応仁の乱と京都の荒廃

畠山氏の家督争いと応仁の乱の勃発
応仁の乱の拡大:細川勝元と山名宗全の派閥闘争

畠山氏の家督争いと応仁の乱の勃発

『8代将軍足利義政』の項目では、政治を疎かにして文化的遊興に耽る義政と義政を傀儡化していく側近政治(日野富子・日野勝光・管領の専横)の問題について触れました。

義政の正室の日野富子(ひのとみこ,1440-1496)は、高利貸しや豪商・寺社・関銭から賄賂を受け取って不正に私財を蓄えた強欲な女性というイメージがありますが、『押大臣(おしのおとど)』と呼ばれた兄・日野勝光(ひのかつみつ,1429-1476)と共に幕政や諸侯の人事・政策に強く干渉しました。

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義政は富子になかなか男子が産まれなかったため、天台宗浄土寺門跡として出家していた弟の義尋(ぎじん)を還俗させて将軍の後継者とします。義尋は還俗して足利義視(あしかがよしみ,1439-1491)と名乗り、その居住地から『今出川殿(いまでがわどの)』と呼ばれました。しかし、義尋を還俗させた1464年の翌年に日野富子に足利義尚が産まれます。

将軍候補の足利義尚(あしかがよしひさ,1465-1489)の後見として実母・日野富子と管領・山名宗全(山名持豊,1404-1473)が付くことになり、正式な将軍後継とされていた足利義視には管領・細川勝元(1430-1473)が後見に付きました。『足利義尚・日野一族・山名党』『足利義視・細川党』の将軍候補の家督争いが生まれますが、これが斯波氏や畠山氏の家督相続問題と結びつくことで、史上空前の京都の内乱である応仁の乱へと発展していきます。

嘉吉の乱(1441)で6代将軍・足利義教が暗殺されて以降の室町幕府では、細川氏・山名氏・畠山氏の幕政への発言力が強まっており、畠山持国が管領・山城守護に任命された1449年には室町幕府の中で非常に強い存在感を示していました。足利義教の恐怖政治の時代に、1441年、畠山持国(もちくに,1398-1455)は義教の関東遠征(永享の乱の討伐)の命令を断ったという理由で、守護職を罷免されて家督を弟の畠山持永に奪われました。しかし、嘉吉の乱で持国を疎んじていた将軍義教が暗殺されると、持国は挙兵して持永を討ち畠山家の家督を再び手に入れ、河内・紀伊・越中・大和の守護へと返り咲きます。

応仁の乱勃発の直接のきっかけになるのが畠山氏の家督相続争いですが、畠山持国は初めに弟の畠山持富(もちとみ)に家督を譲る約束をしますが、その後1448年に持富を廃嫡して石清水善法寺に出家する予定だった畠山義就(よしなり・よしひろ,1437-1491)を後継者に指名します。義就は幼名を『次郎』といいました。1449年(宝徳元年)には、畠山持国が河内・紀伊・越中・大和の守護職に加えて管領・山城守護の地位に任じられ畠山氏の最盛期が到来します。

同1449年、義就は将軍義政から『義夏(よしなつ)』という偏諱(へんき・名前の一字を家臣に賜与すること)を受けて畠山家の家督・守護職を継ぐ予定でしたが、1454年に持富派の被官(家臣)が義就の家督相続に反対して叛逆を起こし、持富の子・畠山弥三郎(やさぶろう)が跡目を継ぐことになります。弥三郎の後見には、細川勝元が立っていました。更に、1454年12月には将軍義政の支持を得た義就が家督を取り戻して弥三郎を打ち倒し、1455年には持国が死んで家督を継いだ義就が山城・河内・紀伊・越中の守護に補任(ぶにん)されました。

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1459年に弥三郎が死去すると、反義就派は弥三郎の弟の次郎(畠山政長)を擁立して対抗し、同年5月に義就が紀伊の根来寺の僧兵に敗北すると、細川勝元が政所執事・伊勢貞親(いせさだちか)と将軍・義政に働きかけて畠山氏の家督を義就から政長へと更迭させました。

