万人恐怖の6代将軍・足利義教と嘉吉の乱

室町幕府の地方統治とくじ引き将軍・足利義教の登場
万人恐怖の専制政治を行った足利義教と嘉吉の乱

室町幕府の地方統治とくじ引き将軍・足利義教の登場

『日本国王となった足利義満』の項目では3代将軍・足利義満(在位1368-1394)4代将軍・足利義持(在位1394-1423)が不仲であったことを記しましたが、義持は義満時代の『朝廷権威の簒奪・将軍専制の確立・日明外交の活性化・北山第(きたやまてい)の政治中枢化』といった政策を否定しました。

義満が溺愛して後小松天皇の次の天皇にしようと画策していた足利義嗣(よしつぐ,1394-1418)は、義持と異母兄弟でしたが仲が悪く北山第から母(春日局)と共に追放されます。4代将軍・足利義持の時代には幕府の中央集権体制が揺らいでおり、地方の行政府にほぼ全面的な自治権が認められている状態でしたが、関東・奥羽・九州の遠国は自主独立の気風を強く持っていました。

スポンサーリンク

幕府の政治も義満時代の『将軍専制政治』が否定されることになり、三管領・五職が話し合って政治的意志決定を行う『宿老会議(合議制)』に変わっていました。宿老会議の調停者(司会役)として、『黒衣の宰相』と呼ばれた三宝院満済(さんぽういんまんさい,1378-1435)が活躍していましたが、満済は4代・義持だけではなく6代・義教の時代にも将軍・諸侯から深い信任を得ていました。

室町時代の政治体制は地方分権的であり、関東に鎌倉府、九州に九州探題(鎮西管領)、奥羽(東北)に奥州探題(奥州管領)を設置して、それらの長官に大幅な統治権限を与えていたので『地方の分離独立・幕府への叛逆』というのが大きな懸案事項となっていました。九州地方北部を実力で統治した今川了俊(今川貞世)の分離独立を恐れた足利義満は、了俊を九州探題の地位から罷免(1395)しますが、了俊の後に九州・中国地方の覇者となった大内義弘応永の乱(1399)で討伐して勢力を削減しています。

関東・奥羽地方は、鎌倉時代から地方領主(土着の武装階級)の自主独立の気風が強い地域であり、室町幕府から関東地方の統治を全面委任されている鎌倉府の『鎌倉公方(かまくらくぼう)』『関東管領(かんとうかんれい,鎌倉公方の執事)』は幕府に対して余り忠実とは言えない勢力でした。鎌倉公方とその補佐役(格下の武官)である関東管領の関係も良好なものではないことが多く、1416年(応永23年)には前関東管領・上杉氏憲(うえすぎうじのり,上杉禅秀)が4代目鎌倉公方・足利持氏(あしかがもちうじ,1398-1439)に対して『上杉禅秀の乱(うえすぎぜんしゅうのらん)』という反乱を起こします。

犬懸上杉氏(いぬかけうえすぎし)の上杉氏憲(禅秀,生年不詳-1417)は鎌倉公方の足利持氏と不仲であり、持氏から関東管領の職を罷免されてしまいます。氏憲の後任として山内上杉氏の上杉憲基(のりもと)が関東管領に任命されますが、この事に不満を持った上杉氏憲(上杉禅秀)は持氏の叔父・足利満隆(みつたか)らと連合して、鎌倉公方の持氏に反乱を起こします。

足利満隆と上杉氏憲の反乱軍は、足利持氏と上杉憲基を鎌倉府から追放することに成功しますが、駿河に逃れた持氏・憲基らが幕府(駿河守護の今川範政・越後守護の上杉房方)の支援を受けて勢力を盛り返します。1417年に、満隆・氏憲は鎌倉府で追い詰められて自害し上杉禅秀の乱は終息しますが、満隆・氏憲に味方して挙兵を促したとされる足利義嗣は、京都で兄の将軍・義持から責任を問われて1418年に殺されました。

