朝鮮の甲午農民戦争と清国・日本の朝鮮出兵
日清戦争の展開・下関条約の締結・ロシアの三国干渉
『清・李氏朝鮮の近代化の失敗』の項目では、日本が後進的だった当時の東アジア諸国との同盟を諦めて、西欧列強の帝国主義へ接近していくプロセスを説明しましたが、日本・清・ロシアの間で『李氏朝鮮(朝鮮半島)の領土』を巡る地政学的な野心が高まりを見せていました。1894年~1895年にかけて起こった『日清戦争』は、近代日本が初めて戦った本格的な外国との戦争でしたが、日清戦争の原因を生んだのは李氏朝鮮内部の反乱である『甲午農民戦争(東学党の乱,1894年)』でした。甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は以前は、東学の信者が主体となって起こした反乱ということで『東学党の乱』と呼ばれていましたが、現在では反乱の主体は東学の信者ではなく一般の農民であったということから『甲午農民戦争』という名称で呼ばれています。
『東学』というのは、西学(キリスト教)に対置するという意味を持つ『朝鮮の開明的な学問・宗教』のことを意味しており、この李氏・閔氏による封建主義的な統治体制を批判する東学の教団は、1860年に崔済愚(チェジェウ)によって創設されました。崔済愚の後を継いだ二代目教主・崔時亨(チェシヒョン)によって朝鮮南部に東学は浸透していきましたが、儒教・仏教・道教(仙道)を折衷した東学の教義の中心にあるのは『人乃天(ひとすなわちてん)』という反封建的な万民平等思想であり、朝鮮の自主独立や人間の解放を目指す近代啓蒙思想としての求心力を持っていました。
1894年2月に、全羅道(チョルラド)の古阜郡(コブ)で郡主の重税や横暴(不当な刑罰)に激昂した農民・民衆が反乱を起こしますが、東学教団の全俸準(チョン・ボンジュン)が指導者として頭角を現したこともあり『甲午農民戦争』は朝鮮全土へと飛び火していきました。全俸準の正しい『俸』の字は、『にんべん』ではなくて『おうへん(王)』になります。1894年5月31日には、全羅道の道都である全州(チョンジュ)が農民軍によって占領され、李氏朝鮮の各道から地方官が追放されました。拡大する甲午農民戦争を、自力で鎮圧することが出来ないと見た李氏朝鮮の政府(閔氏)は、清国に援軍を要請します。清は日本と結んでいた『天津条約』に従って日本に軍隊の派遣を通告し、ただちに朝鮮へと向かうのですが、この清軍の派遣を見た日本も軍隊の派遣を清に通告して軍を朝鮮に送ることになります。天津条約は甲申政変の後の1885年4月に締結された条約ですが、この1894年6月の清と日本の朝鮮出兵は『朝鮮半島の利権確保』を目的にしたものでした。
清の朝鮮出兵を見た日本の陸奥宗光外相(むつむねみつ,1844-1897)は、朝鮮半島に日本が進出する絶好の機会とこれを捉え、6月2日の閣議で朝鮮半島にある公使館・領事館・在外邦人を守るために日本軍の派遣を提起します。さっそく大鳥圭介公使(おおとりけいすけ)が率いる陸軍兵士400名以上を載せた軍艦・八重山を6月10日にソウル派遣します。広島の第五師団を元にして8,000人規模の混成部隊が編制されて、6月8日には1個大隊800人が宇品港を出て朝鮮半島に向かいました。清の軍隊約2,100人も、6月8日頃から牙山を拠点とする忠清道に駐屯を始めており、朝鮮に上陸した日本軍との緊張が高まっていました。
清だけではなく日本も軍勢を派遣したことに驚いた農民軍と李氏朝鮮の政府軍は、『外国の軍事介入+実効支配』を回避するために6月10に『全州和約』を結んで和解し、清軍と日本軍に撤退を求めます。全州和約では一時的にですが、農民の反乱軍の側の要求が受け容れられて、『執綱所(しっこうじょ)』と呼ばれる自治組織が設立されて、農民を搾取・虐待する腐敗官吏への処罰権が付与されました。甲午農民戦争が沈静化したことで清軍も日本軍も駐屯する理由を失ったわけですが、どちらも朝鮮政府の撤兵要求を受け容れずに駐屯を続けます。『朝鮮半島の権益(清は朝鮮が属国であることの確認・日本は朝鮮が独立国であることの確認)』を巡って、清軍と日本軍の海軍がついに1894年7月に衝突することになります。
