8代将軍・足利義政と京都五山の経済力

享徳の乱による足利成氏の台頭と日野重子の女人政治
京都五山の経済的貢献と日野富子の女人政治

享徳の乱による足利成氏の台頭と日野重子の女人政治

『万人恐怖の足利義教』の項目では、鎌倉公方の足利持氏が失脚した永享の乱(1437-38年)結城合戦(1440-41年)について説明しましたが、この二つの内乱に勝利して関東に大きな影響力を持ったのが山内上杉氏・関東管領の上杉憲実(のりざね,1410-1466)でした。

上杉憲実は永享の乱の時から主君の持氏と戦うことに抵抗を感じており、幕府に対して政務・軍事からの引退を願い出ていましたが、憲実の政治的指導力を高く評価する幕府は隠居を許しませんでした。永享の乱後に足利持氏が自害すると、憲実は弟の上杉清方(きよかた,1412-1446)に関東管領の職を譲り、長男・上杉憲忠と三男以下の子をすべて出家させました。

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次男の房顕(ふさあき)だけに僅かな領地を与えて武士の道を歩ませましたが、関東管領の世襲は否定したわけです。しかし、上杉清方が早死にしたため、長男・上杉憲忠(のりただ,)が長尾景仲(ながおかげなか)らに擁立されて関東管領の地位に就くことになり、それを聞いた上杉憲実は子の憲忠を絶縁します。憲実は徹底した『厭世的・隠遁的な世界観』を持つようになっており、親子兄弟が争い合う血なまぐさい戦乱の世を生きることに否定的になっていたようですが、1447年11月には蔵書の大半を足利学校に寄進して目的のない放浪の旅に出ます。

1441年4月に、結城合戦で結城城が陥落して足利持氏の子の春王・安王は殺害されますが、結城城に篭城せずに信濃の国人・大井持光(おおいもちみつ)に匿われていた8歳の持氏の子・成氏(しげうじ)は生き残り、1448年に再び鎌倉に戻ります。成氏の幼名は、永寿王丸あるいは万寿王丸であったといいます。持氏の支持勢力や越後守護・上杉房定(ふささだ,上杉清方の子)に擁立された足利成氏(あしかがしげうじ,1438-1497)は鎌倉公方の地位に返り咲き、1449年に永享の乱以降断絶していた鎌倉府の職務体制(足利氏の鎌倉公方と上杉氏の関東管領)が復活しました。

しかし、鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉憲忠は家臣団の対立もあって関係が悪化し、1450年4月には両者が軍事衝突して成氏が憲忠を相模国へと追い落としました(江ノ島合戦,1450年)。江ノ島合戦の争乱は、親成氏派の管領・畠山持国(はたけやまもちくに,1398-1455)と憲忠の弟・上杉道悦(どうえつ)によって和解が進められるのですが、1452年に管領となった親上杉派の細川勝元(ほそかわかつもと,1430-1473)が足利成氏に挑発的な対応をしたため、成氏が暴走して1454年12月に上杉憲忠を鎌倉の邸宅で暗殺しました。この憲忠暗殺の後に、関東地方で成氏派と上杉派の激しい戦闘が繰り返されるようになりますが、この一連の内乱のことを『享徳の乱(きょうとくのらん)』といいます。

8代将軍・足利義政の時代に関東地方で勃発した内乱である享徳の乱(鎌倉公方と扇谷・山内上杉氏の戦い)は、1455年~1483年までの長期にわたって続き、一時は中世日本を代表する都市である鎌倉が大規模に消失するほどの損害を受けました。上杉憲忠を殺害した成氏は幕府に弁明しましたが、幕府は許さず将軍義政の弟・足利政知(まさとも,1435-1491)を鎌倉公方として関東に派遣しました。しかし、足利政知と上杉氏の連合軍は成氏との戦いに完敗して鎌倉に入ることはできず、政知は伊豆一国を統治する『堀越公方(ほりこしくぼう)』と称することになります。15世紀後半の関東(鎌倉)は京都よりも早く戦国時代に突入しましたが、その中で最も有力だったのは鎌倉公方の足利成氏であり幕府に対する根強い抵抗を続けました。