4代将軍・足利義持は存命中の1423年(応永30年)に嫡子の足利義量(よしかず,1407-1425)に将軍職を譲位しますが、義量は1425年にまだ19歳の若さで夭折しました。5代将軍・義量が父の義持の生きている間に死去したため、将軍の後継者が空位の時代が続きますが、義持はなかなか次の将軍を指名しないまま怪我の化膿がもとで危篤状態に陥ってしまいます。宿老会議の座長役である三宝院満済や管領・五職の諸侯らが、『後継者についての義持の遺言』を求めましたが、義持は諸侯の合議制の決定に従うという旨を述べただけでした。

スポンサーリンク

『将軍不在による幕政の混乱・地方勢力の台頭』を恐れる諸侯の意向を受けた三宝院満済は、『くじ引き(神意)による将軍選出』を足利義持に進言して、義持の4人の弟(3代将軍義満の子に当たる)の中から次の将軍を決定することにしました。4人の将軍候補者は、梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円でした。当時の人々の深い信仰を集めていた石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神意をくじ引きで仰いで次期将軍を決定することになり、山名時煕(ときひろ)が花押を押してくじの封印をし、管領・畠山満家(みついえ)が石清水八幡宮でくじを引いて室町第(むろまちてい,幕府の政庁)に持ち帰りました。

畠山満家が開いたくじにあった名前は『青蓮院門跡義円准三后(しょうれんいんもんぜき・ぎえん・じゅさんごう)』であり、義持の同母弟で仏教界の最高位(青蓮院門跡・天台座主)にあった義円(ぎえん)が次の将軍になることに決定しました。義円は還俗して『義宣(よしのぶ)→義敏(よしとし)→義教(よしのり)』と名前を変えますが、義宣は『世を偲ぶ』という言霊(ことだま)的な縁起の悪さを嫌い、義敏は朝廷から下賜された名前であることを嫌っての変名でした。石清水八幡宮における神判のくじ引きにより、1428年に『くじ引き将軍』と呼ばれる6代将軍・足利義教(在位1428-1441)が誕生したのです。

足利義教は自身が『神意の現れ』であるくじ引きで将軍になったこともあり、神秘主義的な思考を好み宗教的な裁判(=神判)である『湯起請(ゆぎしょう)』を黙認しました。湯起請というのは犯罪をしたと疑われている被疑者・被告人の手を熱湯につけさせて(熱湯の中にある石をつかみださせて)、その火傷や損傷の程度を見ることで『有罪・無罪(真実・虚偽)の判定』を行おうとする宗教的な裁判方法です。

この湯起請は現代的価値観から考えると嗜虐的・加虐的で野蛮かつ無意味な訴訟法に思えますが、鎌倉時代~室町時代の非合理的裁判では『死や身体障害につながるような拷問』の代替としての人道的側面もありました。湯起請であれば運が良ければ『一時的な火傷』だけで済む可能性がありましたが、『拷問を伴う裁判・取調べ』では本人が悪いことをやっていてもやっていなくても自白するまでは激しい暴力を受け続けるという恐怖があったのです。証拠主義が根付いておらず『疑わしきは罰せよ』の原則がまかり通っていた中世日本の厳罰主義・弁護無しの裁判では、湯起請のような人為が関与しない神判(しんぱん)でないと『重罪の嫌疑をかけられた無実の人・村人から村八分に合っている孤立した容疑者』の生命が助かる可能性がほとんど無かったとも言えます。

足利義教は日本国王として権力を強化した3代義満の将軍専制(君主政治)を理想として、『幕府の権威回復・将軍の権力強化・中央集権体制の確立』を目指しますが、その前に立ちはだかったのが九州・関東の地方勢力の叛逆でした。1395年に義満が九州探題の今川了俊を罷免した後には、渋川満頼(しぶかわみつより)・義俊(よしとし)の父子が九州探題に任命されましたが、有力守護が割拠する九州地方を統治するほどの指導力と軍事的才能を持っていませんでした。

