日ロ交渉の対立と日露戦争の開戦

韓国の保護国化・満州の権益化を巡る日ロ交渉の決裂


日露戦争の開戦と旅順要塞の攻撃

韓国の保護国化・満州の権益化を巡る日ロ交渉の決裂

『日露戦争前の東アジア情勢』の項目では、南下政策で満州の支配を確立して更に権益を朝鮮半島に拡張しようとするロシアに対して、日本とイギリスが1902年1月30日に『日英同盟』を結んだことを説明しました。立憲政友会が支持する伊藤博文・井上馨の外交政策はロシアとの直接対立を回避する『日露協商』の路線でしたが、桂太郎首相(1848-1913)小村寿太郎外相(1855‐1911)はロシアとの対立も辞さない積極外交路線を採用して『日英同盟』を締結します。イギリスだけではなく、ロシアと利害が対立していたアメリカとの外交関係も強めます。

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ニコニコと笑ってポンと相手の肩に手を置くことで、相手を味方に引き入れることが得意な桂太郎は新聞社から『ニコポン首相』という渾名を付けられていたが、西園寺公望と交代で首相になり安定した政権運営をしたことから、この時代を『桂園時代(けいえんじだい)』と呼ぶこともあります。日英同盟を結んでアメリカとも接近した日本外交ですが、『日本・イギリス・アメリカの利害』は対ロシアの南下政策の抑止で一致していても、英米が求める『市場の機会均等・貿易の門戸解放』と日本の利益は微妙に食い違っていました。英米は清国(中国)の東北部で自由貿易や商工業活動をすることが第一の目的であり、そのために、ロシアの満州における市場・権益の独占を排除しようとしていました。しかし、英米と資本力や産業力の点で劣っている日本の立場としては、満州含む中国東北部で完全に機会均等な貿易・商工業が行われることは望ましいことではなかったのです。

日本の目指す対ロシアの外交方針は、『大韓帝国(韓国)の保護国化』をロシアに認めさせ、『中国東北部(満州)の権益』を手に入れる契機を掴み取ることでしたが、イギリスは日本が本格的に満州に進出することには抵抗感を持っていました。ロシアは北清事変(義和団事件)の時に大軍を満州に進軍させていましたが、日本・イギリス・アメリカの圧力によって1902年4月に『満州還付協約』を結んで、1年半で軍隊を満州から撤兵させることを約束しました。ロシアが撤兵を約束した『満州還付協約』ですが、盛京省・吉林省・黒竜江省から半年ごとに三期に分けて撤兵するという取り決めになっており、1902年(明治35年)10月8日を期限としていた第一期撤兵はきちんと実施されました。

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しかし、1903年4月8日を期限としていた第二期撤兵の約束をロシアは履行せず、盛京省遼河から鴨緑江へと軍隊を移動させて、朝鮮半島に圧力を掛ける姿勢を示しました。ロシアでは日本・イギリスとの『平和主義外交』を模索していたヴィッテ財務大臣が失脚して、その代わりにロシア皇帝顧問となった宮廷派のベゾブラゾフが実権を握り、日本・韓国に軍事対立も辞さない構えの『武断外交』を仕掛け始めていました。ヨーロッパでも最大の領土と財政・陸軍・艦隊を備えるロシアは、圧倒的な国力を持つ国として国際社会から警戒されており、常識的に考えれば未だ極東の小国であった日本がまともに太刀打ちできる相手だとは考えられていませんでした。

ロシアは日本・イギリスとの戦争に備えて、中国の遼東半島にある旅順(りょじゅん)港の要塞を増築して万全の防御体制を整え、1903年8月にはロシアの極東政策を実施する『極東総督府』を開設して、ベゾブラゾフが操縦可能なアレクセイエフ大将を総督に任命しました。ロシアが『満州還付協約』に違反して、中国と朝鮮半島の境界線である鴨緑江に軍隊を集結させたことで、日本国内のメディアや世論でも対ロシアの主戦論が激しく巻き起こることになりました。日露戦争の開戦が不可避となる日ロ交渉が、1903年8月に小村寿太郎外相ローゼン駐日公使との間で行われます。小村寿太郎はロシアに対して『日本による韓国の保護国化・ロシアの満州における鉄道経営(特殊権益)の承認』という日本側に有利な満韓交換条件をつきつけ、ロシアから取り付く島もなく拒絶されます。

