清朝・李氏朝鮮の近代化の挫折と福沢諭吉の脱亜入欧(脱亜論)

福沢諭吉の脱亜入欧と近代化に挫折した清朝末期の歴史


李氏朝鮮の甲申政変と日本の帝国主義への接近

福沢諭吉の脱亜入欧と近代化に挫折した清朝末期の歴史

『西郷隆盛の西南戦争』の項目では、近代日本(明治政府)が不平士族の反乱を鎮圧して、中央集権国家としての統合性を高めていく過程を説明しました。戊辰戦争・明治維新を経由する日本の近代化は、『西欧列強による植民地化の危機感』によって強力に動機づけられました。西南戦争が終わって日本の集権化と文明化が進展してくると、『東アジアで連帯して西欧列強に備えるか、西欧諸国と同じ帝国主義に参加するか』が国家の主要な外交政策の判断として立ち上がってきますが、ここで影響力を持ったのが福沢諭吉の『脱亜論(だつあろん)』でした。

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慶應義塾大学を開設したことでも知られる福沢諭吉(ふくざわゆきち,1835-1901)は、1882年(明治15年)に日刊紙の『時事新報(じじしんぽう)』を創刊して、1885年(明治18年)3月16日の無署名の社説で、東アジアの国(清朝・李氏朝鮮)から日本は離脱して西欧化すべきだという『脱亜論(脱亜入欧)』を主張したのでした。『脱亜入欧(だつあにゅうおう)』という理念は、旧来的(封建主義的)な慣習・制度・文化にしがみついて近代化のプロセスを進むことができない『清(中国)・李氏朝鮮との連帯』から離脱して、先進的な西欧列強に並び立つ近代国家を日本を目指そうという理念でした。

福沢諭吉は、清・李氏朝鮮が日本のような『明治維新』による国政・文化・技術・軍隊の大変革を起こせなければ、遠からず西欧列強の帝国主義によってその領土を分割されることになると予見し、まだ十分な国力を持たない日本には清・李氏朝鮮の近代化を待つ余裕はないと述べました。イギリスとのアヘン戦争(1840年)を契機に不平等条約を押し付けられるようになった清朝(中国)でも、高級官僚の曽国藩(そうこくはん)・李鴻章(りこうしょう)・左宗棠(さそうとう)・劉銘伝(りゅうめいでん)・張之洞(ちょうしどう)らが中心となって、中華文明の伝統的な本体を維持しながら西洋諸国の先進的な科学技術や強力な軍制を導入しようとする『洋務運動(西用中体の思想)』が1860年代~1890年代にかけて推進されました。

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しかし、頑迷固陋な清王朝の後進性を決定的に打開することに失敗することになり、1894年の『日清戦争』で日本に敗れて中華帝国の多くの領土・利権を失うことになります。清朝の近代化の努力は光緒帝(こうちょてい)の全面的な支持を受けて、若い官僚である康有為(こうゆうい)・梁啓超(りょうけいちょう)・譚嗣同(たんしどう)らの変法派が実施しようとした『戊戌の変法(変法自強運動の成果)』にまで続きますが、旧来の封建主義体制(中華思想に基づく冊封体制)を維持しようとする西太后(せいたいごう)による『戊戌の政変(クーデター)」によって近代化推進の変法自強運動は挫折することになります。

日本の明治維新をモデルとした清朝の『戊戌(ぼじゅつ)の変法』は、光緒24年(1898年の戊戌の年)4月23日から8月6日まで続いたので『百日維新』と呼ばれることもあります。その後の清朝の歴史は『西欧列強と日本による半植民地化(領土分割)』へと斜陽の季節を迎えることになりますが、『扶清滅洋(ふしんめつよう)』をスローガンに掲げた民族主義的な反西洋列強・反キリスト教の抵抗運動である『義和団事件・義和団の乱(1899年)』を経て、1911年に日本と深い交流のあった孫文(そんぶん,1866-1925)を首班とする『辛亥革命(しんがいかくめい)』が武昌放棄をきっかけにして勃発します。

清朝は中国全土を巻き込んだ義和団事件によって八ヶ国連合軍に北京を占領されてしまい、各国と調印した『北京議定書』で外国軍の北京駐留を容認せざるを得なくなりました。その後、独立国家としての主権を失いつつあった清朝は、大急ぎで科挙(能力本位ではない官吏採用試験)の廃止、六部(行政機構)の解体再編、独自憲法の発布や国会開設の計画、軍機処の廃止による内閣設置など近代化政策を実施しようとしましたが、1911年の辛亥革命による清朝崩壊を回避することは出来ませんでした。1911年10月10日に、孫文に共鳴する革命勢力が武昌蜂起を引き起こして中国全土に革命が拡散し、1912年1月1日に南京を首都とする『中華民国(ちゅうかみんこく)』が樹立しました。清朝の最後の皇帝(ラストエンペラー)となった宣統帝・溥儀(せんとうてい・ふぎ,1906-1967)は、1912年2月12日に退位することになり清は滅亡しました。

