日本国王・足利義満の生涯と皇位簒奪計画

足利義満の権勢の拡大と朝廷権限の縮小
足利義満の義嗣を使った皇位簒奪計画の挫折

足利義満の権勢の拡大と朝廷権限の縮小

『足利義満による守護大名の統制』の項目では、3代将軍・足利義満が同族争いや疑心暗鬼を巧みに利用しながら、日本国の最高権力者の地位を固めていった過程を説明しました。足利幕府の3代将軍・足利義満(1358-1408)は、父・足利義詮と母・紀良子の間に生まれ、北朝5代・後円融天皇の女系の従兄弟に当たりますが、明を中心とした東アジア世界の華夷秩序に自ら取り込まれることで『日本国王・源道義(みなもとのどうぎ)』の称号を得ました。

1401年、足利義満は『日本准三后(じゅさんごう)源道義』と称して明に通商貿易を求める使節を送り、明の2代皇帝・建文帝(在位1398-1402)から日本国王として冊封されます。義満以前には九州地方の北部を統治していた南朝の征西将軍・懐良親王(1329-1383)が、倭寇の取締りを条件として『日本国王・良懐』として封じられていましたが、南北朝時代が終焉すると実質的な日本の最高権力者である足利義満が日本国王に封じられることとなりました。

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明では靖難の変(1399年-1402年)によって成祖・永楽帝(在位1402年-1424年)が建文帝の皇位を簒奪しますが、足利義満は永楽帝からも日本国王として承認されました。

北山第(鹿苑寺)で政務を専断する後年の義満は、形式的には中華思想(華夷秩序)を受け容れて中国皇帝の家臣(国王)という位置づけになりました。しかし、『日本国王』という外交称号を手に入れたことによって、足利義満は国際的(アジア的)に日本を代表する元首として認められ、日明貿易(勘合貿易)の莫大な利益を上げることが可能になりました。

つまり、対中国(対明)との外交関係においては、日本を代表する最高権力者は第100代・北朝第6代の後小松天皇(在位1392-1412)ではなく足利義満であるということになったのです。足利義満は女系の従兄弟に当たる北朝第5代・後円融天皇(上皇)を愚弄するような僭越の振る舞いを多くしたことでも知られますが、後円融上皇は自分の后である通陽門院・三条厳子(後小松天皇の母)と義満が密通したのではないかと疑って三条厳子(としこ)を刀で激しく峰打ちしました。

義満は後円融天皇の後宮に自由に出入りして気に入った妃と勝手に関係を持っていたとも言われますが、1383年に後円融帝の愛妾・按察局(あぜちのつぼね)が義満と密通したと疑われたときには、義満が釈明のために使節(伝奏)を後円融帝に遣わそうとしました。後円融上皇はこの義満の専横な振る舞いに怒りを感じると同時に、伝奏が自分を配流するような言葉を伝えてくるのではないかと強い恐怖に駆られ、持仏堂で自殺未遂を企てるほどに追い詰められました。

そして、このショッキングな事件以降(1383年以降)、後円融上皇は義満に抵抗しても無駄だということを悟ったのか、生母の崇賢門院(広橋仲子)と共に静かな余生を送り始めました。崇賢門院は武家と公家の対立を深めないためには、征夷大将軍の足利義満を皇族同等の取り扱いにすることが必要であるとして、1383年6月に義満に『准三后(じゅさんごう)』の宣下を行いました。これ以前に、義満は既に内大臣・左大臣へと官位を進めており、武家として初めて源氏長者にもなっていましたが、准三后を宣下されることで正式に皇族の一員として認められることになりました。

准后(じゅごう)とは、太皇太后、皇太后、皇后の三后に准じるとする貴族の称号であり、律令制の身分制度の下では人臣の最高位(摂政・関白)よりも更に高い位に上り詰めたということになります。義満は血統的には、母系を遡ると順徳天皇5世の子孫ということになっていますので、後円融天皇と従兄弟であることも合わせて准三后となるべき基本的な資格は元々備えていたと言えます。足利義満は名実ともに天皇・上皇を凌ぐ日本の最高権力者となり、天皇・上皇と並び立つような比類なき権威を身にまとうことになったのですが、義満はまだ自分よりも上位の権威(天皇・上皇)があることに不満を抱いているようなところがありました。