畠山政長(まさなが,1442-1493)に家督と守護職を奪われた義就は河内に落ち延びて、天然の要害を抱える嶽山城(岳山城,だけやまじょう)に篭城して幕府軍・政長軍に激しく抵抗を続けます。1460年に河内国・嶽山城に篭城した畠山義就は、幕府の大軍に攻められただけではなく『寛正の大飢饉(かんしょうのだいききん)』にも襲われますが、多くの戦死者と餓死者を出しながらも絶体絶命の窮地を2年半にもわたって耐え抜きます。

嶽山城に篭もった畠山義就を討伐する幕府の大連合軍は、細川・山名・北畠・京極・土岐・仁木・六角といった錚々たる面々でしたが、義就は幕府軍の猛攻を天然の堅城によって耐え抜きます。この篭城戦によって京都における猛将としての武名を大いに上げた畠山義就でしたが、1463年4月に防衛を諦めた義就は嶽山城を捨てて奈良・吉野地方へと落ちていきます。

1465年に上述したように日野富子に足利義尚が誕生し、山名党が後見する義尚と細川党が後見する足利義視との対立が深まってきますが、1466年には斯波家の家督相続問題も紛糾の様相を見せてきます。8代将軍・義政は政治実務を疎んじており集権的な守護統制(守護家の家督の安定)からも遠ざかっていたので、管領・守護の一族における『家督相続争い(後継者争いのお家騒動)』にも有効な干渉や調整をすることができませんでした。

斯波氏の家督相続には、政所執事・伊勢貞親(1417-1473)と相国寺鹿苑院の蔭涼軒主(いんりょうけんしゅ)・季瓊真蘂(きけいしんずい, 1401-1469)が深く関与していましたが、伊勢貞親は足利義尚の乳父であり幕府で大きな影響力を持っていました。季瓊真蘂は『蔭涼軒日録』という時事的な日記を残したことでも知られます。

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幕府の政治顧問として権勢を強めた伊勢貞親と季瓊真蘂は、三管領の斯波氏の家督問題に介入して、斯波義廉(よしかど)から斯波義敏(よしとし)に家督を移そうとしますが、義廉に愛娘を嫁がせる予定であった山名宗全(持豊)の怒りを買って宗全から軍勢を差し向けられます。更に、義尚派であった伊勢貞親と季瓊真蘂は『足利義視が義政に反乱を企てていて、山名持豊・斯波義廉の軍勢は義視派である』という流言蜚語をばら撒き、義視の後見であった細川勝元をも敵に回します。

幕府の最大勢力である山名宗全(持豊)と細川勝元の激怒を買って、幕府中枢にいた伊勢貞親と季瓊真蘂が失脚した事件を『文正の政変(ぶんしょうのせいへん,1466年)』といいます。応仁の乱の一因には義政の将軍としての責任感や指導力の欠如があり、家督相続問題で対立する諸侯に対して八方美人的な態度をとって是非・賞罰を明らかにしなかったことがあります。

応仁の乱の拡大:細川勝元と山名宗全の派閥闘争

畠山政長との家督争いに敗れた畠山義就は奈良・吉野から大和・壷坂に逃げていましたが、山名宗全(持豊)と宗全の姉・安清院の日野富子への働きかけで、幕府に抵抗した罪を赦免されて京都帰還が許されました。京都では足利義視を支持する細川勝元と足利義尚を支持する日野富子・山名宗全との対立が強まっており、細川勝元は現管領・畠山政長の後見となり、山名宗全は畠山義就のほうを後見していました。

1467年正月に、将軍義政が畠山義就を室町第に招聘して、旧領の河内・紀伊・越中を義就に回復したことで、政長の立場は弱くなり管領を罷免されて山名党の斯波義廉が管領の職に就くことになります。畠山義就を利用した山名宗全の謀略にはまった細川勝元(政長の後見)は義政のいる室町第に押し掛けようとしますが、時既に遅し、政長の管領・守護の職を取り戻すことは出来ませんでした。追い詰められた畠山政長は自邸を焼き払って、1467年1月17日に鞍馬口の上御霊社(かみごりょうしゃ)に軍を布陣して細川勝元に援軍を要請しますが、義政が畠山氏の私戦への介入を禁じていたので勝元は政長に援軍を出しませんでした。1月18日に、畠山義就と斯波義廉の被官・朝倉孝景が上御霊社に陣を置く政長を攻めて打倒し、戦いに敗れた政長は摂津国へと落ちていきました。