楽天AD

九州地方には、大内氏・大友氏・少弐氏の勢力がせめぎ合っていましたが、将軍の足利義教は渋川義俊に替えて満頼の甥・渋川満直(みつただ)を九州探題に任命しました。将軍義教は、大内義弘の弟・大内盛見(おおうちもりはる,1377-1431)に渋川満直を支援させて、九州北部を一元的に統治させようと計画します。しかし、1431年に大内盛見が大友持直(おおとももちただ,)の豊後国の領土に侵攻すると、大友持直・少弐満貞(しょうにみつさだ)・菊池兼朝(きくちかねとも)の連合軍の反撃に遭って、盛見は筑前国で戦死してしまいます。

大内盛見の後を継いだ甥の大内持世(おおうちもちよ,1394-1441)は、1433年に安芸・石見守護の山名時煕の支援を受けて少弐満貞を滅亡させ、1436年には幕府軍の全面的なバックアップを受けてライバルの大友持直は再起不能なまでに打ち破りました。その結果、1437年には大内持世が九州北部地方の覇者としての地盤を固めます。

万人恐怖の専制政治を行った足利義教と嘉吉の乱

1429年には、守護を置いていない大和国(興福寺・春日大社の支配圏)で、井戸氏が頓称坊(とんしょうぼう)という僧侶を殺したことがきっかけとなり、大規模な地侍同士の争乱が発生します。筒井・十市の武装勢力と越智・箸尾の武装勢力が争い合っていましたが、越智維通(おちこれみち)が大覚寺門跡・義昭(義教と将軍位をくじ引きで争った弟)を担ぎ上げたことで、本格的な反乱へと発展し将軍義教は大和国の反幕府勢力を徹底的に討伐しました。

義昭は1441年に逃げ落ちていた九州・薩摩国(日向)で、義教の命令に抵抗できなかった守護・島津忠国によって殺害されました。上杉禅秀の乱(1416)の後に、京都(幕府)と関東(鎌倉公方)の関係は悪化していましたが、室町幕府は鎌倉府に反抗的な奥羽・関東の地方武士と直接的な主従関係を結んで『京都扶持衆(きょうとふちしゅう)』としていました。京都扶持衆とは鎌倉府の領域内に存在する『幕府派(京都方)の武士階級』のことであり、間接的に鎌倉府の動向を見張っていたという側面があります。鎌倉公方の足利持氏(1398-1439)は、京都の室町幕府に対して反抗的でしたが、鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲実(のりざね,1410-1466)は幕府に対して宥和的であり、両者の仲は次第に険悪になっていきます。

1436年に、信濃守護・小笠原政康(まさやす)と国人・村上頼清(よりきよ)との紛争が起こり、村上が足利持氏に援軍を求めましたが上杉憲実がこの要請を強く拒絶したため、『反京都派の持氏』と『京都派の憲実』の対立は決定的となります。1438年には、持氏が憲実を暗殺するという噂が飛び交って事実上の戦争状態となり『永享の乱(1437-38年)』が起こりました。鎌倉府叛逆の事態を深刻に受け止めた将軍・足利義教は、第102代・後花園天皇(在位1428-1464)『治罰の綸旨(ちばつのりんじ,逆賊を処罰するという天皇の命令)』『錦の御旗』を要請して『鎌倉討伐の政治的正統性』を担保してから、大軍を鎌倉公方(足利持氏)に差し向けました。

