西郷隆盛の西南戦争と産業政策・地方制度改革

士族の反乱と西郷隆盛の西南戦争


内国勧業博覧会と地方制度(町村)の改革

士族の反乱と西郷隆盛の西南戦争

『江藤新平の司法改革と山県有朋の軍制改革』の項目では、江藤新平が起こした反政府行動である『佐賀の乱(1874年)』に触れましたが、1873年(明治6年)の『明治6年の政変』の後には、特権・仕事(軍事)・俸禄を奪われた不平士族たちの明治政府打倒の気運が次第に高まってきます。西郷隆盛・江藤新平・板垣退助ら明治政府(留守政府)の首脳陣たちが、一斉に職を辞して故郷へと下野する明治6年の政変のきっかけとなったのは『征韓論論争』でした。西郷隆盛(1828-1877)は、朝鮮使節の派遣によって『鎖国攘夷政策』を採っている興宣大院君(こうせんだいいんくん)が統治する李氏朝鮮を開国させて国交を結ぼうとしました。

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西郷隆盛が支持した『征韓論』は“武力”によって李氏朝鮮を開国させようとしたのか、“交渉”によって開国させようとしたのか解釈は分かれますが、西郷の征韓論は『岩倉使節団』の外遊中に重大な政治決定を下すことはできないとして、明治政府(明治天皇)から拒否されます。正確には、一度は西郷隆盛を全権大使として李氏朝鮮に派遣することが閣議決定したのですが、それに反対する岩倉具視や大久保利通らによって『無期限の派遣延期』となりました。西郷隆盛が朝鮮半島へと進出する『征韓論』を強く唱えた背景には、失業者(浪人)が増大して反政府感情が高まっている士族に、仕事や活躍の機会を与えたほうが良いという『士族救済』の思惑もあったようです。

江戸時代には社会の支配階層であった武士ですが、明治政府が成立すると四民平等や徴兵制の政策が推進されていくことで『苗字・帯刀・俸禄(収入)・軍事の仕事』などの武士の特権・収入源を次々に失っていきました。1872年に法律的に『四民平等』が公布されて支配階級としての公的身分を失い、1873年に『徴兵令』が施行されて士族の軍事・防衛の独占が崩れ、1876年に『帯刀禁止令』が出されて士族としてのアイデンティティも喪失の危機に陥ってしまいます。

1876年8月には『金禄公債発行条例』によって秩禄処分が行われ、安定的・恒常的な収入源を失った士族は生活が困窮することになり、明治政府に対する反発と怒りを募らせていきます。秩禄処分(ちつろくしょぶん)で俸禄が廃止された時には、士族に雀の涙ほどの一時金が支給されましたが、商売に慣れない士族たちは(士族のすべてが貧乏になったわけでは当然ありませんが)『武士の商法』によって資産を失っていったのです。1884年には『華族令』が出されて大名・公家の身分保障や爵位授与が為されましたが、明治維新に特別の勲功が無い一般の士族は何の恩恵も受けることはありませんでした。

『明治六年の政変』では、征韓論に賛成する西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋らと、征韓論に反対して国力の充実と不平等条約改正を優先する大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、大隈重信、大木喬任、黒田清隆らとが対立する構造が浮かび上がりました。西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平らは征韓論論争に敗れて、それぞれ郷里に下野していきますが、下野した政府首脳人の中で『武力=士族反乱』によって政府に対抗する者と『言論・議会設立の要請=自由民権運動』によって政府に対抗する者とが分かれていきます。不平士族を糾合した『武力・反乱』に訴えて政府転覆を図ろうとしたのが、江藤新平や西郷隆盛、前原一誠らですが、彼ら不平士族の反乱はすべて、新政府の近代化されつつあった武力(農民・庶民から徴兵された軍隊)によって鎮圧されました。

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『武力・反乱』によって、明治政府に士族の要求・大義を強制するという不平士族の計画は脆くも崩れ去り、明治維新を成し遂げた士族の象徴であり、新政府の重鎮・元老でもあった西郷隆盛が『西南戦争(1877)』の城山の戦いで死去したことによって士族反乱は終焉を迎えます。西南戦争以前にも、明治7年(1874年)に江藤新平・島義勇(しまよしたけ)が起こした『佐賀の乱』、明治9年(1876年)に熊本県で起こった太田黒伴雄(おおたぐろともお)・加屋霽堅(かやはるかた)らを首領とする『神風連の乱』、福岡県で起こった宮崎車之助(みやざきしゃのすけ)をリーダーとする『秋月の乱』、明治政府の大物であった前原一誠(まえはらいっせい)が山口県で起こした『萩の乱』などがありました。

明治10年(1877年)に鹿児島県(旧薩摩藩)で、明治維新に最大の功績を持つ英雄・西郷隆盛を首班とする『西南戦争』が勃発しますが、西郷は『私学校(鹿児島県にあった士族の塾・政治集団)』に擁立されて決起したという趣きが強く、西郷自身には明治政府と武力衝突する明確な意志は無かったとも言われています。鹿児島県の私学校の生徒が、なぜ政府に反乱を起こしたのかという説には、『西郷暗殺説』や『政府転覆説』など色々な説があります。西南戦争では当時明治維新を実現した最強の精鋭とされていた『薩軍』が、徴兵された農民・庶民で構成される鎮台の兵士『官軍』に破れることになり、武力に基づく士族反乱の時代は終わりを迎えます。 明治7年(1874年)1月10日には、板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らによって日本初の政党である『愛国公党』が結成されていますが、板垣退助らは1月12日に『民撰議院設立建白書』を政府に提出して議会の設立を要請します。不平士族の武力反乱は西南戦争の挫折によって完全に鎮圧されることになりましたが、『武力・暴動』ではなく『言論活動・議会政治』によって有司専制(官僚独裁)を改革しようとする板垣退助に代表される『自由民権運動』が盛んになってきます。武力によって有司専制の藩閥政治(=明治政府)を転覆させることは最早不可能となりましたが、国会開設や憲法制定を要求する『自由民権運動』によって、内部から明治政府を変革していこうとする運動が勢力を増していくことになります。