この政長に対する勝利で山名宗全・畠山義就は京都で主導権を握りますが、政長を後見した細川勝元・持賢(もちかた,勝元の叔父)や京極持清は劣勢を挽回するために、山名党の地方の守護を征圧する謀略を巡らします。細川勝元・持賢は、山名宗全が守護を務めていた播磨に、赤松政則(まさのり)・赤松政秀を進軍させ、斯波義廉(山名派)の越前・尾張・遠江にはライバルの斯波義敏を派遣しました。

一色義直(よしなお)の治める伊勢に対しても細川党の土岐政康(まさやす)を進軍させ、宗全党の地方の拠点を細川党の守護・武将に侵略させるという戦略を取りました。そして、応仁の乱の直接のきっかけとなるのが、1月25日の細川党による京都の一色義直の屋敷に対する襲撃事件でした。一色義直の屋敷は室町第(花の御所)の裏築地四足門前という軍事上の重要な場所(一色邸と幕府が一直線でつながる場所)にあり、一色義直の屋敷を制圧した細川勝元は室町幕府をのっとることに成功します。

この緊急事態に際した山名宗全は、細川党の軍勢に対抗するために幕府(花の御所)・細川邸と堀川を挟んで隔たっている一条大宮の一帯に布陣を構えます。これ以降、宗全が拠点とした京都の地域を『西陣(にしじん)』と呼ぶようになり、細川勝元の一派を『東軍』、山名宗全の一派を『西軍』とする応仁の乱が燎原の火のように京都一帯と地方の分国を覆い尽くしていくことになるのです。

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畿内全域とその周辺地域を巻き込む応仁の乱は、幕府・将軍を事実上の支配下に置いた細川勝元の東軍に有利な形で始まりますが、山名宗全率いる西軍も西国の覇者である大内政弘(おおうちまさひろ,1446-1495)を味方につけて、細川党と幕府の権威(新守護の補任)に抵抗して粘り強く戦闘を続けます。将軍義政を勝元に奪われて劣勢に置かれた宗全の西軍でしたが、周防・長門・豊前・筑前の守護(筑後・安芸・石見も勢力下)である大内政弘の支援と河野通春(伊予の豪族,こうのみちはる)の海軍の援軍を受けて勢いを取り戻します。剛勇と軍略を持って知られる畠山義就も獅子奮迅の武者振りを見せつけて、9月頃には京都から東軍の戦力の大半を追い出しました。

戦況が悪化してきた細川勝元は、将軍義政に牙旗(錦の御旗)を要求し、第102代・後花園上皇(在位1428-1464)には治罰の綸旨(山名党を賊軍として討伐するための命令)を求めますが、後花園上皇は細川党と山名党の私的紛争には綸旨は出せないと拒絶しました。後花園上皇は、1464年の段階で第103代・後土御門天皇(在位1464-1500)に譲位しており、応仁の乱の時には室町第に身を寄せていました。将軍義政も山名宗全と結んでいる日野富子・日野勝光の影響を受けており、勝元に対する牙旗の授与を拒絶します。

長期化する応仁の乱の戦闘と焼き討ちによって、京都の市街にある歴史的・宗教的価値のある建築物・寺社・公卿や武家の邸宅・仏像・美術品の大半が焼失してしまうという悲惨な事態となり、平安京以来の長い伝統を誇る京の都が焼け野原となってしまいました。東軍・赤松政則の攻撃によって京都五山の別格・南禅寺が焼け落ち、それ以外にも相国寺・建仁寺・祇園社大門・多宝塔・浄蓮華院・窪寺・誓願寺・三福寺・伏見稲荷社などが戦乱の余波で紅蓮の炎に包まれましたが、五山の大半と京都の公家の邸宅の多くが焼け落ちるという惨憺たる状況でした。

