朝廷の両統迭立と後醍醐天皇の討幕計画

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朝廷の両統迭立と南北朝分裂の予兆
後醍醐天皇の討幕計画と鎌倉幕府の滅亡

朝廷の両統迭立と南北朝分裂の予兆

『北条執権体制(得宗専制)と元寇』の項目で、北条氏の幕府における権力基盤の拡大や元寇による幕府の財政状況の悪化について書きましたが、幕府の財政悪化は“ご恩と奉公”の原理による『幕府‐御家人の結びつき』を弱めていきました。文永の役(1274)・弘安の役(1281)の元寇が終わると、北条得宗家(宗家)と御内人(みうちびと,得宗被官)の権勢が更に強まっていきます。

有力御家人の代表であった安達泰盛(1231-1285)が、内管領(うちかんれい)の平頼綱(たいらのよりつな)に討たれる霜月騒動(1285)が起こると、鎌倉幕府の統治権力はますます北条得宗家と御内人(北条氏の家来)に集中していきました。内管領というのは、御内人の筆頭格の北条氏の家人(家来)ですが、鎌倉幕府末期になると内管領の平氏と長崎氏が主家の北条氏以上の政治的影響力を振るうようになります。

霜月騒動では安達泰盛の子・安達盛宗も博多で討たれ、有力御家人の安達一族は滅亡します。九州・大宰府では霜月騒動の余波を受けた岩戸合戦が起こり、泰盛派の少弐景資(しょうにかげすけ)が兄の少弐経資(しょうにつねすけ)に討たれましたが、この一連の出来事によって北条氏・内管領が協調する得宗専制体制が確立しました。

13世紀半ばには、京都・朝廷でも皇位継承権を巡る大きな問題が起こっていましたが、その原因を作ったのは兄弟間で皇位相続をさせた第88代・後嵯峨天皇(在位1242-1246)でした。後嵯峨天皇(邦仁親王)は、承久の乱(1221)に関係していた順徳天皇の系統を嫌った3代執権・北条泰時によって天皇に擁立されたのですが、在位4年で第89代・後深草天皇(在位1246-1259)に譲位して院政を行います。

このまま後深草天皇の子どもへと直系男子の系譜によって皇位が継承されていれば内部対立の問題は起きなかったのですが、1259年に後嵯峨上皇は後深草天皇に『同母弟・亀山天皇(恒仁親王)への譲位』を強く迫りました。この時には朝廷の政治(院政)は鎌倉幕府の強い影響下にありましたが、第89代・後深草天皇第90代・亀山天皇(在位1259-1274)は同じ母親から生まれた兄弟であり、亀山天皇以降に皇位継承権を巡る対立が深まりこれが南北朝の遠因となります。後嵯峨天皇(上皇)は、1252年に第三皇子・宗尊親王(むねたかしんのう)を鎌倉に皇族将軍として送っており、崩御する間際には皇位と上皇位(治天の君)の決定権を幕府に委託していました。

後深草天皇の血統を『持明院統(じみょういんとう)』といい亀山天皇の血統を『大覚寺統(だいかくじとう)』といいますが、持明院統と大覚寺統の対立は、後嵯峨天皇が1268年に亀山天皇の子・世仁親王(よひとしんのう)を立太子したことにより始まります。

世仁親王は第91代・後宇多天皇(在位1274-1287)として即位しますが、世仁親王よりも年長であった後深草天皇(持明院統)の子・煕仁親王(ひろひとしんのう)が皇位に就けないことへの不満が高まります。後嵯峨天皇の遺志では、亀山天皇(大覚寺統)の血統に皇位を継がせていきたいという考えがあったようですが、後嵯峨帝の死後に後深草天皇側(持明院統)の反発が強まり、関東申次・西園寺実兼(さいおんじ・さねかね)と執権・北条時宗の交渉によって持明院統の煕仁親王が立太子されました(1275年)。

