吉田茂(1878-1967)

太平洋戦争の敗戦と外交官時代の吉田茂

枢軸国の一翼を担って第二次世界大戦に参戦した日本は、度重なる都市部への大規模な空襲と広島(8月6日)・長崎(8月9日)への原爆投下による甚大な被害を受け、日ソ中立条約を不当に破棄(8月8日)して対日宣戦布告をしたソ連までが敵国に加わった為、万策尽きて本土壊滅の危機に追い込まれました。昭和天皇は御前会議で降伏の決断を下し、昭和20年(1945)8月14日にアメリカ(トルーマン大統領)・イギリス(アトリー首相)・中華民国(蒋介石代表)が提示してきた降伏勧告であるポツダム宣言を受諾しました。8月15日に、天皇自らの声で国民と軍隊に敗戦を告知する玉音放送がなされ、日本は太平洋戦争(大東亜戦争, 1939-1945)に敗れて連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治下に置かれる事となりました。同日8月15日に、戦時最後の内閣であった鈴木貫太郎(1868-1948)内閣が総辞職します。

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ポツダム宣言の調印式はアメリカの戦艦ミズーリ号の甲板で行われ、日本からは大日本帝国全権・重光葵(しげみつまもる)と大本営全権・梅津美治郎(うめづよしじろう)が出席して梅津が降伏文書に調印しました。8月30日には、連合国軍総司令部(GHQ)・総司令官のダグラス・マッカーサー元帥(1880-1964)が神奈川県の厚木に到着して、戦後日本の国政改革はマッカーサーの絶対的な指示の下に推進されることになりました。マッカーサーが主導するGHQは占領政策として、日本の民主化と思想・言論・表現の自由を妨げていた治安維持法(1925年制定)を廃棄して、日本の軍需産業を積極的に支えていた財閥の影響力を弱体化させる為の財閥解体を進めました。

終戦時の内閣であった鈴木貫太郎内閣が総辞職した後には、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)を第43代総理大臣とする史上初の皇族内閣・東久邇宮内閣(昭和20年8月17日~10月9日)が組閣されます。内閣総理大臣と陸軍大将を兼務した東久邇宮は、戦後になって『一億総懺悔論』を主張しますが、GHQが主導する政治的・宗教的・民事的な自由化(民主化)を遂行する決断ができず短期間で総辞職を余儀なくされます。吉田茂は、東久邇宮内閣で外務大臣を短い期間務めますが、それは吉田茂の前任であった重光葵がGHQの民主化政策の推進に消極的であったからです。

初の皇族内閣の後に立ったのは、吉田茂の外務省時代の先輩であった幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)でした。第44代内閣総理大臣となった幣原喜重郎の元に組閣された幣原内閣(昭和20年10月9日~昭和21年5月22日)では、GHQの民主化五大改革の指令が出され、戦争責任者に対する公職追放令が施行されました。この公職追放令によって、戦時中に日米開戦に賛成した大臣たちが殆ど追放された為、当時それほど首相の座に近くなかった吉田茂に、首相となる大きなチャンスが生まれたのです。

吉田茂の先輩筋の外務官僚に当たる幣原喜重郎は、田中義一内閣の軍事外交路線に反対し、英米協調路線と中国大陸への内政不干渉を唱えていたので、戦後、幣原外交派に属していた人たちが結果として影響力を強めることになりました。戦後の幣原内閣の組閣には、裏で吉田茂の強力な推薦があったと言われていますが、幣原から吉田へ政権が継承されることで、戦後日本の親英米路線が固まったと見ることも出来ます。幣原喜重郎は、現代的な平和主義者や進歩主義者では決してありませんでしたが、国際協調路線こそが日本を救うという合理的な考えを持った当時では数少ない政治家の一人でした。

英米との協調や国際世論との宥和を重要視する幣原外交は、太平洋戦争前に台頭しつつあった日本の軍国主義化を牽制する役割を持っていて、1930年にはロンドン海軍軍縮条約の締結にまで漕ぎ着けました。しかし、幣原喜重郎は、1931年の満州事変の事態収拾で判断を誤ったことと田中義一内閣以降の軍拡戦争路線に否定的だったことで、急速に政治的発言力を低下させて自らの意志で政界から引退しました。故に、戦後の幣原内閣の組閣というのは、一度、政界から引退した外交官が、再び政界の頂点に上るという異例な事態でした。

幣原内閣の後に政権を取ることになる吉田茂内閣(昭和21年5月22日~昭和22年5月24日)ですが、外務省時代の先輩後輩の関係にあった幣原喜重郎と吉田茂は、親米派であり、軍部との仲が良くなかったという事では共通していましたが、戦時中の政治思想や外交方針には大きな違いがありました。吉田茂は戦争末期には、太平洋戦争を早期終結させるための和平工作に関与した廉で憲兵隊に検挙されたという経歴を持っていますが、戦時中には戦争外交の全てに積極的に反対していたわけではなく、日米開戦に反対しつつも中国進出には肯定的な態度を示していました。戦後日本の方向性を定めた首相・吉田茂の政治思想を一言で表現するならば、国家間の利害関係を見極めて損失を出すような政策判断はしないプラグマティズム(実利主義)であると言えます。

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吉田茂が戦争回避に動いた背景には、義父であった牧野伸顕(まきののぶあき)の意向が強く働いていたといいます。牧野伸顕は、薩摩藩出身の明治の元勲・大久保利通の次男であり、外交官から閣僚(文部大臣)にまで上り詰め、伊藤博文や西園寺公望といった明治初期の政界の主流派とも深い関わりがありました。吉田茂が中心となって結成された吉田反戦グループは『ヨハンセン・グループ』と呼ばれたが、そのメンバーには、牧野伸顕や岩淵辰雄、若槻礼次郎、古島一雄などがいました。