1894年10月には、全俸準率いる約1万人の農民軍が再び武装蜂起を起こし、忠清道の道都・公州を攻めますが、日本軍と朝鮮政府軍の連合軍に敗北を喫します。朝鮮全土で外国勢力を排除しようとする農民反乱とゲリラ攻撃が行われますが、慶尚道・京畿道・平安道・黄海道・江原道における農民軍の武装蜂起はすべて日本軍によって鎮圧されました。農民軍を指導していた東学党出身の全俸準も賞金目当ての密告で逮捕されることになり1895年4月に処刑されましたが、全俸準は朝鮮初の民衆闘争(アジア初の民衆レベルの反帝国主義的闘争)の指導者として、『緑豆将軍(ノクトゥチャングン)』という愛称で呼ばれることもあります。
『全州和約』により甲午農民戦争という朝鮮の内乱が沈静化した時点で、日本軍も清軍も駐留の理由が無くなりましたが、日本は更に朝鮮半島に駐軍し続けるために1894年6月16日、清に対して『朝鮮の内政改革への干渉・内政改革を見届けるための駐軍』を提案しました。この提案を清に拒絶された日本は、二度の絶交状を清に送りつけて日清戦争の火蓋を切るわけですが、日清戦争の開戦の前に日本は、ロシアを警戒するイギリスとの外交を通して1858年以来の『不平等条約の改正』に成功します。
陸奥宗光外相が主導した不平等条約の改正ですが、渡英していた青木周蔵(あおきしゅうぞう)全権公使とキンバリー外相との調印によって成立し、日本は国内にあったイギリスの領事裁判権(治外法権)を撤廃し、相互的な最恵国待遇を獲得しました。イギリスは東アジア情勢においてロシアの南下政策を警戒しており、ロシアが満州や朝鮮半島に軍事拠点をつくれないように日本との外交関係の接近を図っていたのでした。その成果として1902年には『日英同盟』が結ばれることになります。
1894年7月19日には大鳥圭介公使(1833-1911)が、李氏朝鮮の政府に対して『清国との宗属関係の廃止・清軍の撤退と日本軍の駐留許可+兵営建設・ソウル-プサン間の軍用電信の架設』を要求する最終公文を送りつけます。朝鮮政府の返答期限に設定した9月22日には連合艦隊を佐賀県の佐世保港から早速出港させ、23日は軍隊をソウルに進軍させて閔氏政権を武力で転覆させて、高宗の父である興宣大院君(こうせんだいいんくん,1820-1898)を朝鮮国王として擁立しました。閔氏を放逐して再び朝鮮国王となった興宣大院君に日本は清軍排除の命令を出させ、日本軍は清軍が拠点としていた成歓・牙山をすぐに占領して、7月25日に牙山湾の豊島沖(プンドおき)で日清戦争の幕開けとなる『豊島沖の海戦』を行いました。
軍艦の近代化と火力の増強を進めていた日本海軍の第1遊撃隊(司令官・坪井航三少将,『吉野・浪速・秋津洲』)は、清国軍艦の『済遠(せいえん)』を撃沈して『広乙(こういつ)』を座礁させます。イギリス商船旗を掲げて兵員を運んでいた清国の汽船『高陞号(こうしょうごう)』も日本軍による臨検を拒んだという理由で、『浪速』艦長の東郷平八郎大佐に魚雷を打ち込まれて沈没させられました。この高陞号事件では、英国人船員ら3人が救助され約50人の清国兵が捕虜になりましたが、英国の商船旗を掲げた船を日本の軍艦が魚雷攻撃したということで、イギリスの世論が一時的に日本批判で沸き上がりました。1894年8月1日に、正式な日清戦争の『宣戦の詔勅(しょうちょく)』が出されますが、その開戦理由は『清国が朝鮮の独立を認めずに属国化していること・朝鮮の政治改革を妨害していること・軍隊を駐留させて侵略の意図を持っていること』などでした。
1894年9月8日に大本営が大トウ進展ということで広島に移され、広島に入った明治天皇が軍機・軍事予算の親裁を行ったことで、日本は名実共に『天皇主権の親政体制・挙国一致体制』が整い始めます。朝鮮内陸部での戦闘となった『平壌の戦い』は、1894年9月15日未明に開戦しますが、その夜に清軍が城(拠点)を捨てて逃走したため、日本軍は翌16日にほぼ無血で平壌開城を成し遂げました。兵力は日本軍が1万7千人、城に籠城する清軍が1万2千人で拮抗していましたが、清軍が殆ど抵抗らしい抵抗をせずに逃走した理由には『軍隊の秩序の乱れ(近代戦に適応できない訓練不足)・指揮官に対する不満の高まり・李鴻章の兵力温存の戦略』など様々な仮説があります。
