日清戦争後の日本による台湾の占領統治
台湾総督府・後藤新平による台湾の占領統治とインフラ整備
『日清戦争・下関条約・三国干渉』の項目では、日本が清朝(中国)との日清戦争(1894年-1895年)に勝利して、『下関条約(日清講和条約)』で台湾(たいわん)と澎湖諸島(ぼうこしょとう)を獲得することになりました。日本による『台湾統治』は、清朝が台湾を日本に割譲した1895年(明治28年)4月17日から、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月25日まで続きますが、日清戦争後に日本は台湾を占領するための征服戦争に乗り出します。台湾は1683年に清国に占領されて属領化されていましたが、それ以前は清朝に抵抗運動を続けた鄭成功(ていせいこう,1624-1662)が樹立した『鄭氏政権(1662年-1683年)』によって運営されていました。
明朝の滅亡により台湾に渡った鄭成功が起こした政権が『鄭氏政権』ですが、鄭氏政権以前の台湾はオランダの東インド会社に貿易拠点として支配されていました。この時代を『オランダ統治時代(1624年-1662年)』といいますが、台湾の領有権は『明→オランダ→鄭成功(鄭氏政権)→清→日本』へと移っていったのです。清朝の攻撃を受けた鄭氏政権は1683年に崩壊しますが、台湾の『清朝統治時代(1683年-1895年)』は日清戦争の敗北によって終わりを迎え、台湾と澎湖諸島は日本に割譲されることになります。日本は1874年にも琉球(沖縄)の島民が殺されたことを理由にして一時的な『台湾出兵(牡丹社事件)』をしていましたが、実質的な領土支配はしていなかったので、『台湾占領』の軍事政策を改めて実施する必要がありました。
ドイツ・フランス・ロシアの『三国干渉』によって遼東半島の占領を放棄させられた日本でしたが、台湾占領については西欧列強から干渉されることが無かったので、そのまま占領のための戦争を準備することになりました。広島から東京に移された『大本営(戦争の計画・遂行の指示命令系統のトップ)』は、台湾占領がほぼ完成する1896年4月1日まで設置されていました。台湾府は清朝の行政機構では『福建省』に従属していましたが、清朝は西欧列強と日本の軍事進出に対する国防拠点として台湾を認識し始め、1885年には『台湾省』へと昇格させていました。
李鴻章の部下であった劉銘伝(りゅうめいでん)が初代台湾巡撫(じゅんぶ)に任命されて、軍事・道路・建設・鉄道・電気など各方面における近代化政策を急いで推進していました。台湾は近代化の面で大きく遅れていましたが、土地が豊かで『茶・米・砂糖』などの高い生産力があったため、諸外国との貿易活動では常に黒字を出せるという利点を有していました。台湾を割譲したくない清朝(中国)は台湾を『台湾民主国(1895年5月-10月)』として独立させようと画策しますが、1895年6月2日には清の李経方(りけいほう)と海軍大将・樺山資紀(かばやますけのり)の間で台湾授受の調印が行われ、その後は日本軍と台湾の抗日武装勢力との戦いが続くことになります。
短期政権として幕を閉じた台湾民主国の総統は唐景崧(とうけいしょう)、大将軍は劉永福(りゅうえいふく)でしたが、この二人とも日本軍との戦いの途上で中国大陸へと亡命し、日本の『台湾平定作戦』が達成されました。台湾占領の戦争では、日本は軍令部長・海軍大将の樺山資紀(かばやますけのり,1837-1922)を台湾総督兼軍務司令官に任命し、台湾で戦った近衛師団の師団長は皇族の陸軍中将・北白川宮能久親王(きたしらかわのみや・よしひさ,1847-1895)が務めていました。北白川宮能久親王は台湾平定を目前にした1895年10月28日に、マラリアに罹患して死去しています。日本軍と台湾の抗日武装勢力との戦いの経緯を、簡単にまとめると以下のようになりますが、日本軍が10月下旬に台南・安平を陥落させて台湾平定を成し遂げてからも、原住民の抗日抵抗闘争などが長く続きました。