関東申次(かんとうもうしつぎ)というのは、公家の西園寺家が世襲した官職であり、『幕府との交渉』を受け持つ役割を果たしていました。西園寺家が関東申次の役職を世襲する前には九条道家がこの役職を担っていましたが、九条道家が名越光時の反乱の余波を受けて罷免される(1246)と、九条家から西園寺家へと関東申次のポストが移りました。煕仁親王は第92代・伏見天皇(在位1287-1298)として即位し、この後暫くは持明院統の優勢が続きますが、大覚寺統が皇位継承を諦めたわけではなく、持明院統と大覚寺統の確執と亀裂は深まる一方でした。

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元寇は第91代・後宇多天皇(在位1274-1287)の治世で起こりましたが、第92代・伏見天皇は自分の子の胤仁親王(たねひとしんのう)を皇太子にして第93代・後伏見天皇(在位1298-1301)として即位させました。この皇位継承を不満に思う大覚寺統と伏見上皇の持明院統との軋轢は強まり、大覚寺統は鎌倉幕府の北条氏に働きかけて、次の皇位を大覚寺統の皇子に継がせるように政治工作を図りました。鎌倉幕府はこの大覚寺統の訴えを受け容れて第93代・後伏見天皇の後には、後宇多天皇の第一皇子・邦治親王(くにはるしんのう)を第94代・後二条天皇(在位1301-1308)として即位させました。

鎌倉幕府は、持明院統と大覚寺統の両統の対立による『朝廷・西国の不安定化』を憂慮して、第94代・後二条天皇の後には持明院統の皇太子を立てることにし、その後は持明院統と大覚寺統の皇子を交互に即位させるように干渉しました。鎌倉幕府が朝廷の皇位継承の対立に介入して、持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の皇子を交互に天皇にするようにした政治調整のことを『両統迭立(りょうとうてつりつ)』と呼びます。この両統迭立によって朝廷の皇位継承は暫時的に安定しますが、朝廷の皇位継承や政治判断(債務帳消しの徳政令の強制)に介入してくる幕府に対する不満感情も強まります。また、両統迭立は『鎌倉幕府の事前の承認』によって進められたため、朝廷と幕府の間に立って交渉を司る関東申次の西園寺家が朝廷の実権を握るようになりました。

両統迭立の原則に従って、第94代・後二条天皇(大覚寺統)の後には、持明院統で伏見上皇の四男に当たる富仁親王(とみひとしんのう)が第95代・花園天皇(在位1308-1318)として即位しました。花園天皇が在位していた1317年に文保の御和談(ぶんぽうのごわだん)が行われて、持明院統と大覚寺統が交互に天皇を即位させる両統迭立が公式に確認されたとされていますが、近年の学説では『話し合い』のレベルに留まり『両統の実際の合意』は無かったとする見方もあります。両統の対立を緩和するために幕府から出された提案は以下のようなものでした。

鎌倉幕府の政治介入によって、花園天皇の皇太子は本来天皇になれる可能性が殆どなかった大覚寺統の傍流である尊治親王(後醍醐天皇)になります。第95代・花園天皇の次の天皇は、後二条上皇の第一皇子・邦良親王になるのが正統な皇位継承ですが、まだ幼少だった邦良親王に代わる『中継ぎの天皇』として第96代・後醍醐天皇(在位1318-1339)が即位することになりました。その為、後醍醐天皇の皇太子は大覚寺統(後二条帝の血統)の本流である邦良親王(1300-1326)と決まっていて、邦良親王がある程度成長すれば後醍醐天皇から譲位されることになっていたのですが、専制体制の維持と自分の血統に執着した後醍醐天皇は『邦良親王への譲位』に抵抗しました。

後醍醐天皇の父に当たる後宇多上皇は、後二条天皇の子孫に皇位を継承させる考えを持っていましたが、後醍醐天皇は後宇多上皇の院政を停止し幕府の介入にも反対して、自分の子孫の血統で皇位を継承しようとしました。結局、邦良親王は皇位を継がずに早逝し、大覚寺統の皇位は『南朝』の後醍醐天皇の血統で引き継がれていくことになります。邦良親王(大覚寺統)の没後には、持明院統の第93代・後伏見天皇の第三皇子・量仁親王(かずひとしんのう)が皇位を継ぐことになっていましたが後醍醐天皇は量仁親王にも譲位しませんでした。