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15世紀になると、奥羽地方の北部では安東政季(あんどうまさすえ,生年不詳-1488)によるアイヌの植民地化(道南12館の建設))が行われていましたが、アイヌの少年が刀鍛冶との値引き争いで殺されたことがきっかけで『コシャマインの戦い(1457年)』が起きます。オシャマンベの首長コシャマインを中心としたアイヌが一斉に蜂起を起こして蝦夷地の和人館12館のうち10館を陥落させますが、その後、蠣崎季繁(かきざきすえしげ,生年不詳-1462)武田信広(たけだのぶひろ,1431-1494)の軍勢に鎮圧されました。コシャマインは武田信広が引いた強弓に打たれて死亡し(1458年)、蠣崎季繁の女婿となった武田信広は和人館がある道南を統一して松前藩の始祖となります(蠣崎氏の子孫が松前氏と改姓します)。

室町幕府の政治は、3代義満や6代義教といった専制的なリーダーシップを持つ特別な将軍の時代を除いて、基本的に『合議制(寄合制)・宿老会議』によって意志決定が行われました。幕府の合議制における衆議(話し合い)によって重要な政治決定を行ったわけですが、初代将軍・足利尊氏の政治顧問を務めた三宝院賢俊(けんしゅん)以来、『三宝院(真言宗・醍醐寺の座主)』が宿老会議の主催者(座長役)の役割を担ってきました。

合議制を客観的立場から調整する三宝院の役割は、三宝院賢俊(けんしゅん,1299-1357)・三宝院光済(こうさい)・三宝院満済(まんさい,1378-1435)と続いてきましたが、満済が死去すると宿老会議・合議制の主催者の権威は将軍・足利義勝と義政を産んだ日野重子(ひのしげこ,1411-1463)へと移っていきます。満済の次の三宝院義賢(ぎけん)は、宿老会議で座長の役割を求められることはなくなり、醍醐寺の座主が幕政の合議に参加するという慣習も衰えていきます。日野重子は6代将軍・義教の側室であり、永享6年(1434年)に7代将軍・義勝(千也茶丸)、永享8年(1436年)に8代将軍・義政を産んだことで影響力を強め、幕政の重要な決定事項を左右するようになりました。

征夷大将軍の生母・日野重子は『大方殿(おおかたどの)』と呼ばれて大奥と合議制(宿老会議)で大きな権力を握るようになり、8代将軍・足利義政の時代には生母(日野重子)と乳母(今参局・いままいりのつぼね)が幕政に大きく干渉してくる『女人政治(にょにんせいじ)』の様相を呈してくるのです。1455年正月には、指導力の無い義政の治世を慨嘆する『政(まつりごと)は三魔(さんま)に出ずる也(なり)。御今・有馬・烏丸也』という落書が貼り出され、将軍義政が『御今(乳母の今参局)、有馬(近習の有馬郡守護・赤松持家)、烏丸(日野重子の親族の日野資任,ひのすけとう)』に幕政を壟断されている不甲斐なさが示唆されています。

8代将軍・足利義政は政治活動(将軍の政務・軍事)における意欲と関心を殆ど持っていませんでしたが、一方で、華麗優雅な義満の時代の『北山文化』に並び立つ、枯淡風流な侘び寂び(ワビサビ)の要素を取り入れた『東山文化』を京都に花開かせました。

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京都五山の経済的貢献と日野富子の女人政治

将軍義政の大奥において、生母・日野重子と乳母・今参局の主導権争いは続いていましたが、1455年8月に日野富子(ひのとみこ,1440-1496)を正室に迎えたことで日野重子・富子のほうが優位な立場に立つようになってきます。1459年に日野富子が生んだ男児が死産すると、今参局が富子に呪詛をかけたという讒言(告げ口)があり、義政の激怒を買った今参局は大奥を追放されて近江国・甲良庄で自害することになります(1459年1月22日)。

8代・義政の治世の室町幕府では、日野富子が政治に無関心な夫(義政)に代わって幕政に介入する絶大な権限を振るうようになり、富子が産んだ足利義尚(よしひさ,1465-1489)と細川勝元が後見する足利義視(よしみ,1439-1491)との将軍後継問題も深刻になってきます。

応仁の乱(1467-1477)が勃発する直前の室町時代には、『有力守護や管領の家督相続問題・将軍位の相続問題・将軍を傀儡化する女人政治・幕府の権威を低下させる綸旨の乱発』といった諸問題が山積しており、室町幕府の全国の守護に対する統制力・国防力と治安維持能力は低下する一方でした。3代・足利義満や6代・足利義教の治世にあった室町幕府の中央集権的な統治権力は衰え、将軍の専制支配を目指そうとするエネルギッシュな意気込みも無くなっていました。

