日露戦争の展開・終結とポーツマス条約

日露戦争の展開と旅順攻略・日本海海戦


ルーズベルトの斡旋によるポーツマス条約の締結

日露戦争の展開と旅順攻略・日本海海戦

『日露戦争の開戦』の項目では、乃木希典司令官率いる第三軍が正面突破を目指す強襲法にこだわり、『第一回旅順要塞攻撃』で1万数千人の膨大な死傷者を出したところまで解説しました。南山から北上した第二軍は1904年6月15日に得利寺の戦いで勝利し、7月24日に大石橋の戦いでも勝利しますが、第一軍・第四軍(野津道貫大将,のづみちつら)と合流して8月下旬の『遼陽会戦(りょうようかいせん)』へと向かいます。日露戦争前半の重要な戦闘となる『遼陽会戦』は、日本軍13万とロシア軍22万(クロパトキン総司令官)で8月28日から戦われます。

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ロシアの拠点である首山堡(しゅざんほ)への総攻撃で佳境を迎えることになり、9月1日にロシアが首山堡を捨てて退却します。日本軍は9月4日に第二・第四軍によって遼陽の城を占領することに成功しましたが、この遼陽会戦でも死者5557人、負傷者1万7976人を出す大きな人的損失を蒙りました。天然の要塞である旅順港に入ったロシア太平洋艦隊は、バルチック艦隊の援軍を待ってなかなか港外に出てこようとしませんでしたが、日本陸軍の旅順攻撃の度合いが強まってくると援軍を待ちきれなくなり、6月23日朝にアレクセイエフ極東総督からウラジオストクに回航するようにという命令が出されます。

日本海軍に発見されてロシア艦隊はいったん旅順に戻りますが、8月10日には日本海軍とぶつかって『黄海海戦』が勃発します。ロシアの戦隊は快速巡洋艦『ノーウィク』を先頭にして、駆逐艦群・主力艦隊・装甲巡洋艦を従えていましたが、黄海上で日本海軍との砲撃戦となり、ロシア太平洋艦隊の約半数を失うことになります。旗艦『ツェザレウィチ』をはじめとした複数の戦艦は旅順に帰港することができず、上海・サイゴン・膠州湾などに逃げていき中立国によって武装解除されました。ウラジオストク艦隊は3隻の一等巡洋艦からなる小規模な艦隊でしたが、6月15日に朝鮮海峡を航行していた陸軍輸送船『和泉丸』『常陸丸』を撃沈させて『佐渡丸』を破損させました。ウラジオストク艦隊と日本艦隊が激突する『蔚山沖海戦(ウルサンおきかいせん)』は8月14日に勃発することになり、ロシア側の巡洋艦『ロシーヤ』『グロモボイ』はウラジオストクへと退却していき、『リューリク』が撃沈されました。

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旅順攻撃で重要な制圧目標となったのが、旅順港全体を一望できる標高203メートルの『二〇三高地(二百三高地)』でした。乃木希典大将率いる第三軍は、この二○三高地を攻略するために何度も執拗な突撃を繰り返しましたが、多くの犠牲を出すだけで容易には制圧することが出来ませんでした。9~10月にかけて大本営の指示により、要塞攻略のための秘密兵器として『28サンチ榴弾砲(西洋式の大砲)』が旅順の戦地に送られたのですが、10月26日から始まった『第二回旅順総攻撃』でも、乃木は愚直に要塞正面の突破にこだわって3830人の死傷者を出しました。ロシアのバルチック艦隊が極東に向けて動き出したという報告を受けた大本営は、いったんは旅順攻略で失策を繰り返す乃木希典の更迭も考えますが、第7師団に第三軍の援軍に赴くように指示を出します。

更に大本営は、第三軍に対して機関砲の猛射撃を受ける『要塞の正面突破』ではなく、『二〇三高地の占領』への作戦転換を考えていたようですが、乃木希典大将は飽くまで正面突破を断行しようとして、11月26日に『第三回旅順総攻撃』を行いまたもや攻撃に失敗します。ここに至って、乃木希典は11月27日にようやく『二〇三高地の占領』に作戦を切り替えることになりますが、戦略上の重要拠点である二〇三高地を守ろうとするロシアの反撃は激しく、“日本軍の占領”“ロシア軍の奪還”が何度も繰り返されて双方に膨大な犠牲者が出ることになりました。

