の『元(大元)』になったのは、第5代大ハーン・クビライ(フビライ)が1271年に、モンゴル帝国の元号を中国風の元(大元)と改元したときでした。クビライ・ハーン(フビライ・ハーン,1215-1294)は意欲的な政治改革を行って、皇帝が法律を作成する『中書省』の下に六部を置く中国式の政府機関(官僚機構)を整備しました。

1276年に将軍バヤン率いるモンゴル軍が南宋の首都・杭州を占領しましたが、その後も、フビライ・ハーンは対外的な軍事侵略・膨張政策を続けます。『東方見聞録』を書いたヴェネツィアの商人マルコ・ポーロが元を訪れたのも、積極的な軍事外交を行っていたフビライ・ハーンの時代でした。

フビライ・ハーンは宋王朝を滅ぼす前に朝鮮半島(高麗)にも進出しており、1273年に高麗(918-1392)三別抄の乱(さんべつしょうのらん)に介入して高麗を支配下に組み込みました。高麗の次にモンゴル王国の軍事侵攻の標的にされたのが、鎌倉幕府が安全保障を担っていた日本でした。当時の鎌倉幕府は、御成敗式目(1232)を制定した名執権(第3代)の北条泰時(1183-1242)を経て、第5代執権・北条時頼(1227-1263)の時代に北条執権体制(得宗専制)が固められており、御家人社会の内部で階層分化が進行していました。

北条時頼は、1246年に名越光時(北条義時の孫)の反乱を鎮圧して、名越光時と親しかった摂家将軍(第4代将軍)の九条頼経(くじょうよりつね)を京都に追い返しました。将軍の九条頼経を京都に追放したこの事件を『宮騒動(みやそうどう)』といいますが、宮騒動の翌1247年には有力御家人の三浦泰村一族を宝治合戦(ほうじかっせん)で滅ぼして、得宗専制の権力地盤を更に固めました。しかし、北条得宗(北条氏宗家)と御内人(北条氏の家来)の権勢ばかりが高まり、諸国の御家人との格差が開いていくことは、潜在的に『鎌倉幕府(北条得宗体制)に対する武士の不満』を蓄積していくことになります。

1252年に、摂家将軍(第5代将軍)の九条頼嗣(くじょうよりつぐ)を京都に追放して、新将軍(皇族将軍)として後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊親王を迎え入れました。京都・朝廷の天皇となるべき身分の第一皇子が、武家政権(鎌倉幕府)の将軍として半ば強引に招聘される時代が遂にやってきたのでした。

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1249年に時頼は、評定衆の下に引付衆(ひきつけしゅう)を設置し、御家人の訴訟の公正化・迅速化を図ることで、北条氏に対する御家人の信頼と支持を引き止めました。しかし、その陰では評定衆の合議体制を無意味化する秘密の『寄合(よりあい)=深秘の沙汰(しんぴのさた)』を開いて、北条氏(得宗)と得宗の家臣である御内人(みうちびと)が幕政を独占しました。

この時代から、将軍に直属する『御家人』よりも執権に直属する『御内人』のほうが実力を持つようになり、北条時宗・貞時の世代になると御内人の代表である『内管領(ないかんれい)』の平氏・長崎氏が鎌倉幕府の実権を握るようになります。北条頼時は執権職を第6代北条長時(1229-1264)に譲って最明寺入道と号してからも幕府の実権を握り続け、北条執権政治でも現職の執権の背後で得宗(本家の代表)が政権を支配する院政のような政治形態が取られるようになりました。

強力な騎馬部隊を駆使した遠征(征服)と侵略の繰り返しによって、貪欲に支配領域を四方に拡大していたモンゴル帝国が、フビライ・ハーンの時代に遂に日本遠征を計画することになります。1273年に朝鮮半島の高麗を屈服させて属国化したフビライが次に目を付けたのは、マルコ・ポーロが『黄金の国ジパング』と評した島国日本(ジパング)でした。

モンゴル軍(元軍)が日本に襲来してくる元寇(げんこう)は、日蓮(1222-1282)『立正安国論』で予言されていたことでも知られますが、実際にはモンゴル帝国が高麗の三別抄を完全に攻略する以前の1268年に、大宰府の少弐資能(しょうにすけよし,武藤資能)のもとにモンゴルからの国書が届けられました。

モンゴルへの服属を求めるこの国書を、外交権を持つ朝廷の後嵯峨上皇と亀山天皇は黙殺することにし、翌1269年にも春・秋の2回にわたって送られてきたモンゴルからの国書を無視しました。1271年には、珍島に立てこもった三別抄(モンゴル帝国に対抗する高麗の抵抗勢力)から軍事支援の要請が届きましたが、幕府・朝廷はこれも無視して三別抄はこの年の夏に滅亡しました。モンゴル軍(蒙古軍)の軍事侵攻の危機が現実のものとして感じられてきた鎌倉幕府は、鎮西奉行の少弐資能・大友頼泰(おおともよりやす)に筑前・肥前の海岸警備を命じました。