ロシアの回答は『ロシアの満州権益の保護・韓国の自主独立と領土保全・韓国領土の軍事的利用の禁止・北緯39度線以北の中立地帯化』を要請するもので、小村とローゼンの間で対立点を改善するための細かな折衝が行われました。1903年10月に出された『小村-ローゼン修正案』では、『日本の韓国権益とロシアの満州権益の相互尊重・満韓国境から50キロ以内を中立地帯化』という妥協案が出されましたが、ロシア本国がこの修正案を12月11日に拒否して『韓国の日本による軍事利用の禁止・北緯39度以北の中立地帯化』という日本に不利な要求を繰り返してきます。

つまり、ロシアは日本が韓国を軍事力で実効支配して保護国化することだけは容認しない構えを見せたのであり、『韓国の保護国化・韓国領土の軍事的利用』を目的とする日本政府はこの点だけはロシアに譲歩することが出来なかったのでした。ロシアが『小村-ローゼン修正案』を蹴ったことにより、日本は大国ロシアとの戦争に備えた準備をスタートさせます。開戦に先駆けて、西欧列強の干渉を避けたい日本は、1904年2月12日に清国に『中立宣言』を出させますが、日露戦争後に軍事占領で保護国化する予定の大韓帝国については、日本にもロシアにも与さないという韓国の『中立宣言』の要請を無視しました。日清戦争後の『軍備拡張・兵器の近代化・兵士の増員』によって日本経済は窮迫していましたが、開戦以後の大量の内外債の発行によって約20億円の巨額の戦費を調達します。

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日露戦争の開戦と旅順要塞の攻撃

対ロシアの開戦を決議したのは、1904年(明治37年)2月4日の『御前会議』においてであり、この会議に出席していたメンバーは、元老の伊藤博文・山県有朋・大山巌(おおやまいわお)・井上馨・松方正義(まつかたまさよし)、政府の桂太郎首相・小村寿太郎外相・曽根荒助(そねあらすけ)蔵相・山本権兵衛(やまもとごんべえ)海相・寺内正毅(てらうちまさたけ)陸相でした。2月6日にロシアに『国交断絶』を通告する公文を送りつけ、2月8日夜には木越安綱(きごしやすつな)少将率いる陸軍の四個大隊2,200人が韓国の仁川(インチョン)に上陸しました。木越安綱はただちにソウルに入城して韓国皇帝を日本軍に服属させ、2月10日にロシアに対して宣戦布告を発します。

2月16日~2月27日には、第一軍・第12師団1万4千人が仁川に上陸して、軍事的な重圧を十分に掛けた状況において、2月23日に『日韓議定書』が調印されました。日本が韓国皇帝に押し付けた『日韓議定書』の内容は、韓国皇室の保護と韓国領土の保全を名目として、朝鮮半島に軍隊を駐留させ実効支配する権限を得るもので、韓国皇帝の要請によって日本軍がロシア軍と戦うという体裁を取っていました。日韓議定書の調印で、韓国の皇帝からの『ロシアに対する保護要請』を受けて、日本軍が派遣されてきているという法的な建前が成立しました。これによって、日本軍の韓国に対する占領支配のための軍隊駐留が否定されることになり、西欧列強の干渉を排除することが出来たのです。

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日露戦争の前哨戦として、1904年2月9日に仁川港に停泊していたロシア太平洋艦隊の一等巡洋艦『ワリャーグ』と砲艦『コレーツ』が、瓜生外吉(うりゅうそときち)少将率いる第四戦隊に奇襲攻撃を仕掛けられました(仁川沖の戦い)。この攻撃で船体が大きく破損したワリャーグとコレーツは、仁川港でロシア兵の乗組員が降りた後に、拿捕(だほ)を避けるために自爆させられました。ロシア艦の撃沈を見て日本軍の勢威の強さを感じた韓国皇帝は、韓国内の十三道監察使に命令を出して、日本軍の宿営、食糧と軍需品の現地徴発を認めたのでした。2月8日の深夜には、東郷平八郎(とうごうへいはちろう,1848-1934)中将率いる日本の連合艦隊が旅順(りょじゅん)に進軍して、駆逐艦隊11隻で夜襲攻撃を仕掛けました。この攻撃によって、旅順港外に停泊していた戦艦『ツェザレウィチ』『レトウィザン』を損傷させ、巡洋艦『パルラダ』を座礁させました。

