北清事変・義和団事件による清国の半植民地化
日本・ロシアの外交方針と満韓問題の対立
『台湾占領と台湾総督府』の項目では、日清戦争後に多くの抵抗勢力の犠牲を出しながら、強力に推進された台湾の占領統治と産業開発について解説しました。日清戦争に勝利して1895年に下関条約を結んだ日本は、清(中国)から台湾・澎湖諸島の領土だけではなく、膨大な金額の賠償金(2億両)を手に入れることになります。日清講和条約(下関条約)で獲得するはずだった中国大陸の重要拠点『遼東半島(リャオトンはんとう)』は、フランス・ドイツ・ロシアの『三国干渉』によって1895年5月4日に放棄することになりました。この屈辱的な『三国干渉』と日本の朝鮮半島の権益を侵す恐れがある『ロシアの南下政策』によって、日本の次の仮想敵国はロシアに定められていきます。
1895年(明治28年)5月15日と5月27日には、国粋主義的な論調の新聞『日本』に、ロシアをはじめとする西欧列強に対する未来の勝利を誓う標語として、三宅雪嶺(みやけせつれい)の『嘗胆臥薪(臥薪嘗胆)』が掲げられました。日本にはまだロシアを打倒する国力がないが、暫くは臥薪嘗胆でじっと忍耐の時を過ごし、富国強兵と殖産興業によっていつかロシアに勝利して南下政策を阻止しようという気概がこの故事成語には込められていました。日清戦争後には清朝(中国)と李氏朝鮮を巡る東アジア情勢が目まぐるしく変化することになり、清朝と李氏朝鮮の近代化政策の挫折が明らかになる中で、西欧列強と日本による『借款供与による利権獲得競争』が過熱してきます。
清朝は李鴻章(りこうしょう)・曽国藩(そうこくはん)が主導した『洋務運動(1860~1890年代)』では十分な国力増強をすることができず、日清戦争で日本に脆くも敗れました。日清戦争に敗北した後に、清朝の起死回生を賭けた康有為(こうゆうい)・梁啓超(りょうけいちょう)・譚嗣同(たんしどう)らの変法派が実施した『戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)』も、守旧派の西太后(せいたいごう,1835-1908)のクーデターによって挫折することになります。
康有為らが明治維新を模倣して断行した『戊戌の変法』は、第11代皇帝・光緒帝(こうちょてい,在位1875‐1908)の支持を受けていたラディカルな近代化の変革運動ですが、百日間で『戊戌の政変(クーデター)』を仕掛けた西太后によって潰されました。このエピソードから『百日維新』と呼ばれることもあります。
西太后が変法派を弾圧した背景には、変法派に助力すると見られていた清朝の軍閥の有力者・袁世凱(えんせいがい)が、変法派を直前で裏切ったということも関係しています。山東省の拳法集団や自警団から生まれたとされる『義和団(ぎわだん)』が、『扶清滅洋(ふしんめつよう)』のスローガンを掲げて、反帝国主義・反キリスト教のレジスタンス運動を1898年頃から開始します。義和団の華北を中心にした抵抗運動は、次第に大規模な反乱へと発展していき、1900年6月に義和団が西欧列強の鉄道を破壊し始めると、イギリス艦隊司令長官シーモアと日本が義和団鎮圧のために軍隊の派遣を決定します。
外国の連合軍の派遣に憤慨した清朝は1900年6月21日に宣戦布告をして、清朝(+義和団)がイギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・日本の八ヶ国連合軍と戦う無謀な『北清事変(ほくしんじへん)』が勃発しました。北清事変は西太后が義和団事件を支持する動きの中で起こりましたが、武装した中国の民衆の反帝国主義運動である『義和団事件(1900年6月20日-1901年9月7日)』そのものは、翌1901年まで中国全土で続きました。
1900年8月14日に八ヶ国連合軍は市街戦で首都・北京を制圧し、1901年9月7日には清国との間で『北京議定書(辛丑条約)』を締結します。北清事変で八ヶ国連合軍に敗れた清朝は、北京議定書によって4億5千万両という巨額の賠償金を課せられ、関税・塩税・税関収入を外国に奪われることになり、更に軍隊駐留・治外法権を認める『公使館区域』の設定を承認しました。北京議定書の条項によって、西欧列強と日本の中国分割による半植民地化が進むことになり、ロシアは八ヶ国連合軍出兵のどさくさに紛れて中国東北部の『満州』を占領しました。