1438年11月に大軍に追い詰められた足利持氏は、降伏の和議を申し込んで金沢の称名寺(しょうみょうじ)で出家しましたが、義教は足利持氏・義久(よしひさ)の父子を鎌倉の永安寺に幽閉します。関東管領・上杉憲実は、関東地方の安定統治のために足利持氏・義久を鎌倉公方の職に戻すように京都に申し入れます。しかし、義教はその憲実の提案を受け容れず、相国寺の柏心周操(はくしんしゅうそう)と鹿苑寺の瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)を使節として送り、持氏・義久父子を殺すように命令します。1439年、相次ぐ要請に抗しきれなかった上杉憲実は、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の上杉持朝(もちとも)と千葉胤直(たねただ)に命じて永安寺を攻撃させ、足利持氏・義久は自害に追い込まれました。

楽天AD

持氏の子である春王(はるおう)・安王(やすおう)の幼少の兄弟は下総国(茨城県)に逃げ落ちて、持氏派の勢力であった結城氏朝(ゆうきうじとも,1402-1441)の元に身を寄せます。春王・安王を抱える結城氏朝は持氏恩顧の武士勢力に檄文を飛ばして、反幕府の軍勢を集め1440年3月に下総・結城城で挙兵しますが、この反乱を『結城合戦(1440-1441)』と呼びます。

結城合戦では、天然の要害を抱えた結城城に篭城する結城氏朝を、関東管領の上杉憲実と下野守護の小山持政(おやまもちまさ)が中心になって攻め立て、義教が派遣した幕府軍の大軍が駆けつけたこともあって1441年4月16日に結城城は陥落します。結城氏朝は戦死して春王・安王は捕縛されますが、上杉憲実の助命嘆願を退けた冷徹な足利義教は、京都へ送還する美濃国の路上で春王・安王の兄弟を処刑させました。

将軍の専制権力に抵抗する可能性がある全ての勢力・人物を叩き潰すというのが足利義教の基本戦略であり、薄情な義教の弾圧粛清は日常生活における些細な失敗や小さな無礼にまで及び、『恐怖政治』の様相を呈してきます。6代将軍・足利義教『恐怖の魔王』と呼称されることもありますが、それは義教が自分に従わない守護勢力や気に入らない人物を、情け容赦なく処罰・弾圧していったことに由来しています。

こういった義教の恐怖政治的な抑圧に対して、後花園帝の父である伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ,1372-1456)は、『看聞日記』の中で『万人恐怖』という言葉でシニカルに評価しています。足利義教の独裁的・強権的な政治手法は『有力守護の家督相続』への干渉にまで及び、自分に従順で協力的な人物に各国の守護の家督を継がせるようになります。1433年11月には、越前・尾張・遠江守護の斯波義淳の後継者(家督)を、嫡子の持有(もちあり)から次男の瑞鳳(還俗して義郷,よしさと)に変え、1435年7月には山名時煕(ときひろ)の後継者を嫡子の持煕(もちひろ)から次男の持豊(宗全)に変えました。

京極持光の後継者も弟の持清(もちきよ)から高数(たかかず)に変更しており、義教は有力守護の家督相続者を自由に変更することで自分に絶対の忠誠を誓う家臣団を形成しようとしたのでした。親族の持氏(鎌倉公方)を討伐した永享の乱以降、義教は守護大名の裏切りに対する猜疑心(警戒心)を強めていきます。義教に反目していた一色義貫(いっしきよしつら)土岐持頼(ときもちより)は1440年に粛清されることになり、1441年には、結城合戦への参戦命令(義教の命令)を拒否した畠山持国(はたけやまもちくに)が河内・紀伊・越中の守護職を解任されて出家しました。

将軍に少しでも歯向かう者は徹底的に処罰するという足利義教の『万人恐怖の政治』によって、室町幕府の住職を担う三管五職(さんかんごしき)の家柄のうち、義教に卑屈に追従する管領・細川持之(もちゆき,1400-1442)以外のほぼ全ての家が何らかの追及・処分を受けました。処分を免れているのは五職の赤松氏(赤松満祐)だけでしたが、播磨を拠点とする赤松満祐(あかまつみつすけ,1381-1441)は将軍・義教との折り合いが悪く、京都の都雀(噂好きの民衆)は『次は赤松討たるべし』と赤松氏への不幸(義教による理不尽な処罰)の到来を盛んに噂していました。

