江藤新平が目指した近代的な司法改革
山県有朋の軍制改革と徴兵制
『明治初期の太政官制と四民平等(身分制廃止)』の項目では、明治初期の政治機構の概略について解説しましたが、司法省は1871年(明治4年)7月9日に刑部省(ぎょうぶしょう)と弾正台(だんじょうだい)を統合して創設されました。初代の司法卿は空席であり、肥前藩士出身の佐々木高行(ささきたかゆき)が司法大輔(たゆう)に就任していました。佐々木高行は国家の秩序を定める法律規則の制定を急ぎ、東京の裁判所を司法省の管轄に置こうとしており、1871年9月27日に『明法寮(めいほうりょう)』を開設して本格的な司法省官吏のための司法教育をスタートさせます。江藤新平が司法卿に就任してから後も明法寮は法律作成のための調査研究機関(シンクタンク)として機能しますが、江藤が司法機構の近代化を急いだ背景には『西欧列強との間の不平等条約の改正』と『中央集権的な裁判所ネットワークの拡充』がありました。
肥前藩士出身の江藤新平(えとうしんぺい,1834-1874)は1872年4月25日に司法卿に就任して、司法権と行政権の分離を促す司法の近代化に乗り出し、地方(府県)の行政官が握っていた司法権を中央の司法省に取り戻すことを計画します。江藤は『立法・行政・司法の権力』を独立的に分散させるべきという近代西欧的な三権分立論者でした。江藤新平は議会を設置すべきという政府内の民権論者としても知られ、国民の知識水準を向上させるための『学制』の設置、身分差別を無くして国民の統合を前進させるための『四民平等(身分制度の撤廃)』の実施などにも力を尽くしています。身分差別の撤廃という点では、1872年10月2日に出された『娼妓解放令(牛馬解放令とも呼ばれる)』の公布にも関係しており、国家による治安維持のために警察制度の増強にも積極的でした。
1872年8月に『司法職務定制』を制定した江藤新平は、司法省権限に基づく裁判所ネットワークの拡大を図り、既存の裁判所を『司法省裁判所・臨時裁判所・出張裁判所・府県裁判所・区裁判所』の5種類に分類しました。臨時裁判所というのは、国政に関わる重要事項や裁判官の犯罪を取り扱う特別な裁判所であり、司法省裁判所が現在の最高裁判所・高等裁判所などに該当する上級裁判所と考えられていました。江藤新平は『司法権の独立性』を前提とした司法改革を行いましたが、中央集権的に裁判所を統制する意図が強かったこともあって、『司法卿・検事の権限と裁量』が『裁判官の権限と裁量』に干渉する部分が多くなっています。この『司法行政権の裁判官に対する優越』は、日本の司法制度において検察官・特捜部の権限が過度に強くなりやすい弊害を生む原因にもなりました。
江藤新平の強権的・急進的な司法改革は、司法省と大蔵省の利害対立を生み出し、国家財政・民政における強大な権限を持つ大蔵省は、府県の地方官から司法権を奪い取る『府県裁判所の設置』に反対しました。何故なら、地方の府県の民政は大蔵省の管轄下にあり、府県の地方官の司法権を削減することは、大蔵省の権限の縮小につながる可能性が高かったからです。江藤は1872年11月28日に、司法省達によって国民が行政機関(府県)を訴えることができる『行政裁判制度』を創設しましたが、江藤の改革手法には専制的・権威的な上からの開発独裁の側面と民主的・先進的な近代的な制度導入の側面との両面がありました。1872年8月の司法職務制定よって、近代的な弁護士制度が導入されることになり『代言人(後の弁護士)』という職業が生まれましたが、1876年4月に代言人の免許制度が導入された当初は代言人のほとんどは士族出身者で占められていました。1893年3月には、『弁護士法』が制定されて、近代的な弁護士制度の法的整備が行われることになります。
民法編纂や国法編纂も行った江藤新平は『近代的な司法制度の整備・改革』に大きな働きをしたのですが、前途有為に見えた江藤の未来に暗雲が差し始めるのは、『征韓論』にまつわる対立を理由にして佐賀県へと下野した1873年(明治6年)でした。この朝鮮半島に出兵するか否かの『征韓論論争』に関係する『明治六年の政変』では、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣らも郷里に下野していますが、西郷も江藤処刑語の1877年(明治10年)に『西南戦争』で決起して官軍に破れることになり死去しています。明治7年(1874年)1月10日に愛国公党が結成された時には、江藤新平も板垣退助らと共に1月12日に『民撰議院設立建白書』に署名しています。