ロシアの南下を懸念する日本・イギリスは、ロシアに満州から撤兵するように圧力をかけて、ロシアは1902年4月に18ヶ月以内の撤兵を約束しますが、翌1903年になってもその約束を履行しませんでした。ロシアが満州の権益を固めて南下の姿勢を崩さなかったことが、日露戦争の遠因になっていきますが、日本も対ロシアの戦争に備えて軍拡財政と増税政策、兵力増強(師団追加)、艦船建造を着々と推し進めていました。
日本が朝鮮半島を支配して、ロシアが満州・蒙古(モンゴル)を支配するという利害均衡の問題を『満韓問題』といいますが、日本の朝鮮半島支配とロシアの満州支配を相互に認め合って対立を回避しようとする穏健な考え方を『満韓交換論』といいました。日清戦争が終わって間もない1896年(明治29年)に、山県有朋(やまがたありとも)とロシア外相・ロバノフが『山県-ロバノフ協定』を結んで、朝鮮半島の共同的な権益保持を確認し、朝鮮の財政の共同支援や日露の電信線の架設管理などを行うことにしました。
1898年に西徳二郎(にしとくじろう)外相とロシアのローゼン駐日公使との間で結ばれた『西-ローゼン協定』は、上述した穏健な軍事対立回避の『満韓交換論』に基づくものであり、大韓帝国の独立・不干渉と韓国問題についての日露の事前協議を確認しました。この『西-ローゼン協定』の相互不干渉のスタンスが守られていれば、日露戦争の開戦は無かったはずですが、1900年に不凍港を欲するロシアが朝鮮半島沿岸の対馬(日本領土)に面した『馬山浦(マサンポ)』を買収しようとして緊張が高まります。結局、満州統治に注力していたロシアが譲歩して、1902年に日本が馬山浦を獲得しますが、朝鮮半島情勢を巡っては『日本・ロシア・イギリス』の利害が激しく対立するようになります。
日本の元老・伊藤博文(いとうひろぶみ,1841‐1909)は、1901年に満韓交換論を前提とした『日露協商』を結ぼうとしますが上手くいかず、穏健な対話路線に代わって朝鮮半島・中国大陸の利権を積極的に取りにいこうとする強硬路線の『小村外交』が台頭してきます。第一次桂太郎内閣で外務大臣を務めた小村寿太郎(こむらじゅたろう,1855-1911)は、ロシアと満韓交換論(対話外交)に基づいて日露相互の権益を侵さない『日露協商路線』よりも、ロシアと対立するイギリスと提携して、朝鮮半島を保守し中国大陸へと積極的に進出すべきだという『日英同盟路線』を推進しようとします。
小村寿太郎は北清事変の講和会議や日露戦争の講和会議(ポーツマス条約締結)で日本全権を務めたことでも知られますが、死去した1911年には対アメリカの不平等条約改正を成し遂げています。小村寿太郎は小柄で頭が大きく、貧相な髭を生やした容貌と敏捷な行動力などから、諸外国の代表に『ねずみ公使』という渾名(あだな)を付けられていたと言われます。イギリスと結んでロシアに対抗しようとする『小村外交』によって、1902年1月30日に『日英同盟』がロンドンで締結されることになりました。伊藤博文や井上馨(いのうえかおる)が推進しようとしていた『日露協商』の路線であれば、日露戦争が回避できていた可能性も高かったのですが、東アジアでロシアと利害が対立しているイギリスと同盟を結んだことで、日本とロシアの間の外交関係も緊張を増していきます。
ロシアの極東政策でも、満州経営に集中して日本の権益である朝鮮半島には干渉しないという大蔵大臣ヴィッテを首領とする『穏健派』が優勢だったのですが、日本・イギリスの外交圧力によって1902年4月に満州からの撤兵(満州還付協約)を約束させられたので、皇帝ニコライ2世がヴィッテら穏健派を政権から失脚させます。穏健派に代わって政権運営に当たったのが、近衛将校ベゾブラゾフを筆頭とする強硬路線を取る『宮廷派』であり、宮廷派は日本・イギリスと結んだ満州還付条約を無視して満州占領を継続することを決定します。
積極的な極東政策を実施し始めたロシアは、1903年5月に鴨緑江を越えて竜岩浦(ヨンアムポ)に兵営を建設して森林伐採権を掌握しますが、ロシアの軍隊が日本が利権を持つ朝鮮半島に接近するに従って、日本とロシアの軍事的緊張が高まりを見せてきます。当時の西欧列強を取り巻く軍事的な世界情勢は、『ロシア・フランス』と『イギリス・アメリカ』が対立する大きな構図があり、日本がイギリスと日英同盟を結んだことでロシアとの『満州・朝鮮半島を巡る対立図式』が一層強まります。そして、日本では中国大陸進出に意欲的な『小村外交』、ロシアでは宮廷派・ベゾブラゾフの『武断外交(満州撤兵の協約の無視)』が強まっていくことになり、『小村-ローゼンの日露交渉』の決裂により日露戦争は不可避となったのでした。
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