1895年5月23日に『台湾民主国自主宣言』が発表され、5月25日に総統に唐景崧が選出されるが、5月29日に日本の近衛師団が北部の澳底(おうてい)から上陸を開始する。北白川宮能久親王が率いる近衛師団は、基隆(チーロン)と台北(タイペイ)の攻略を目指して進軍し、6月4日に総裁の唐景崧が公金を横領して亡命し、6月11日には日本軍が台北を占領する。6月17日から日本による施政がスタートすることになり、6月26日に大将軍の劉永福が台湾民主国の総統に選出されるものの、その後の戦闘は質・量共に優れた日本軍が優位に進めることになり、10月19日には台湾民主国総統の劉永福が追い詰められて中国本土へと亡命した。8月6日には、陸軍大臣布達第70号で『台湾総督府条例』が公布されることになり、『台湾総督府』は軍政・民政を統括する軍事機構として活動を始めることになる。
10月21日に日本軍(近衛師団)が台南に入城を果たしたことで台湾民主国は崩壊することになり、11月18日に台湾総督府から『全島平定宣言』が出された。この後も、民衆・原住民による泥沼の抗日武装闘争は続けられるが、1915年(大正4年)まで台湾内部の抵抗武装闘争が続いたのである。『台湾総督』は内乱鎮圧(抗日武装闘争)の軍事活動を指揮するため、武官が就任する伝統が確立していたが、1915年に台湾の抵抗運動を総督府が完全に鎮圧することに成功したので、1919年に初めて文官の第八代・田健治郎(でんけんじろう)が台湾総督に就任している。激しい戦闘が繰り返された『台湾平定作戦』では、台湾人に軍民合わせて約1万7000人の被害者が出たとされていますが、その後も日本の台湾統治に反対する散発的な民衆蜂起やゲリラ部隊の攻撃が続きました。
『台湾総督府』は日本が植民地の台湾を統治するために設立した官庁であり、そのトップである台湾総督は当初『台湾の立法・行政・司法・軍事』を掌握して土皇帝(どこうてい)と呼ばれるほどの絶大な政治権限を有していました。『軍事権』は後に、台湾軍司令官に移譲されることになり、台湾総督は民政のトップという位置づけになります。台湾総督府は台湾占領を開始した当初の1895年8月6日には、陸軍大臣布達の『台湾総督府条例』に基づいて武官による『軍政』を敷きましたが、翌1896年3月31日公布の台湾総督府条例によって軍政を廃止して(軍事指揮権は残しながらも)『民政』に移行しました。
『台湾総督』は形式的には独立的な行政指揮権を持たず、内閣総理大臣・内務大臣・拓務大臣の指揮監督を受けますが、実質的には現地台湾における絶対的な指揮命令権を握っている状況にありました。同じ植民地経営の指揮に当たった『朝鮮総督』の場合は、天皇に直属する官職という建前を採っていたので、内閣総理大臣といえども朝鮮総督の立法・行政・司法に横から干渉・管理することは難しかったと言えます。初代の台湾総督は、台湾占領のための『台湾平定作戦』を主導した海軍大将の樺山資紀(かばやますけのり)であり、主に軍政面における反乱の鎮圧・民衆の統治にその才覚を発揮しました。しかし、台湾の植民地経営と土地開発・産業振興が本格化するのは、後藤新平(ごとうしんぺい)を民政長官に起用した第4代総督・児玉源太郎(こだまげんたろう)の時代でした。
1945年の敗戦までの歴代の台湾総督は、以下のようになっています。