幕府の両統迭立の介入に、宋学(朱子学)の立場に激しい憤慨を抱いていた後醍醐天皇は、二度の討幕計画(正中の変・元弘の変)を企てて失敗し隠岐島に流されます。討幕を計画した後醍醐天皇が廃され、その後を持明院統の光厳天皇(在位1331-1333,量仁親王)が継ぐことになります。光厳天皇は皇太子の康仁親王(1320-1355)と共に鎌倉幕府滅亡の時(1333)に廃位されますが、『北朝』の第一代天皇として数えられています。後醍醐天皇は元弘の変に失敗して配流された時にも退位を否定していますので、実質的には1331年から南北朝時代が始まったと解釈することも出来ます。しかし、一般的には、足利尊氏による光明天皇の践祚と後醍醐天皇の吉野南朝への遷都が行われた1336年から、室町幕府の3代将軍・足利義満によって南北朝が統一される1392年までを南北朝時代(1336-1392)と呼びます。

後醍醐天皇の討幕計画と鎌倉幕府の滅亡

元寇の危機を乗り切った第8代執権・北条時宗の後を継いだ第9代・北条貞時(1272-1311)は、霜月騒動で幕府の権力を専横するようになった内管領の平頼綱を『平禅門の乱(へいぜんもんのらん,1293)』で打倒します。鎌倉幕府の実権を掌握した北条貞時は得宗専制を強化して、引付衆を廃止し『裁判の迅速化』を目的とする専制的な司法制度を実施しました。鎌倉時代末期には貨幣経済の発達によって経済的に困窮する御家人が増えており、それに比例して土地の所有権を巡る所領紛争も増えていました。

北条貞時は『執奏(しっそう・1293-1295)』を活用した独裁的な直断(執権自らの決定的な判決)によって裁判を迅速化しましたが、多発する御家人たちの所領争いを解決することは無理でした。貞時の幕政改革としては、西国を外国船と反乱から防衛するための鎮西探題(ちんぜいたんだい)の設置(1296)、御家人を経済的な貧窮(借金)から救済するための永仁の徳政令(関東御徳政, 1297)があります。

しかし、『借金の帳消し・担保の土地の返還』を実現する永仁の徳政令には『質券売買地の禁止・土地処分権の制限』の項目があり、御家人がお金を借りることや所領を処分(売却・質入)することを困難にしました。その結果、更に御家人の経済生活を悪化させることになり、『御家人保護の目的(御家人の幕府に対する支持・忠誠の回復)』を達成することが出来ませんでした。

貞時は1301年に執権職を従兄弟の第10代・北条師時(ほうじょうもろとき,1275-1311)に譲りますが、師時は貞時の嫡子である高時が成人するまでの『中継ぎの執権』でした。師時が執権であった1305年には、北条氏の傍流で侍所所司と内管領を務めていた北条宗方(ほうじょうむねかた)が嘉元の乱(かげんのらん)を起こします。

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連署の北条時村を打った北条宗方は、得宗の執権・連署の地位を狙って反乱を起こしたとされますが、貞時・師時によって鎮圧されました。師時が早逝するとその後を、支流の第11代宗宣(むねのぶ)・第12代煕時(ひろとき)・第13代基時(もととき)が継ぎますが、この時代の幕府の実権は内管領の長崎高綱(ながさきたかつな 円喜,生年不詳-1333)に握られていました。

第14代・北条高時(1303-1333)は内管領の長崎高綱・高資に補佐されて幕政に着手しますが、13世紀末頃から既存の政治体制・社会秩序に反抗する新興勢力の『悪党(あくとう)』の活動が活発化しており、鎌倉幕府の全国に対する統治能力は低下し始めていました。北方では安東氏の反乱・蝦夷の反乱が勃発し、西国では悪党の荘園公領の侵犯や海賊勢力の跳梁などが起きており、鎌倉幕府の武力による安全保障とそれを支える御家人制度に大きな陰りが見え始めていたのです。