一色義貫と土岐持頼の忙殺にショックを受けた赤松満祐は義教から余計な嫌疑を受けないために、狂乱により病気療養中と幕府に届け出て家督を嫡子の赤松教康(のりやす)に譲りました。3代・足利義満の時代から、赤松円心(則村)の命日に将軍の前で赤松家の家臣が『赤松囃子(あかまつばやし)』を踊ることが慣例化していましたが、やられる前にやることを決意した赤松満祐は謀略を巡らして義教を自邸に招きました。『庭の池で泳ぐカルガモの親子が可愛いので遊びにおいでください』という口上で将軍義教を招いた赤松満祐・教康の父子は、赤松家が滅ぼされる前に将軍を不意討ちで暗殺する覚悟を決めていました。

スポンサーリンク

1441年6月24日、京都の赤松邸に招かれたのは将軍・足利義教と義教の御相伴衆(ごしょうばんしゅう)を務める細川持之(ほそかわもちゆき)・畠山持永(はたけやまもちなが)・山名持豊(やまなもちとよ)・京極高数(きょうごくたかかず)・一色教親(いっしきのりちか)・細川持常(もちつね)・大内持世(おおうちもちよ)・公卿の三条実雅(さんじょうさねまさ)という幕政の中枢を占める錚々たる大物のメンバーでしたが、生命を賭けてまで義教を守ろうとする忠義の家臣は殆どいませんでした。

日が暮れる夕方になると兼ねてからの計画通り、赤松家の武装した数十人の武士が酒宴に雪崩れ込み、剛勇無双で知られる安積行秀(あづみゆきひで)が恐怖の魔王と恐れられた将軍・足利義教の首を一刀の下に斬首しました。将軍に従順だった取り巻きの細川持之・畠山持永・山名持豊は、義教が赤松氏の家臣に暗殺されたのを見ると一目散に逃げ出して一命を取り留めますが、義教の恩顧を受けていた大内持世と京極高数はその場に残って赤松氏の家臣と壮絶な斬り合いを行いました。

大内持世と京極高数は将軍が暗殺されたこの事件で重傷を負うことになり、その後間もなくその怪我が元で死去することになります。将軍義教が赤松氏(赤松満祐)の謀略で暗殺されて、室町幕府による討伐軍が赤松氏を打ち倒すまでの一連の反乱を『嘉吉の乱(かきつのらん,1441年)』といいます。将軍暗殺後に本拠地の播磨・坂本城に戻った赤松満祐は、総司令官・山名持豊、副司令官・細川持常の幕府の連合軍に攻撃されて、城山城で自害することになります。

しかし、この嘉吉の乱で管領・細川持之が御花園天皇に『治罰の綸旨』を要請したことから、幕府の軍事指揮権の独占性(将軍の政治的な権威性)が揺らぐことになり、管領の細川氏と守護の山名氏の対立が深まるにつれて室町幕府の統制力が衰えてきます。6代将軍・義教の後を継いだのは、細川持之が擁立した幼少の7代将軍・足利義勝(よしかつ,1434-1443)でした。

義勝が10歳で夭折すると弟の足利義政(よしまさ,1436-1490)が8代将軍に就任しますが、幼少の将軍が続いたことで管領や守護の幕政への発言力が強まり将軍による集権的な統制力は弱まりました。8代将軍・足利義政の時代には細川勝元・山名宗全(山名持豊)・日野富子らが幕政の実権を握ることになり、有力な守護大名の家督相続の問題が深刻化する中で、京都の町を絶望的なまでに荒廃させる『応仁の乱(1467年)』が発生することになります。

楽天AD
Copyright(C) 2007- Es Discovery All Rights Reserved