平壌の戦いで被害を出さずに勝利した日本軍は、翌9月17日の『黄海の海戦』でも『松島』を旗艦とする連合艦隊が、『定遠』『鎮遠』を主力艦とする李鴻章の北洋艦隊を撃ち破って勝利します。李鴻章の北洋艦隊の主戦力であった『定遠』『鎮遠』を撃沈することは出来ませんでしたが、清国はこの黄海の海戦で北洋艦隊の約3割を損耗する大きな被害を蒙りました。山県有朋大将(やまがたありとも)を司令官とする第一軍(第三・第五師団)は『平壌の戦い』で勝利した後の10月24日に、鴨緑江を渡河して清国領内まで進出していき、10月30日までに九連城・鳳凰城・大孤山を占領することに成功しました。清国の陸海軍の極めて重要な拠点である『旅順(りょじゅん)』は遼東半島(リャオトン半島)の先端にありますが、大山巌大将(おおやまいわお)を司令官とする第二軍(第一・第二師団)はこの旅順も11月21日にわずか1日で占領しました。
清国内部の領土獲得に野心を燃やした第一軍司令官の山県有朋大将とその後を継いだ野津道貫(のづみちつら)中将は、厳寒期であるにも関わらず遼陽・奉天を占領するために直隷省での会戦を断行しようとしましたが、大本営の作成中止で取りやめになりました。その後は、山東半島の威海衛(いかいえい)に停留していた北洋艦隊を撃滅させるための『威海衛作戦』に注力することになります。1895年1月20日から威海衛作戦が実施され、日本の連合艦隊は火力の強い近代装備によって北洋艦隊を撃ち破ります。清国は1895年2月12日に降伏して、北洋艦隊を指揮していた丁汝昌(ていじょしょう)は服毒自殺をしました。日本軍は更に遼東半島の北部を占領したり、澎湖島(ぼうことう)作戦を展開して3月26日にはこの島を占領しましたが、こういった軍事作戦と同時進行で清国との和平交渉も進められていました。
日本と清の和平交渉を1895年1月31日からアメリカが仲介しようとしていましたが、日本は和平交渉で有利な条件を清に呑ませるため、上記した『威海衛作戦と澎湖島作戦』が成功してから交渉に取り掛かることを決めていました。澎湖島作戦の遂行が近づく3月20日に、直隷省大臣・欽差大臣全権大使の李鴻章(りこうしょう,1823-1901)が随員125人を率いて来日し、下関(赤間関)の料亭春帆楼(しゅんぱんろう)で日本側全権の伊藤博文首相・陸奥宗光外相と戦争終結の交渉を始めました。戦争で大きな勝利を得ていた日本側は、休戦条約の即時締結を拒んでできるだけ有利な講和条件を引き出すために粘ろうと考えていましたが、講和に反対の日本側の青年が李鴻章を3月24日に銃撃して負傷させたため、列強諸国の介入を恐れた日本は講和条約の締結を急ぎ始めます。戦闘を停止する休戦条約が3月30日に締結されて、具体的な講和条件にまつわる交渉に入ります。
『領土の割譲・高額な賠償金・通商特権』など日本側の要求が厳しかったため、清国がなかなか条件を受け容れられずに講和会議は難航しましたが、4月10日に妥協案を日本が提示して4月17日に『下関条約(日清講和条約,馬関条約)』に調印しました。日本側の全権は伊藤博文首相と陸奥宗光外相、清国側の全権は李鴻章と李経方(りけいほう)でした。下関条約の主な内容は、以下のようなものでした。
この下関条約によって日本は朝鮮半島と中国大陸に利権のとっかかりを作ることに成功したのですが、1895年4月23日に遼東半島を清に返還せよというロシア・フランス・ドイツからの『三国干渉』を受けることになります。列強三国の連携に対抗する軍事力を持たなかった日本は、5月4日の閣議で遼東半島の放棄を決議して、翌5日にロシアにその旨を伝えました。日本は遼東半島放棄の代償として、清から3000万両の賠償金を更に引き出しましたが、この三国干渉を浮けて以降、日本の仮想敵国は満州への『南下政策』を取るロシアになりました。
西欧列強の諸国は日清戦争にあっさりと敗れた清の国力を侮るようになり、中国の本格的な分割・租借(実質的な植民地化)が開始されます。ロシアは旅順・大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島・威海衛を租借することになりました。大国ロシアに対抗できる国力を増強するために、日本はますます軍備の拡張と産業の振興(北九州市の八幡製鉄所の建設など)に集中するようになり、『富国強兵・殖産興業』の進展と共にロシアと衝突する日露戦争の歴史が迫っていたのです。
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