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義満は大内義弘を交渉の仲介役として活用し、1392年に南朝の後亀山天皇から『三種の神器』を北朝の後小松天皇へと接収して悲願であった『南北朝の合一』を持明院統に有利な情勢で実現しました。室町幕府は段階的に京都・朝廷が持っていた政治権限と経済権益を奪取していきますが、室町時代の初期には尊氏との二頭体制で政務を担っていた足利直義(ただよし)『武家執奏(ぶけしっそう)』の制度によって朝廷の裁判権を奪い取りました。

南北朝時代後期になると、上皇(治天の君)が『院評定制(いんのひょうじょうせい)』で僅かに担っていた公家・寺社間の裁判権も幕府に奪われることになり、公家側の訴訟事案であっても義満が政務を執る『室町第(花の御所)』に提訴されるようになりました。訴訟の判決を宣告する上皇の院宣の形式はまだ残っていましたが、少しずつ将軍が花押(かおう)を押した『御判御教書(ごはんみきょうじょ)』のほうが効力が強くなっていきました。

段銭(たんせん)・棟別(むなべつ)といった寺社造営のための徴税権も朝廷から幕府へと移行していき、15世紀になると幕府の徴税権が更に『守護大名の独自の徴税権』へと置き換えられていくようになります。朝廷が最後の権益を死守していた京都でも、1385年に幕府が警察業務(検断)を行う“侍所”と京都の行政を担う“山城守護”を置いて、京都の実質的な行政権を幕府が掌握しました。初代の侍所長官には、丹後守護の山名満幸がなり山城守護には山名氏清が着任して、『六分一殿(ろくぶいちどの)』と呼ばれた山名氏の全盛期が招来されました。1393年には京都最大の経済的権益である土倉・酒屋への徴税権が幕府へと移され、政治・経済両面での室町幕府による京都支配が完成に近づきました。

政治権力の実質的な中枢は、日本国王の足利義満が政務を執る場所に依存しており、義満が征夷大将軍の職にある時は『室町第(花の御所)』が政治の中心であり、義満が将軍の地位を子の足利義持に譲ってからは西園寺家(藤原公経・西園寺公経)から譲り受けた『北山第(鹿苑寺・金閣寺含む一帯)』で政治の実権を握り続けました。

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北山第では武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した独創的な北山文化が花開きました。1397年に西園寺家から北山山荘を半ば強引に譲り受けて政治の中枢機関・執政機関である北山第が建設されたわけですが、源氏長者と淳和・奨学両院別当も久我家(くが)から権力によって奪い取ったものでした。義満は1394年に形式的には4代・足利義持(1386-1428)に将軍職を譲りますが、依然として政治の実権は掌握しており同年に従一位・太政大臣の地位に昇進しています。

武家の最高位である征夷大将軍に加えて、准三后という皇族待遇を与えられ、公家の最高位である従一位・太政大臣の位階を手に入れた義満は、1395年に天皇家を越える『宗教的権威』をまとうために出家して『道義(どうぎ)』という法名を名乗ります。義満が悠久の伝統的権威に支えられた天皇・上皇の上位に立つためには、征夷大将軍や太政大臣といった『天皇の家臣』を意味する律令制の秩序体制の外部に自己を位置づける必要があり、義満は世俗社会・律令秩序を超えた神聖な存在になるために出家したという解釈もあります。

足利義満の義嗣を使った皇位簒奪計画の挫折

仏門に出家して『道義』と名乗り律令体制の階層秩序から抜け出した3代将軍・足利義満は、明王朝に朝貢することで東アジア世界における公式な『日本国王』としての地位を手に入れ、勘合貿易(日明貿易)による莫大な利益を獲得することになりました。義満は子の4代将軍・足利義持との折り合いが悪く、1394年に将軍位を譲ってからも義持との反目が続きます。