元寇の時の執権は、得宗専制を強化した第8代・北条時宗(1251-1284)でした。北条時宗は、1266年に討幕を企てたとされる宗尊親王を廃位して京都に送還し、1272年の二月騒動で同族の反得宗勢力(北条時輔・時章・教時)を滅ぼして権力基盤を固めました。

元寇は文永の役(1274)弘安の役(1281)の二回起こりますが、結局、二回とも日本軍(幕府軍)に味方する暴風雨が吹き荒れて、高麗人(朝鮮軍)と漢人(南宋軍)を中心に組織された元の大軍は海中に没する事になります。この異国の軍隊(元軍)を追い返した暴風雨のことを後世では『神風』と言って持てはやしましたが、日本が元軍に勝利できた背景には、元寇で襲来した軍隊の主力が精強なモンゴルの騎馬軍団ではなかったこと(モンゴル帝国に無理やり徴兵された高麗・南宋の士気の低い軍隊であったこと)が大きく影響しているのではないかと考えられています。

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元軍は一騎打ちが主流の幕府の武士たちが使わない『集団戦法』を用い、日本にはない『鉄砲(てつはう)』という火薬兵器(音と光で相手・馬を混乱させる火薬玉)を使って幕府軍を苦しめました。文永の役で九百以上の大船団、3万人以上の大兵力を指揮したのは、元の将軍の忻都(きんと)と洪茶丘(こうちゃきゅう)、高麗の将軍の金方慶(きんほうけい)でした。

文永の役で暴風雨によって元軍は撤退しましたが、翌1275年に元は再び杜世忠(とせいちゅう)をはじめとする使節を送って降伏を呼びかけてきますが、北条時宗は杜世忠以下の5人の使節を斬首しました(スパイ容疑があったために斬首したとも言われます)。文永の役後には、異国警固番役(いこくけごばんやく)などを新たに設置して国防体制を強化しましたが、博多湾岸に北条時宗が築かせた元寇防塁(石塁)の一部は現代の福岡県にも残っています。

文永の役で僅かな手勢を引き連れて勇敢に戦った御家人としては、『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』にも残っている肥後国御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)が有名です。経済的な苦境に陥っていた竹崎季長は、元寇で戦功を挙げた恩賞(ご恩)を得るために鎌倉幕府に直訴して新領を貰いますが、元寇が幕府に与えた最大の影響は『幕府の財政難』『御家人の経済的窮乏』でした。

フビライ・ハーンは第三次の日本遠征(元寇)を計画していたといいますが、遠征を断行する前にフビライが死去したので計画は中止になりました。しかし、幕府と御家人が元寇の戦闘と防衛体制の準備に費やした戦費(費用)は莫大であり、元寇に勝利しても新たな領地や財物といった実際的な収穫を得られたわけではないので、幕府に命がけで奉公した御家人たちに十分な恩賞を与えることが出来ませんでした。

幕府の将軍と家臣(御家人)は『ご恩と奉公の原理』で強固に結ばれていたのですが、幕府が元寇における『御家人の奉公(兵役義務・防塁建設・警固任務)』に対して十分なご恩(恩賞)を与えて報いることが出来なかったので、御家人が経済的に困窮し“いざ鎌倉の精神”が弱まってきたのです。幕府は貧窮化する御家人を救済するために、何度も借金(債務)・領地の質入を帳消しにする『徳政令』を出して御家人を支援しますが、それでも御家人の不満や苦境を解消するには十分ではありませんでした。

幕府のご恩とは『本領安堵・新領給付・公正な裁判(所有権を巡る訴訟)』などのことであり、一所懸命に自分の領地を守る御家人(武士)たちは幕府がご恩を与えてくれるからこそ、幕府に絶対の忠誠を誓っていたのでした。しかし、北条得宗の強権政治(得宗専制体制)の下では、北条氏と内管領(御内人)ばかりに権勢と財力が集中し、幕府のために一生懸命に奉公した御家人たちの生活は苦しくなるばかりでした。寄進された膨大な所領を抱える北条得宗と内管領の権勢が絶頂に達した時に、日本各地の御家人・悪党(反幕府勢力)・蝦夷の幕府に対する不満も高まり、そういった反幕府的なエネルギーを集積したのが朱子学の君主専制を掲げた後醍醐天皇でした。

幕府と御家人の主従関係を確かなものとして安定させる『ご恩と奉公の原理』が揺らぎ始めた時に、鎌倉幕府は内部から緩やかに瓦解のプロセスを歩み始めていたのです。

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