天賦人権論の立場に立脚する板垣退助・後藤象二郎らの愛国公党は、薩長藩閥が有司専制(官僚独裁)で支配する現状の政府を強く批判して、選挙を実施して民撰議院(議会)を開設することを要望し、天皇と臣民が一体となって国家を盛り立てる『君民一体・立憲主義・議会政治』の政治体制に理想を求めました。

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内国勧業博覧会と地方制度(町村)の改革

明治政府の中央集権的な政治体制が確立してくると、産業の振興や技術の改良が国策上の重要な課題となり、内務省の内務卿・大久保利通(おおくぼとしみち)は西南戦争が起こっていた1877年8月21日に上野公園で『内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)』を開きました。内国勧業博覧会に出品された物品・工芸品・機械などの総数は8万4353点であり、1万6172人の人員が出品作業に携わりましたが、8月21日から11月30日までの102日間の期間で45万4千人の入場者が集まるという盛況ぶりでした。エキスポ・ウエノとも言えるこの第一回内国勧業博覧会は、西南戦争に必ず勝利できるという政府の自信と国内の産業・技術を進歩させることで国家の経済力を強化できるという合理的な見通しの元に開催されました。

パリ万博のエッフェル塔に相当する高さ9メートルのアメリカ式の風車が建設されたり、左右対称の西欧風のお洒落な美術館が建造されたり、各種の技術・機械・工芸品・動物などを展示する機械館・動物館・園芸館・農業館などが作られました。内務卿・大久保利通の強い勧めによって開催されたこの内国勧業博覧会は、1851年に開催されたロンドン万博の流れを汲む近代的な博覧会であり、富国強兵の『富国』、つまり、産業の発展と技術の革新を目的にしたものでした。1862年のイギリスで開催されたロンドン博では、ガラスと鉄骨だけで組み立てられたモダンな『クリスタル・パレス』が話題になったりしましたが、日本が本格的に政府を挙げて参加した万博は1873年のウィーン万博であり、日本の漆器・陶磁器・織物・七宝といった工芸品が世界的にも高い評価を受けるきっかけとなりました。

明治政府は博覧会や万博といった大規模なイベントを活用して、西欧列強の最先端の産業技術や機械製品の導入を図ろうとします。しかし、内務省が中心となって進めた『殖産興業・産業の近代化』は、1877年の内国勧業博覧会の段階ではまだまだ十分ではなく、出品された品物は前近代的な『伝統工芸品』がほとんどで、近代的な『機械類・先端技術』の姿は余り見られませんでした。旭玉山(あさひぎょくざん)が出品した精巧な鹿牙彫(しかげちょう)の『人体骨格(骨格標本)』は当時の高度な工芸技術を思わせるものでしたが、機械工学の分野で傑出した出品としては長野県の臥雲辰致(がうんたっち)が発明した綿糸紡績機の『ガラ紡』がありました。ガラ紡は使う時にガラガラと音が出ることから名づけられた名前ですが、ガラ紡は紡錘作業と捲き糸作業を同時的に行うことができる当時としてはかなり画期的な機械製品でした。

当時の地方政治は、区長・戸長の腐敗や地租改正による重税に対して地方の民衆の不満が強まっており、地租改正に関連した不正な搾取・蓄財をする戸長に対して農民たちが『戸長征伐』と呼ばれる一揆を起こすこともありました。中央政府の権威を維持するために『地方制度改革』の急務を意識していた大久保利通は、1878年3月に『地方自治・地方議会設立』を趣旨とする改革案を太政大臣・三条実美に提出しています。地方の共同体・村落を中央政府が強制的に統制・監視し過ぎると、地方住民の政府に対する反発や責任追及の声が高まりすぎるので、大久保利通は一定の範囲の中で地方の村落に自治権を認めようとしたのであり、これは明治初期の廃藩置県後に定められた『大区小区制』からの転換を図るものでもありました。

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1878年7月22日には、『郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則』地方新三法を制定して、地方制度の改革が行われることになり、旧来的な村落共同体を解体して中央集権的な『区』に再編しようとした『大区小区制』が実情・住民感情に合わないとして廃止されます。こうして伝統的な町村の部分的な復活が進められることになり、大区小区制で割り当てられていた機械的な番号による区画整理は廃止されて、伝統的な町村・村落の名称と区分が復活したのです。廃藩置県が断行された後の1876年には、大規模な統廃合が行われて3府39県にまで地方自治体の数は減っていましたが、地形・風俗・文化・方言・生活習慣などの違いを重視して、再び伝統慣習に依拠した『県』が新たに分離することになりました。

区と区長が廃止されて地方行政の階層は『県(県令)‐郡(郡長)‐町・村(戸長)』へと再編されましたが、一定の地方自治を認めるということで町・村の戸長は住民選挙で選べるようになりました。しかし、戸長を管理統制するために、政府は新たに地方行政官である『郡長』を派遣することを決め、郡長と戸長は官吏として『戸籍管理・納税・徴兵・学校運営・公衆衛生・法律の布告』などの地方行政に責任を持つことになったのです。『府県会規則』によって制限選挙・記名投票ではあるものの地方議会も開設できるようになり、『地方税規則』により地方税の配分において町・村の自由裁量の範囲が以前よりも格段に増えることになりました。

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