その一方で、義満は義持の弟に当たる足利義嗣(1394-1418)を溺愛しており、義嗣を第100代・後小松天皇の後継者として皇位を簒奪する計画を立てていたという説(今谷明・井沢元彦・海音寺潮五郎など)もあります。義満を嫌っていた足利義持は、義満の死後に義満の基本政策路線のほぼ全てを否定して、幕府・武家による朝廷権威の簒奪計画や公家の直接的支配を中止し、明王朝との冊封関係も打ち切りました。義満が政治の中心地として建設し政務を独裁した『北山第(きたやまたい)』も義持によってその大部分が解体され、禅寺としての鹿苑寺(金閣寺)などを残すばかりとなります。義満が偏愛して天皇位を継承させようと目論んだ弟の足利義嗣も、兄・義持と幕府に謀反を企んだと指弾されて殺害されることになりました。

足利義満は段階的に天皇・上皇を頂点とする朝廷の権限を奪権していきますが、後円融上皇の死後(1393年)には天皇・上皇が『小折紙(任命草案)』で官位を任命すべき人事権(除目・じもく)が義満に奪われました。南北朝前期から『武家執奏(ぶけしっそう)』の方法で人事権は簒奪されていたのですが、この時にはまだ天皇・上皇に官位任命を請願するという『律令上の形式』が残っていました。

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しかし、後円融帝の死後に後小松天皇が政治への関心を全く持たず義満に反論できる公家が存在しなかったことから、義満の専横によって『朝廷の叙任権(人事権)』が完全に握られることになりました。関白・一条経嗣(いちじょうつねつぐ)も朝廷の人事一切が義満に握られていることを日記に書き残していますが、朝臣が官位昇進の謝礼を述べる『奏慶(舞踏)の儀式』も天皇・上皇ではなく義満に対して室町第・北山第で執り行われるようになっていきました。つまり、天皇・上皇の忠実な家臣であるべき公家の朝臣たちが、天皇・上皇に儀礼上の敬意を払わなくなり、最高権力者である足利義満のほうを『自らの主君』として讃えるようになっていったのでした。

義満は寺社勢力にも大きな影響力を振るうようになり、寺社の僧侶(天台座主・門跡)の実質的な任命権を『直奏(じきそう)』という制度を使って掌握しました。義満が溺愛した足利義嗣も延暦寺・梶井門跡(三千院門跡)として仏教界の高位の聖職者の地位にありましたが、義満は自らの子弟を次々と宗教界の高位聖職者(天台座主・仁和寺門跡・青蓮院門跡・大覚寺門跡など)に送り込んで足利一族による宗教権威の独占を企てました。出家して以降の晩年の義満は、修法・祈祷・宗教儀式などに没頭するようになり、北山第では天台座主など高位聖職者を集めて『廻祈祷(めぐりきとう)』と呼ばれる宗教祭祀を執り行いましたが、これは天皇家が握っていた祭祀権(日本最高の歴史的な宗教権威)を簒奪するための行為であったと解釈されます。

国家の祭祀・儀礼の場を朝廷(宮中)から北山第に移管することで、義満は公家政権の正統性の根源である祭祀権を骨抜きにしようとしたのでした。義満は1395年の太政大臣任命の拝賀儀礼を境にして実質的な『法皇の礼遇』を受けるところとなり、拝賀儀礼を行う室町第では天皇・上皇以外には頭を下げることがない関白・一条経嗣が、中門の南切妻塀前に立って義満を拝礼しました。摂関が拝礼するのは天皇・上皇だけなのですが、義満は太政大臣の身分でありながら法皇(上皇)としての破格の礼遇を受けることになり、1396年には天皇以外に用いることが許されない八瀬童子(やせどうじ)の輿に乗って山門講堂供養を行いました。

義満は『伝奏奉書(てんそうほうしょ)・御教書(みきょうじょ)』という文書を発給して自身の命令を伝えましたが、この『北山殿の御教書』は天皇が発給する『綸旨(りんじ)』よりも格式が上とされ、実質的に上皇(法皇)が発給する『院宣(いんぜん)』と同等の効力を持っていました。天皇の綸旨は蔵人弁官級の中級の公卿が書きましたが、義満の伝奏奉書(北山殿の御教書)は内大臣・大納言級の上級の公卿が書いたことからも、伝奏奉書が院宣と並ぶ格式を持っていたことが分かります。