悪党とは何かというのを一義的に定義することは出来ませんが、悪党とは既存の政治支配体制である鎌倉幕府に反抗的であった新興階層(武装した勢力)であると考えることが出来ます。旧体制(鎌倉幕府の政治秩序)の周縁にいた『土着の武士勢力・蝦夷・海民・芸能民』などをまとめて悪党と呼ぶこともあり、悪党は日本の中世社会において貨幣経済や通商・流通の直接の担い手であることもありました。後醍醐天皇の討幕計画の中心を担ったのも反幕府的な悪党の勢力であり、大忠臣とされる河内国の楠木正成(くすのきまさしげ)や播磨国を拠点とする赤松氏(赤松円心)なども代表的な悪党とされています。また、中世の荘園公領制において本所(荘園領主)の土地支配権を実力で脅かした人たちのことも悪党といいます。

悪党の政治勢力が活発になっていた14世紀には、京都で後醍醐天皇が幕府転覆を計画する『正中の変(しょうちゅうのへん,1324)』を起こしましたが、京都朝廷の監視・治安維持を担当する六波羅探題によって未然に防止されました。両統迭立の幕府の介入に憤っていた後醍醐天皇は、側近の日野資朝(ひのすけとも)・日野俊基(ひのとしもと)らに諸国を巡らせて反幕府勢力を集めにかかりましたが、土岐頼有の父・斉藤俊幸の密告によって正中の変は事前に発覚して鎮圧されました。

正中の変は失敗しましたが、後醍醐天皇は自分は討幕計画に関わっていないと弁明して赦免して貰い、日野俊基や万里小路宣房(までのこうじ・のぶふさ)も許されました。しかし、首謀者とされた日野資朝は、鎌倉に連行され佐渡島に流されました。謀議に参加したとされる武将たちは処刑されました。後醍醐天皇の建武の新政において重要な役職を担うことになる伊賀兼光(いがかねみつ)も正中の変に参加していたと考えられていますが、当時の伊賀兼光は幕府側の六波羅探題の要職にあり、反幕府的な動きは幕府内部からも湧き起こっていたと推測されます。

第96代・後醍醐天皇(在位1318-1339)は宋学(朱子学)の大義名分論に基づく『君主専制(天皇専制・王道政治)』を理想として、朝廷の下部機関に過ぎない幕府から政治の実権を取り戻すために討幕を企てました。後醍醐天皇は朱子学と触穢思想によって『朝廷・天皇の政治権力の正統性』を強く信奉しており、悪党・海賊・非人・土豪など異類異形の新興勢力を結集して討幕を実現しようとしたのです。

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鎌倉幕府は後醍醐天皇が起こした元弘の乱(げんこうのらん, 1331)以降の戦乱の中で滅亡することになりますが、山城国笠置山で後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱そのものは短期で鎮圧されます。元弘の乱の計画も吉田定房の密告によって事前に六波羅探題が知るところになったのですが、この密告は幕府軍と戦っても勝てないと思った吉田定房が後醍醐帝の身を案じて行ったものと考えられています。

北畠親房(きたばたけちかふさ)・吉田定房・万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)は『後醍醐天皇の三房(さんぼう)』と呼ばれる側近の重臣でした。元弘の乱(1331)では後醍醐天皇の挙兵に応じて、比叡山延暦寺の天台座主を務めた子の護良親王(尊雲法親王・大塔宮,1308-1335)や河内国の楠木正成(生年不詳-1336)、播磨国の赤松則祐なども反幕府の兵を挙げますが、幕府は大仏貞直(おさらぎ・さだなお)、金沢貞冬(かなざわ・さだふゆ)、足利高氏(後の足利尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けてすぐさま鎮圧しました。下赤坂城に篭城した楠木正成だけは奇計・策略を巡らして幕府軍に激しく抵抗しましたが(赤坂城の戦い)、敗北を覚悟した楠木正成は自身で城に火を放って行方をくらませました。

元弘の乱を鎮静した鎌倉幕府は、すぐに大覚寺統の後醍醐天皇に代えて持明院統の光厳天皇(北朝の第1代,在位1331-1333)を即位させ元号も正慶(しょうぎょう)と改めました。この乱の処分で、日野俊基・北畠具行・日野資朝らを斬首され、後醍醐はまたもや隠岐島へ配流されました。