1898年3月に陸軍大将の児玉源太郎(こだまげんたろう,1852-1906)が第4代台湾総督に就任しましたが、児玉は台湾統治の計画と実務を民生局長に任命した後藤新平(ごとうしんぺい,1857-1929)に大きく委任していました。児玉源太郎と後藤新平がペアを組んだ『台湾統治時代(1898年-1906年)』は、日本の植民地経営の練習として機能することになり、後藤新平が後に満洲鉄道総裁に就任したときの『大規模な満洲開発計画・産業振興計画』にも大きな影響を与えています。第4代・台湾総督の児玉源太郎は、台湾統治の直接的な指示・関与をしていませんが、総督在任中に第四次伊藤博文内閣の陸軍大臣、第一次桂太郎内閣の内務大臣・文部大臣、日露戦争時の満洲軍総参謀長などの重職を兼任しました。日露戦争で総参謀長として戦争計画を立てた児玉源太郎は、乃木希典や東郷平八郎を並ぶ日露戦争の英雄・軍神として賞賛されました。
台湾経営を任された民生局長の後藤新平は、帰順して従うものには寛容な対応を取り、抵抗して武器を向けるものには厳格な弾圧をするという『飴と鞭の政策』を実施して、抗日抵抗運動を段階的に鎮静化していきました。また、後藤新平は『日本国内の法制』をそのまま文化・風俗・慣習の異なる台湾に持ち込むことは現実的ではないと考えて、日本の法制と台湾の法制を別個の独立的な法体系として解釈する『特別統治主義』を導入しました。特別統治主義とは反対に、植民地でも日本国内と同じ法制を適用すべきという考え方のことを『内地延長主義』といいます。
後藤新平は土地・人口を測定して調査するための『中央研究所』を設立して、経営者階級・地主階級・富農階級といった有力な有産者階級を懐柔して取り込みながら、大胆で急進的な『台湾の近代化政策』を実行していきました。後藤新平の近代化政策は、清朝の劉銘伝など洋務派が進めようとしていた『法律・産業・社会インフラの近代化』を更にラディカルかつスピーディーに行おうとするものであり、特に後藤は『鉄道・道路・港湾・電信・建築物』といった社会インフラ(社会基盤)の整備と拡張に力を入れました。後藤新平の計画立案と指示命令によって、台湾統治の『制度的・技術的・インフラ的な基盤』が急速に固められていったわけですが、こうした台湾の国土開発や産業発展は結果論としては『台湾人』のために役立ちましたが、当時は『日本経済=植民地利権による国力増強』のために推し進められたのでした。
台湾総督府は台湾銀行法を施行して台湾経営に必要な資金を融資する『台湾銀行』を設立し、後藤新平の指導の下に『鉄道・道路・港湾・電信(通信網)・水道など公衆衛生施設』といった社会インフラが急速に整備されていきます。更に、度量衡の単位や貨幣を統一して経済活動をスムーズにしたり、『塩・酒・タバコ・アヘン・樟脳』など嗜好品・必需品を専売化して総督府の安定的な税源にしたりしました。1895年から1901年までの期間を要した本格的な『土地調査事業』によって、台湾総督府の課税対象となる農地が拡大すると共に、封建的な土地所有制度が否定されて近代的な土地所有制度への移行が促進されました。
民生局長の後藤新平は、台湾総督府に服属しない山地の先住民や武装蜂起した民衆に対しては断固たる厳しい弾圧を加えたが、『インフラストラクチャの整備・産業経済の発展・農地の拡大と近代的土地所有制度・総督府の財政基盤の確立』などにおいて非常に大きな実績を残した人物と言えます。『農業政策』でも大規模な灌漑事業を推進して農地の生産力を増大させましたが、台湾の特産品である砂糖の工場生産化に力を入れて、三井物産や台湾の砂糖業者に出資させて1900年に近代的精糖工場である『台湾精糖会社』を設立しました。
第5代総督の佐久間左馬太(さくまさまた)から第7代総督の明石元二郎(あかしもとじろう)まで、総督府に抵抗してゲリラ攻撃を仕掛けてくる山地の先住民や武装勢力に対する激しい弾圧・制圧が続きますが、武官が台湾総督についていた第1代から第7代までの時代を『前期武官総督時代(1895-1919)』と呼んでいます。
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