11月29日に占領した二〇三高地をロシアに奪い返されたとの報告を受けた児玉源太郎大将は、一時的に乃木大将の司令官を譲り受けるという非常措置を取ります。児玉源太郎大将は重砲隊を組織して決死の二〇三高地攻略作戦に乗り出し、12月5日に二〇三高地に集中的な砲火と突撃を加えて二〇三高地の奪取・防衛に成功しました。死闘が繰り返された二〇三高地の占領作戦を含む『第三回旅順総攻撃』の死傷者は1万6939人にも上りました。しかし、旅順港全体を一望して戦術の指揮命令を組み立てられる二〇三高地を占拠したことにより、日本軍の旅順要塞攻略の可能性が一挙に高まることになりました。1

2月6日、二〇三高地から旅順港内に依拠するロシア軍艦に対する強力な28サンチ砲による砲撃が開始され、戦艦『ポルタワ』『レトウィザン』『ペレスェート』が撃沈され、12月7日には巡洋艦『パルラダ』、戦艦『ポビエタ』が撃沈されました。12月11日までに、旅順のロシア艦隊は全滅させられました。更に、12月31日までに、東鶏冠山堡塁・二竜山堡塁・松樹山堡塁という三大堡塁が破壊され、日本の旅順攻略・制圧が完成することになります。1905年1月1日に、旅順要塞のロシア側司令官ステッセル中将が降伏して、約155日間も続いた長く苦しい旅順攻略戦が終わりを迎えました。旅順攻略戦では日本軍は約13万人が集められて戦いましたが、死者は1万5400人、負傷者は約4万4000人という膨大な数に上りました。

満州での『遼陽会戦(1904年9月)』に敗れたクロパトキン大将率いるロシアの第一軍はリネウィッチ大将の第二軍を編成して、シベリア鉄道の兵士・食糧・武器弾薬の補給経路を活かしながら態勢の立て直しを図ります。日本軍は遼陽会戦には勝利したものの、食糧・武器弾薬の安定的な補給路(兵站)を確保していなかったので、長期戦になってくるとロシア軍よりも不利という弱みがありました。1904年10月8日に、奉天から南下するロシア軍と日本軍がぶつかる『沙河会戦(シャーホーかいせん)』が始まり、弾薬不足で長期戦を避けたい日本軍の必死の抗戦により、10月13日にロシア軍がいったん退却しました。

退却するロシア軍を追撃した日本の第四軍は、沙河河畔にある重要拠点の万宝山(ワンパオシャン)を占領しますが、10月16日にロシア軍の厳しい反撃を受けて万宝山を奪い返されました。10月17日に、日本軍は2万5千人の死傷者を出して戦闘を停止することになり、沙河を挟んで日本軍とロシア軍が対峙する恰好となります。この満州の地で、翌年の春まで両軍は真冬の厳寒に耐えて向き合うのですが、日本軍にはもうロシア軍と戦うだけの兵力と武器弾薬がなくなっており、対岸で兵士が増強されるロシア軍の様子を見守るばかりの状況になっていました。1905年1月24日に、ロシア軍が日本軍の拠点である黒溝台(ヘイコウタイ)に攻撃を仕掛けてきましたが、日本軍は東北四県から徴兵された兵士で成り立つ第八師団でロシア軍と戦いました。黒溝台をロシアに奪還された日本軍は反撃を試みましたが、ロシア軍の防衛は堅く黒溝台を奪い返すことはできずに、日本軍は約9,000人の死傷者を出しました。

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1905年1月12日に、旅順攻略を成し遂げた第三軍が再編されて『新第三軍(乃木希典大将)』が作られ、川村景明(かわむらかげあき)中将率いる『鴨緑江軍(おうりょっこうぐん)』と共に、激烈な死闘となる『奉天会戦』に臨むことになります。2月22日から鳳凰城の本営から日本軍の進軍が始まり、大山巌(おおやまいわお)・満州軍総司令官が命令していた3月1日の『奉天総攻撃』の日が近づいてきます。1905年3月1日に開戦した『奉天会戦』は、日本軍25万、ロシア軍32万がぶつかり合う大激戦となりますが、日本軍は第二軍・第三軍を西側から迂回させてロシア軍を挟撃する作戦に打って出ました。3月7日からロシア軍が後退を始めて、日本の鴨緑江軍が3月9日に撫順(フーシュン)を占領します。3月9日、西側から回りこんで攻撃を仕掛けていた第二軍がロシア軍の猛反撃を受けながらも、第二軍第四師団が奉天城内へと突入していきました。

3月9日から10日にかけて、ロシア軍はシベリア鉄道沿いに総退却を行い、3月10日夜に日本の満州軍総司令部は奉天の占領を達成しました。日本軍はロシア軍を十分に追撃して殲滅するだけの弾薬・武器・食糧の余裕がありませんでしたが、奉天北方にある鉄嶺(ティエリン)を奉天の防衛拠点として確保しました。大規模な奉天会戦では、日本軍に約7万人、ロシア軍に約6万人の死傷者が出ることになりました。奉天攻略を成し遂げた日本でしたが、財政的にも物資・兵員の面でも日露戦争を継続することが困難な状態に陥っており、大本営・政府は陸軍戦力と国家財政の限界を見極めて、有利な講和条件での『戦争の早期終結』を目指すことになります。