後花園天皇に『治罰の綸旨』を頻繁に求めたことも、室町幕府の外敵征圧に対する自信の低下を象徴しており、朝廷の権威に頼らない幕府の自主独立の気概を損ねました。しかし、8代将軍・足利義政が成人すると『天皇の綸旨』に頼らず『将軍の御判御教書(ごはんみきょうじょ)』によって政治的判断を行うようになり、僅かながらも将軍の権威を回復しました。

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日野富子を中心とする女人政治の伸張については将軍を傀儡化したという問題はあっても、当時一流の知識人であった一条兼良(いちじょうかねら,1402-1481)『樵談治要(しょうだんちよう)』のように男女同権思想の立場から女人政治を積極的に肯定するものもありました。応仁の乱という致命的な政治秩序の瓦解を経験しながらも、一条兼良はその責任を女人政治には帰しておらず、道理(ビジョン)と能力さえ備えていれば女性でも立派に政務が執れるとしています。その一方で、日野富子は強欲に蓄財と利殖に励んで民衆の生活を振り返らなかった悪女・悪妻という評価もあり、幕府の財政を辣腕をもって切り盛りする強かな女性政治家としての顔と利己的な蓄財に励む顔との両方を持っていたのかもしれません。

将軍・足利義政は政治では優れた業績を残すことが出来ませんでしたが、文化面では京都の東山山荘を拠点とするワビサビ(侘び寂び)・枯淡幽遠の要素に趣深く彩られた『東山文化』の発展に貢献しました。東山文化を代表する建築物として、義満の北山文化の『鹿苑寺(金閣寺)』に対する『慈照寺(銀閣寺)』があり、書院造(しょいんづくり)の幽遠なたたずまいの中に武家・公家・禅宗の文化が絶妙に統合されています。

落ち着いた風情のある建築以外にも、東山文化では能、茶道、華道、香道、庭園(造園)、連歌(娯楽)など多種多様な芸術・娯楽が開花するところとなり、絵画の芸術分野では、狩野正信(狩野派の始祖)、土佐光信(土佐派の始祖)、雪舟(水墨画の大成者)などを生み出しました。室町幕府の国教となったのは禅宗の臨済宗(栄西が開祖)でしたが、至徳3(1386)年に3代将軍・足利義満が中国の五山制度に倣った『京都五山』『鎌倉五山』を整理しました。京都五山の上に立つ別格の禅寺とされるのが南禅寺(亀山法皇が開基)です。

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『京都五山』『鎌倉五山』に指定された禅寺はそれぞれ以下のようになりますが、室町時代の京都五山は幕府の財政を背後で支える重要な役割を担っており、将軍はたびたび五山を訪問して金銭・財貨・工芸品(地方の特産物)といった貢物(献上品)を受け取っていました。幕府公認の禅宗寺院である京都五山は、伝統的な仏教教団(南都北嶺)である奈良の興福寺や比叡山延暦寺(山門)よりも広大な荘園領地を持っており、そこから非常に大きな税収と利権を得ていました。

室町幕府は五山にむりやり課税(徴税)するのではなく、将軍が五山を巡拝することで五山から自発的に金銭・財物といった貢物を献上させたり、僧侶の官職の任命時に『官銭』を納めさせたりしていました。膨大な財力と利権を蓄えた五山は『幕府のもう一つのサイフ』として機能するだけでなく、『五山・十刹・諸寺院』という禅宗の階層構造から生み出される利益の多くが幕府に還元される制度的システムが確立されていたのです。

五山が所有する広大な荘園は事実上の幕府直轄領としての性格も兼ね備えており、幕府が財政危機に陥ったときには五山から『借銭(=借金)』をすることも容易に出来たのです。五山で幕府との折衝を兼ねた経済活動に従事する禅僧のことを『東班衆(とうばんしゅう)』と呼びますが、五山は何の見返りもなく財物・金銭を提供していたわけではなく、幕府財政を強力にバックアップする代わりに禅僧が政治介入するようになったのでした。足利義視の暗殺計画を立てて文正の政変(1466年)で失脚した相国寺の蔭涼軒主(いんりょうけんしゅ)・季瓊真蘂(きけいしんずい,1401-1469)もそういった臨済宗の僧侶の一人でした。

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