義満は武家・幕府に対しては『御判御教書』で命令を伝え、公家・朝廷に対しては『北山殿の御教書』で命令を伝えました。日本国の最高権力者となった足利義満の権勢は、1399年の相国寺七重大塔の供養で更に天下が知るところのものとなり、この供養の時には、義満は北山第で関白以下すべての公卿・公家・僧侶が土下座する中を悠々と進んで相国寺への道を歩きました。1406年には、天皇の血縁者でなければ准母になれないという慣例を打ち破って、義満の正室・日野康子が准母(国母)となりました。将軍家の子弟は嫡男を除いて出家するのが普通であり、出家した子弟は還俗することができないという暗黙のルールがあったのですが、義満は1408年に足利義嗣(母・春日局)を独断で還俗させて位階・官位の異例の出世街道を歩ませます。

1408年3月4日に“童殿上(わらわてんじょう)”と敬称された義嗣は元服前の稚児姿のまま従五位下となり、後小松天皇が北山第に行幸した際に天盃(てんぱい)を下賜されます。この天盃の下賜によって、朝臣たちに義嗣が自分の後継者であることを知らしめることになりました。3月8日に、北山第で後小松天皇を迎えた足利義満は天皇・上皇にしか使用が許されない繧繝縁(うんげんべり)の畳を敷いて三衣筥(さんねばこ)を置いており、自分が上皇(法皇)の立場で後小松天皇を接待しているという形式を整えました。

3月24日に正五位下・左馬頭(さまのかみ)に昇進、3月28日に従四位下へと上がり、翌日には左近衛中将へと異例の昇進を果たしました。石清水八幡宮と伊勢神宮への拝礼を終えた4月25日には、宮中において内大臣が義嗣に加冠する親王並の形式で元服の儀式を終えて、従三位・参議という高官に任命されることになります。義嗣を皇位に就けるために万全の下準備を整えて、あとは後小松天皇からの禅譲を待つだけということになっていたのですが、日本国王として天皇家を乗っ取ろうという前代未聞の野心を抱いた足利義満は義嗣が元服したわずか三日後に不治の病に罹ってこの世を去りました。簒奪計画の完成を目前にしていた義満の余りにも突然の病死に対して、皇位簒奪を何が何でも妨害しようとした公家が義満を暗殺(毒殺)したという仮設もありますが……義満の死の真相は不明であり、歴史上ではただ突然の病死であるとだけ伝えられています。

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日本では類例の少ない専制君主として振る舞った足利義満の死後には、日野重光の発議によって後小松天皇から『太上天皇(上皇)』の尊号が追贈されることが決まりましたが、義満に批判的であった足利義持・斯波義将を筆頭とする幕府首脳陣は太上天皇の尊号を辞退することを伝えました。

独裁的な日本国王であった義満の死後には、有力守護(宿老)の衆議(議論と合意)によって政治決定を下す幕府伝統の『合議制』が復活することになり、『皇位簒奪・朝廷権限の収奪・公家支配・冊封体制下での勘合貿易』など義満の制作の基本路線が否定される流れになりました。幕府首脳陣は義満に対する太上天皇の尊号を辞退しましたが、臨川寺に残っている義満の位牌や相国寺の過去帳には『鹿苑院太上法皇』と書かれており、生前の義満が実質的な天皇・上皇として遇されていたことが偲ばれます。

足利義満・義持・義量(よしかず)・義教(よしのり)が将軍であった時代は室町幕府の政権が安定しました。しかし、義満の専制政治の理想を継いで“恐怖の魔王”と呼ばれた6代将軍・足利義教(1394-1441)の晩年から関東公方・足利持氏との対立(永享の乱, 1438-1439)が激しくなり全国の政治秩序が不安定になってきます。足利義教は自分の政策の意向に従わない四職・一色義貫(いっしきよしつら)や伊勢国守護・土岐持頼(ときもちより)らを粛清する『万人恐怖の政治』を行いました。

1441年、猜疑心が強い将軍・足利義教に征伐されることを恐れた赤松満祐(みつすけ)・赤松教康(のりやす)父子は、警戒感が緩む戦勝祝宴の最中に義教を急襲して暗殺しました。これを嘉吉の乱(かきつのらん, 1441年)といいますが、嘉吉の乱後には管領・守護大名の権力が強大化して段階的に室町将軍の軍事的支配力が衰退していき、遂に応仁の乱(1467年)という史上空前の内乱の悲劇を迎えることになります。

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