西軍では畠山義就の奮戦が目立ちましたが、西軍にも京都近郊の無法者・放浪者を動因して稲荷山に拠点を構えた骨皮道賢(ほねかわどうけん)というユニークな武将がいました。骨皮道賢は1468年3月中のわずか6日間の間に、ならず者を集めた稲荷山を拠点としてゲリラ戦法で放火・略奪を繰り返して西軍を苦しめましたが、遂には西軍の総攻撃を受けて義就の配下に討ち取られました。

東軍の細川勝元には足利義政(将軍)・後花園上皇・後土御門天皇という『政治的正統性』を持つという強みがありましたが、西軍の山名宗全(持豊)も将軍候補であった足利義視を担ぎ出してきて『政治的正統性』を天下に示して争い合いました。中央(京都)から地方の守護国へと応仁の乱は拡散していきましたが、1473年3月に山名宗全が死去し5月に続いて細川勝元が死ぬと、急速に諸侯の間に厭戦気分が広がっていきました。

応仁の乱の終結に反対するのは、将軍候補者で義尚に対抗している足利義視と政長との家督争いに敗れて『分国(領土)・官職』を与えられていない畠山義就などごく僅かな面々を残すだけとなり、西軍の総帥となった山名政豊(宗全の孫)は1474年4月に幕府・東軍に降伏して旧領を安堵され山城国守護にも補任されました。西軍でその後もしぶとく戦い続けるのは畠山義就・大内氏・土岐氏などだけであり、義就の盟友の大内政弘が分国(中国地方の領国)の情勢不安で帰国することが決まると、義就はライバルの政長が守護に任じられている河内国に目をつけて侵略を開始します。

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畠山義就は政長の守護代・遊佐長直を河内から追放して、実質的な河内の支配者となり幕府の守護補任を受けないままに実力で河内を治めました。賊軍である畠山義就は武勇にモノを言わせて、河内・大和・摂津の欠郡を実効支配するようになり、その一帯は室町幕府の権力の及ばない『半独立国』の様相を呈すようになり、幕府の反体制的な諸侯・武将に対する権威が失墜したことを強烈に印象付けました。

応仁の乱(1467-1477)の11年によって京都は大きく荒廃しますが、応仁の乱後に、享徳の乱(足利成氏・山内上杉氏・長尾景春の内戦)が終結した東国に後北条氏(北条早雲・伊勢宗瑞)が台頭したり、美濃では軍事計略に優れた斉藤妙椿(さいとうみょうちん)が武威を拡張するなど『戦国武将の原型』が見え隠れするようになってきます。

自主独立と弱肉強食の気風が強まっている情勢においても室町幕府の権力は一つに結集することがなく、9代将軍・足利義尚(よしひさ,在位1473-1489)の後を継いだ10代将軍・足利義材(よしき,在位1490-1493・義視の子)の時代には、義材と管領・細川政元との対立が深まります。1493年に細川政元(まさもと,1466-1507)が起こした『明応の政変(めいおうのせいへん)』というクーデターで義材は将軍職を廃位され竜安寺にて幽閉されますが、典型的な下剋上である明応の政変は戦国時代の始まりとして位置づけられることもあります。

明応の政変に成功した政元は、11代将軍・足利義澄(よしずみ,在位1493-1508)として堀越公方・足利政知の次男の清晃(せいこう)を立てます。永正4年(1507年)に細川政元が永正の錯乱(えいしょうのさくらん)で暗殺されると、1508年、大内義興や細川高国の支援を得た義材は将軍位に復活します。義材は1498年に義尹(よしただ)に改名、1513年に義稙(よしたね)と改名していますので、将軍に復位した義材は足利義稙と呼ばれます。将軍・管領・侍所長官を筆頭とする室町幕府の政治秩序と軍事の実力が揺らいでいく中で、全国各地では幕府・将軍の統制に服さない実力主義の性格を持つ守護・守護代が増え始めており、下剋上の戦国時代の到来が急速に迫っていました。

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