佐賀の『征韓党』の首領に擁立された江藤新平は、『憂国党』の島義勇(しまよしたけ)と結んで、1874年2月16日に不平士族の反乱の一つである『佐賀の乱』を起こします。しかし、武装蜂起した当初こそ反乱軍は佐賀城を奪い取る戦果を上げたものの、大久保利通率いる官軍が駆けつけてくると近代兵器の充実度(火力)と兵力の違いもあって敗戦に追い込まれます。戦場から命からがら退避した江藤新平は、西郷隆盛・林有造・片岡健吉といった反政府感情を持っていると思しきメンバーに『一緒に武装蜂起して反乱に加わって欲しい』と請願しますが、説得することはできず拒否されてしまいます。
江藤新平は指名手配写真(指名手配制度は司法卿だった江藤自身が創設したものであるが)の手がかりによって追い詰められ、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛されて佐賀へ送還されます。江藤は佐賀裁判所において司法省時代の部下・河野敏鎌(かわのとしかま)によって判決を下され、享年41歳で処刑されて梟首(晒し首)にされました。近代的な司法改革に取り組んだ江藤新平の生涯は、士族反乱である『佐賀の乱』の失敗によってあっけなく幕を閉じることになったのです。
明治の元老の一人である長州藩の山県有朋(やまがたありとも,1838-1922)は吉田松陰の松下村塾の出身者であり、『国軍(日本陸軍)の父』とも呼称されるように、近代日本の軍制改革・軍事政策に非常に大きな影響を与えた人物です。幕藩体制の中では出身身分が低くて活躍の機会を見出しにくかった山県有朋ですが、高杉晋作(たかすぎしんさく)が創設した実力主義の『奇兵隊』でその頭角を現し、軍人政治家としては自分よりも先輩格であった高杉晋作・久坂玄瑞(くさかげんずい)などの死を受けて、長州軍閥の中心的人物の地位にまで上り詰めます。長州藩出身の維新の功労者で最大の影響力を持ったのは、言うまでも無く西郷・大久保と並んで『維新の三傑』の一人に数えられる木戸孝允ですが、元々身体虚弱な所があった木戸は1877年に山県よりも早く死去しています。
1922年まで長生きした山県有朋は『元老中の元老』と呼ばれるほどの重鎮となって、政界・官界に圧倒的な存在感を示しますが、明治初期には少なくとも元勲の木戸孝允や兵学者の大村益次郎(おおむらますじろう,1824-1869)といった長州藩出身の先輩がいました。厳密な意味での『日本陸軍の創設者』は、長州征伐と戊辰戦争で兵学者としての実力を発揮して初代の兵部大輔となった大村益次郎です。1869年(明治2年)6月には、新政府の直轄軍である官軍の編成を『藩兵(士族)』にするか『徴兵制(一般国民)』にするかという兵制論争が起こります。長州閥である木戸孝允・大村益次郎・山県有朋は『農兵論・徴兵論』を主張し、薩摩閥である大久保利通・吉井友実・西郷隆盛は『藩兵論・士族活用論』を主張して対立したのですが、この兵制論争では戊辰戦争に功績のあった鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)の士族の兵力を官軍(正規軍)として活用するということで、薩摩閥の藩兵論のほうに軍配が上がりました。
明治初期には農民・庶民を徴集して軍隊にする『徴兵制』というのは、軍事・防衛の専門家として俸禄(給料)を得ていた『士族(旧武士階級)』から見ると、自分たちの社会的役割や存在意義(プライド)を奪う好ましくない軍事制度であり、士族の不満を和らげて失業を防止するためには薩摩閥の主張する『藩兵論』を採用する必要があったのです。当時は国民アイデンティティも確立されておらずナショナリズムも台頭していないので、一般庶民の側も『徴兵・兵役』によって行動の自由を奪われたり戦死のリスクを負いたくないという人が多く、その意味では『藩兵論(士族の国軍化)』というのは士族にも平民・農民にも支持される考え方でした。
1869年(明治2年)9月4日に、『農兵論(徴兵論)』を強く主張していた大村益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲撃されて重傷を負い、その後死去しましたが、大村の徴兵制構想は山田顕義や山県有朋に引き継がれました。しかし、西欧列強の精強な常備軍の多くは徴兵制によって集められた『国民皆兵の軍隊』であり、西欧諸国の軍制を視察してきた山県有朋は日本国軍(政府軍)を強化するためには、絶対に徴兵制(国民の兵役)の導入が必要であると考えていました。