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李氏朝鮮の甲申政変と日本の帝国主義への接近

福沢諭吉が何よりも落胆して脱亜論を唱えるようになったきっかけは、両班(やんばん)と呼ばれる官僚支配体制が続く李氏朝鮮(りしちょうせん,1392-1910)で、『甲申政変(こうしんせいへん,1884年12月)』と呼ばれる体制転覆のためのクーデターが失敗に終わったことでした。『甲申政変(甲申事変)』は日本とも関係の深い朝鮮のクーデターであり、日本公使もこのクーデターに協力していました。

福沢諭吉や大隈重信ら日本側の政界・財界の大物も、李氏朝鮮を立憲君主国へと体制転換することで近代化を推進しようとする『独立党(開化派)』金玉均(キム・オッキュン)・朴泳孝(パク・ヨンヒョ)・徐載弼(ソ・ジェピル)・徐光範(ソ・グワンボム)らと何度も接触を重ねていました。日本は独立党の目指す『李氏朝鮮の近代化・清朝の属国からの独立』を支持していましたが、金玉均らの『独立党(開化派)』と閔妃(びんひ)らの『事大党(守旧派)』の対立は深刻でした。

『事大党』というのは、清朝という大国に事える(つかえる)党という意味です。『壬午軍乱(じんごぐんらん,1882年)』で君主の興宣大院君(こうせんだいいんくん)が清へ連れ去られた後に、李氏朝鮮の政治権力を掌握したのは閔妃一族でした。閔妃らは中華思想・冊封体制における宗主国(大国)である清朝に服属することで李氏朝鮮の体制維持を図ろうとしていましたが、金玉均ら独立党(開化派)は日本のような近代化を成し遂げて、立憲君主国となった李氏朝鮮が清朝(中国)から独立することを目標にしていました。李氏朝鮮に駐留していた日本公使・竹添進一郎(たけぞえしんいちろう)も、『清仏戦争(1884-1885)』を戦っている清朝が朝鮮に大軍を送る余裕はないと見て、独立党(開化派)にクーデターの決行を勧めていました。

金玉均・朴泳孝らの独立党(開化派)は、1884年12月4日に郵政局(行政機関の郵征総局)開設のパーティーに集まった政府要人を襲撃するクーデターを起こします。国政を壟断(ろうだん)していた閔一族の数人(閔妃は生存して独立党に復讐を果たすが)を殺害し、王宮を占領して近代的な政治制度・国家理念を備えた新政府の樹立を宣言しました。しかし、事大党と閔妃の援軍要請を受けた清朝がすぐに袁世凱(えんせいがい)率いる軍隊を派遣して、李載元・金玉均・朴泳孝らの新政府の軍隊は清朝の軍にあっけなく敗れてしまいます。李氏朝鮮の近代化という重要な使命を果たそうとした金玉均の新政府は、清朝の軍事介入によりわずか3日で崩壊することになりますが、清軍に新政府が全く対抗できなかった要因の一つとして、王宮護衛(新政府防衛)に協力すると言っていた日本公使・竹添進一郎や日本軍が清軍と戦わずに撤退してしまったことがあります。

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中国・朝鮮半島の近代化の挫折を見た日本は『東アジア諸国との連帯(対西欧列強のアジア同盟)』を諦めて、『脱亜入欧』のスローガンを掲げるようになります。西欧列強のように朝鮮半島・中国大陸に進出することで、日本の国防の防衛戦を外へと拡張していこうとするのですが、当時の日本の首脳陣・知識人の心理には、『帝国主義的なアジアへの野心』以上に『西欧列強によるアジア植民地化への危機感』があったと推測されます。

脱亜論を唱えた福沢諭吉は1890年代から、朝鮮半島を文明化・近代化するという大義名分を掲げた『朝鮮改造論』を主張するようになりますが、この朝鮮改造論は無知で野蛮な民族にキリスト教の文明的な真理を伝導するという『キリスト教カトリックの布教思想=カトリシズム』との相似性を感じさせます。そういった東アジア地域への啓蒙的な進出(結果としての侵略)を肯定する西洋的な文明優位思想(自民族中心主義)のロジックが、『日清戦争(1894年)』『朝鮮併合(日韓併合,1910年)』の軍事的な政治判断へとつながっていくことになるのです。

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