ルーズベルトの斡旋によるポーツマス条約の締結

1904年4月に、ロシア海軍省が極東地域への『バルチック艦隊(太平洋第二艦隊)』の派遣を決定し、ロジェストウェンスキー中将率いるバルチック艦隊が1904年10月中旬にリバウ港を出発します。バルチック艦隊は地球を半周してウラジオストクに向かう長い航海を始めますが、1905年1月に入港したフランス領マダガスカル島でロジェストウェンスキー中将は旅順要塞が陥落したとの報告を受けます。日本の連合艦隊は厳しい実戦訓練と迅速な情報収集に努めながら、バルチック艦隊の到来を待ち受けていましたが、1905年5月27日未明に長崎県五島列島周辺を哨戒していた『信濃丸』が敵艦を発見しました。

朝鮮半島南端の鎮海湾付近に集結していた東郷平八郎・司令長官率いる連合艦隊は、福岡県沖ノ島周辺に向けて進軍を始め、午後2時5分過ぎにロシア旗艦『スワロフ』との砲撃戦を開始しました。この日本・連合艦隊とロシア・バルチック艦隊が衝突した『日本海海戦』は、日本海軍の圧倒的勝利に終わり、ロシア側は『スワロフ』を筆頭とする戦艦4隻が撃沈され、更に1905年5月28日に戦艦2隻を含む5隻が捕捉されて降伏しました。結局、ロジェストウェンスキーが率いてきたバルチック艦隊の中でウラジオストク港に入港できたのは、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻だけであり、『日本海海戦』は東郷平八郎が率いた日本海軍の圧倒的勝利に終わり、日本が日本海と黄海の制海権を掌握することになりました。日本海海戦における日本の勝利の要因は、『日本艦隊の総合的な戦闘力の高さ』『長期航海を経たロシア艦隊の戦闘意欲の低さ』にあったと言えます。

長引く日露戦争の中で財政的にも兵力的にも疲弊し切っていた日本には、軍需物資が乏しくなったこともあり、これ以上戦争を継続する余力が無くなってきていた。1905年の奉天会戦と日本海海戦に勝利した日本は、有利な講和条件で戦争を終わらせるため、駐米公使・高平小五郎(たかひらこごろう)を介して米国大統領セオドア・ルーズベルトに講和の斡旋を依頼しました。アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領とドイツ皇帝が、ロシア皇帝ニコライ2世に講和を勧告し、日本とロシア双方がこの講和勧告を受け容れることになります。

日本全権は小村寿太郎・外相と高平小五郎・駐米公使、ロシア全権は穏健派で知られるヴィッテとローゼン駐米公使(駐日大使の経験もあり)でしたが、日本は講和交渉を有利に進めるためにサハリン(樺太)を軍事力で実効支配し、イギリスに韓国の保護国化を認めさせる形で『第二回日英同盟』を1905年8月12日に結びました。アメリカの大西洋岸のポーツマスで、日露戦争の第一回講和会議が1905年8月10日に開かれましたが、小村寿太郎は韓国の保護国化、ロシアの満州からの撤退、サハリン(樺太)の割譲、遼東半島における租借権設定、ハルビン-旅順間の鉄道、賠償金の支払いなど12項目の条件を突きつけました。日露戦争の講和会議は繰り返し行われましたが、ロシア側が絶対に受け容れなかった項目が『サハリン全土の割譲・戦費賠償金の支払い』でした。領土の拡張と賠償金の獲得を期待していた日本では、講和反対のデモが起こりました。

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1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカのポーツマス海軍造船所で、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ヴィッテ『ポーツマス条約(日露講和条約)』の内容に同意して調印しました。ポーツマス条約の主要な内容は、以下のようになっています。

日露戦争は元々、『朝鮮半島の権益・保護国化の流れ』を固めるために行われた戦争でしたから、日本としては賠償金は獲得できなかったものの、『サハリン南部・遼東半島の利権・東清鉄道の一部・沿海州の漁業権』など予想以上の権益と領土をこの戦争で手に入れることになりました。関東州と呼ばれた遼東半島の権益を手に入れて、朝鮮半島を保護国化したことで、日本の中国大陸進出の足がかりが築かれることになります。韓国皇帝・高宗は『ハーグ密使事件』を原因にして伊藤博文から廃位される流れとなりますが、更に『第三次日韓協約』の締結によって韓国併合(1910年)へと歴史は進展していくのです。

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