ソウル周辺に集結した日本の陸軍主力である第一軍は、3月中旬に平壌(ピョンヤン)を占領して後続の二個師団を吸収し(全軍4万)、3月下旬にはロシア軍の駐留する『満州』の対岸である鴨緑江沿岸の義州に到達しました。5月1日から満州に突撃するための『鴨緑江渡河作戦』が決行され、海軍の艦砲射撃の援護を受けながら、午後に渡河に成功して九連城(きゅうれんじょう)を占領しました。ロシア軍の16個大隊1万数千人は鳳凰城まで退却しますが、日本軍が遼東半島の塩大澳(えんたいおう)に上陸したという報告を受けて、挟み撃ちを恐れたロシア軍は鳳凰城の拠点も捨てて(5月11日)退きました。この鴨緑江渡河作戦ではロシアの近代兵器の火力の猛攻を受けて、戦争が本格化する前の段階で172人の死者(933人の死傷者)が出ており、日清戦争とは比較にならない大国との激戦が予感されました。

日露戦争では日本・連合艦隊ロシア・太平洋艦隊を早期に全滅させて、黄海と日本海の『制海権』を握れるかどうかが勝敗の要となっていましたが、特に、ロシアの太平洋艦隊とバルト海を航行中のバルチック艦隊が合流することを日本軍は恐れていました。極東地域に配置されているロシアの太平洋艦隊だけであれば、日本の連合艦隊のほうが全艦隊の総排水量で若干勝っていたので、作戦と戦況によっては勝利できる可能性があると見られていたのです。ロシア太平洋艦隊の根拠地は、朝鮮半島を挟み込むような地点にある旅順ウラジオストクであり、日露戦争にとって特に重要な攻略拠点となったのが天然の要塞(高地)に囲まれた『旅順要塞(遼東半島の先端)』でした。

日本軍はまず、ロシア太平洋艦隊を旅順港内に閉じ込めるための『旅順港閉鎖作戦』を行おうとしますが、この作戦は港口に老朽船を大量に沈没させて港を封鎖するというものでした。旅順港の入り口には強力な大砲が据え付けられた『黄金山砲台』があるので、旅順の港口に近づく艦船はほぼ確実に撃沈させられるのですが、日本軍は老朽船の艦隊をこの港口に突入させて入り口をその老朽船の残骸で塞ごうとしました。旅順の港口を塞ぐことが出来れば、ロシア太平洋艦隊の通行を妨害することが出来るのですが、1904年2月、3月、5月の三回に及ぶ『旅順港閉鎖作戦』は多数の老朽船が沈没させられただけで失敗に終わります。

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旅順要塞の攻略が日本海軍の大きな目標となる中で、陸軍の戦闘はロシアの拠点である『満州』へと拡大していくわけですが、1904年5月5日~12日に遼東半島の塩大澳に上陸した奥保鞏(おくやすかた)大将率いる第二軍が、5月26日にロシア軍との激しい銃撃戦を行って南山砲台・防塁を占領しました。この激烈な戦いで第二軍は砲弾を撃ち尽くして4387人の死傷者を出しましたが、ロシア軍が大連(ターレン)から旅順へと退却したため、そのまま5月30日に大連の占領に成功しました。第三軍司令官に任命された乃木希典(のぎまれすけ,1849-1912)中将が6月6日に南山に到着し、7月14日に大山巌(おおやまいわお,1842-1916)元帥を総司令官、児玉源太郎(こだまげんたろう,1852-1906)大将を総参謀長とする『満州軍総司令部』が大連に集結することになったのです。

満州軍総司令部の至上命題は『旅順要塞の攻略』であり、ロシアが重厚なコンクリート壁で固め、機関銃・速射砲を備えた『永久要塞』の旅順を陥落させるために、膨大な日本人兵士の生命が失われることになります。日本軍は難攻不落の近代要塞である旅順を陥落させるための効果的な戦術を持っておらず、1904年8月19日から始まる乃木希典大将の『第一回旅順要塞攻撃』でも、正面突破にこだわって猛烈な機関銃射撃を受け1万5860人という多くの死傷者を出しました。

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