兵部少輔(しょうゆう)となった山県有朋は1870年11月に、『徴兵規則』を定めて強引に条件つきの徴兵制(身分を問わない募兵制)を敷こうとしますが、1871年6月に薩摩・長州・土佐の士族の『御親兵』が廃藩置県の断行に備えて上京してきたため、山県は徴兵規則の実施を断念せざるを得ませんでした。1871年7月に廃藩置県が終わると兵部省改革によって『陸軍掛(りくぐんがかり)』と『海軍掛』とに分割され、統合的な軍令機関として陸軍参謀局も創設されました。薩長土の三藩兵によって占められていた『御親兵』も、1872年3月には鎮台兵から兵士を選抜する『近衛兵(このえへい)』へと改正され、藩兵が正規軍として活用される部署は減っていきます。1871年12月24日には、兵部大輔・山県有朋、兵部少輔・川村純義(かわむらすみよし)と西郷従道(さいごうつぐみち,隆盛の弟)の連名で、『国民皆兵の徴兵制・海軍防備の充実・士官養成と兵器製造』を提起する『軍備意見書(帝政ロシアの侵略に備える意見書)』が太政官に宛てて出されています。
1872年(明治5年)11月28日に『全国募兵の詔(みことのり)』と『太政官の告諭(こくゆ)』が公布され、古代天皇制の郡県制が復活したことと四民平等となった国民の平等な兵役義務を根拠として、『全国四民男児20歳に至る者は尽く(ことごとく)兵籍に編入し、以って緩急の用に備ふべし』という国民皆兵の原則が示されました。1873年1月10日に『徴兵令』が正式に告示されて、具体的な徴兵の手続きが発表されましたが、ここで注意すべきなのは当時徴兵制を採用していた西欧列強(フランス・ロシア・プロイセン)でも日本でも『徴兵対象者に占める兵役免除者の比率』が非常に高く、実際には明治時代の段階では『兵役に従事しない国民の数(各種の兵役免除要件に合致する国民)』のほうが多かったということです。絶対君主である皇帝の専制政治(独裁政治)が行われていたロシアでも、徴兵対象者のうち30%程度を徴兵できたに過ぎず、近代国家が標榜した『国民皆兵の徴兵制』というのは建前と実質の分離が激しい制度だという特徴も指摘されます。
明治の徴兵令による日本陸軍は『常備役・後備役・国民軍』から成り立っていますが、実際に兵士として徴兵されるためには身長・健康・長男や養子以外の男子など各種の審査基準を満たしていなければなりませんでした。兵役の免除要件としては、『身体虚弱・身長が5尺1寸未満・官吏・陸海軍学校の学生・指定される学校の学生・戸主と長男(家督相続者)・家長の役割を果たしている男子・養子・犯罪者・兄弟が徴兵されている者・代人料270円を納めた者』などがあり、一般庶民・農民の中には兵役忌避のために戸籍改竄や養子縁組、偽の診断書作成などをするものまで現れました。いずれにしても、江戸時代までは平民・農民には兵役義務はなく、軍事・兵役は武士(士族)の専売特許の仕事であるという認識が一般的だったので、徴兵制の実施に対しては激しい拒絶反応が起こりました。
農民・平民の義務としての『納税』を行っている以上、それ以上の国民の義務として死の危険もある『兵役』を科される謂われはないということで、西日本では血税反対一揆なども起こりましたが、実際には明治の徴兵制の免役率(免除率)は極めて高く西南戦争後の1878年には92.3%にも達したといいます。中村哲『集英社版 日本の歴史16 明治維新 第三章近代化政策の展開のp125の記述』によると、徴兵対象者の8~9割は免除となり、実際の入隊率は3~4%に過ぎなかった(貧農の次男・三男を中心とした人口比0.11%の3万5320人の陸軍)とあり、山県有朋の構想した国民皆兵の外征型軍隊というのはまだ現実のものとはなっていませんでした。徴兵制の具体的な解説や参考文献については、『Wikipediaの徴兵制』の項目も読んでみてください。
明治時代の徴兵制で兵士として実際に徴集されたのは貧しい農家の次男坊・三男坊などであり、比較的富裕な家の子息や良家の子弟は徴兵制とは全く無縁であり、家柄・身分が高くなくて財産が無くても長男・養子だったり病弱だったりという理由で兵役を免除されることが出来たのでした。昭和の時代に入って世界大戦(アジア・太平洋戦争)の本格化やナショナリズムの熱狂を迎えると、また徴兵制の様相は異なってきて一億玉砕と言われる悲壮な国民皆兵の総動員体制が取られることになるのですが、明治時代の段階では軍国主義化に向かう制度的起点(徴兵令)が作られたに過ぎなかったのです。山県の死後の1927年(昭和2年)には、『徴兵令』が全面改正されて、より国民に対する捕捉力・統制力の強い『兵役法』が施行されます。
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