しかし、幕府との戦いに敗れた楠木正成と護良親王はまだ死んではおらず、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の気概を持って再起の機会を淡々と窺っていました。1332年11月に楠木正成は河内国金剛山にある千早城で挙兵し、ほぼ同時期に護良親王も大和・吉野で挙兵して各地に討幕の令旨を発しました。楠木正成は同年12月には赤坂城を奪回して、明くる1333年1月には六波羅探題の軍勢を摂津国・天王寺において破ります。

阿曾治時・大仏家時・大仏高直・名越宗教らが率いる幕府の大軍は、正成の家臣や護良親王の軍勢を打ち破って進軍しますが、楠木正成が守る堅牢な守りの千早城だけは陥落させることが出来ませんでした。幕府の猛攻を見事に耐え忍ぶ千早城(楠木正成の戦いぶり)を見た地方の武装勢力(悪党・土豪・海民)は、続々と後醍醐天皇方に味方するようになり、畿内・四国は混乱の様相を強めていきます。隠岐島を脱出した後醍醐天皇は名和長年(なわ・ながとし)を頼って、伯耆国(ほうきのくに)の船上山から討幕の綸旨を全国各地に発令しました。播磨国の赤松則村(あかまつ・のりむら・赤松円心,1277-1350)も大勢力を率いて挙兵し、六波羅軍を打ち破って京都へと進出しました。

続々と伝わる厳しい戦況に危機感を強めた鎌倉幕府は、足利高氏(尊氏,1305-1358)名越高家(なごえ・たかいえ)を大将とする軍勢を送り込んで京都を奪還しようとします。しかし、山陽道を進軍した名越高家は播磨の赤松一族の軍勢に破れ、山陰道を進んだ足利高氏のほうは所領のあった丹波国篠村八幡宮に入ると、何と鎌倉幕府(北条得宗)を裏切り反旗を翻します。

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軍事的才能に優れていた足利高氏(尊氏)は、赤松則村(赤松円心)やバサラ(新興勢力)の佐々木道誉(ささきどうよ)と結んで、北条仲時(ほうじょうなかとき)・北条時益(ほうじょうときます)が守っていた六波羅探題を攻め落とし京都を制圧しました(1333年5月7日)。戦いに敗れた北条仲時・北条時益は、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を奉じて関東(鎌倉)に落ち延びようとしましたが、時益は下向の途中で討ち取られ観念した仲時は蓮華寺で自刃しました。ここに幕府の京都支配の拠点であった六波羅探題が滅亡したのです。

幕府の本拠である難攻不落の鎌倉も、上野国生品明神で挙兵した新田義貞(にったよしさだ,1301頃-1338)が反幕府勢力を結集して稲村ヶ崎から激しく攻め込み陥落させました。最後の東勝寺合戦に敗れた北条得宗の第14代執権・北条高時や内管領の長崎高資、長崎高綱らは自害し、ここに北条氏の得宗専制によって運営された鎌倉幕府は滅亡しました。

九州・鎮西探題の北条英時(ほうじょうひでとき)らも、反幕府の少弐氏との戦いに敗れて自害することになりました。北条高時は1326年に出家して執権職を辞しており、幕府滅亡時の執権は第15代・北条貞顕(金沢貞顕)から譲られた第16代・北条守時(赤橋守時,1333年に戦いに敗れて自刃)でした。1192年に源頼朝によって開設された鎌倉幕府(東国政権)は、六波羅探題を足利高氏(足利尊氏)によって落とされ、鎌倉を新田義貞によって討伐されたことで1333年に滅びることになりました。

そして、その後は天皇親政を理想の政治形態と考える第96代・後醍醐天皇の『建武の新政(けんむのしんせい)』が開始されることになります。しかし、朝廷の公家勢力を重視して討幕に協力した武士勢力を軽視する建武の新政は、論功行賞の面において不平等であり長続きすることはありませんでした。再び、武士勢力の地位と権利を保護する武家政権=室町幕府の登場を待ち望む声が強まってくるのです。

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