戦中に内閣を結成した近衛文麿なども、吉田茂の“天皇主権の国体護持のための早期和平構想”に基本的に賛同していたといいます。吉田茂は太平洋戦争の早期和平を画策して憲兵に検挙されましたが、その動機は平和主義的な理想ではなく、戦争が長期化することによる反体制感情の高まりや共産主義勢力の増強を懸念したのです。吉田茂や牧野伸顕は、飽くまで明治以来の伝統である国体護持を守ることを目的として戦争に反対したので、どちらかといえば保守的な守旧派であったと言えます。

吉田茂は、アメリカ合衆国的な民主主義や自由主義を積極的に日本に導入することにはそれほど熱心ではなかったという意味で、進歩的知識人などではなくどちらかというと保守的な価値観を持つ政治家でした。アメリカとの同盟関係を強固なものとすることで、赤化を進める共産主義圏から侵略されない国家安全保障を実現し、戦争で荒廃した国土を復興する経済力を蓄えようとした吉田茂は、イデオロギー対立や価値観といった『理念』よりも安全保障や食糧の確保といった『実利』にこだわった人物といった趣きがあります。

太平洋戦争開戦前の吉田茂は、アメリカやイギリスとの協調路線を強化して同盟関係を結ぶべきだという主張を持っていましたが、それはアメリカやイギリスの政治体制を支える自由主義・民主主義・人権思想のイデオロギーに共鳴したわけではなく、当時のアメリカやイギリスの総合的な国力がドイツやイタリアよりも圧倒的に勝っていたからです。イギリス単独であればヒトラー率いるナチスドイツは勝利することが出来るかもしれないが、非常に大きな経済生産力と軍事力を持つアメリカの支援を受けたイギリスとドイツが衝突して戦争になれば、ドイツが敗退してヨーロッパの勢力圏を失う恐れが高く、そうなると日独伊軍事同盟などは国家安全保障にとって何の意義もなくなるということです。プラグマティスト・吉田茂は日本の国体を護持するために、当時から世界の最強国となりつつあった経済的・軍事的大国のアメリカと手を結んだ方が合理的であると考えたのでした。

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戦時中の外交官・吉田茂は、国際的な協調路線と勢力均衡を模索する幣原喜重郎の『幣原外交』よりも、軍事大国化を国是として積極軍事外交で国益獲得を目指す田中義一首相の『田中外交』にシンパシーを感じる部分が大きかったようです。吉田茂は中国の奉天総領事時代(関東軍の満州国建設以前)には、大陸進出の生命線となる満州の積極経営に肯定的であり、日本の軍部(関東軍)ではなく、中国の北洋軍閥の首領であった張作霖に満州を経営させようと目論んでいたこともありました。

張作霖の軍閥はその後、中国国民党と中国共産党の国共合作で組織された中国革命軍との戦いに敗れて、政治の中心地である北京から追われました。政治的な利用価値が殆どなくなったと見て取った日本軍(関東軍)は、河本大作の立案によって張作霖爆殺事件(1928)を起こし、関東軍主導の満州国の建設に乗り出していくことになります。

張作霖の後に軍閥を継承した子の張学良が日本に敵対してきたため、石原莞爾(いしわら かんじ)板垣征四郎が率いた関東軍は、南満州鉄道を爆破する柳条湖事件(1931)で満州事変を勃発させ張学良の軍閥勢力を放逐しました。そして、清王朝のラストエンペラーだった宣統帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)を復位させて傀儡政権を樹立し、日本軍による満州全土の間接支配に乗り出したのです。満州国建設の後、日本と中国(国共合作の勢力)は終わりの見えない日中戦争の泥沼へと入り込んでいき、戦争状況は悲惨と停滞を極めていくことになります。

GHQ主導の戦後処理とサンフランシスコ講和条約の締結

吉田茂は国体護持を目指す反戦主義者であり、国益を図る為の親米主義者ではあったが、天皇制を廃そうとする共和主義者ではなかったし、自由主義や民主主義の拡大普及などにも余り関心を持っていなかったといいます。吉田茂は、高知県の自由民権運動家であった竹内綱(たけのうちつな)の五男として生を受け、生後まもなく、竹内綱の友人で横浜で海運業(船問屋)を営む資産家だった吉田健三の養子に出され、氏名が吉田茂となりました。太平洋戦争の終戦は、反戦と親米であった吉田茂に予期しなかった首相の座をもたらしましたが、吉田茂の政治的な思想・信条は、戦前と戦後で殆ど変わっておらず基本的には保守主義の政治家と言えます。

吉田茂は、戦後も天皇の権威性に基づく国体を温存することを強く望み、昭和20年9月27日に、GHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーと昭和天皇の会談を媒介して二人を引き合わせました。国家元首である昭和天皇の温厚で毅然とした人柄に触れたマッカーサーは、『日本の長い歴史に裏打ちされた天皇制は、戦後日本の混乱した国民感情を安定化する為に必要である』と判断し、天皇制を全廃することはアメリカの占領政策の不利益になると本国に申し送りました。しかし、11月にアメリカ本国の議会から『日本の天皇制を、天皇主権を認めた現在の形態で維持することは許されない』との通達がきたので、現在の日本国憲法に定められているような、天皇が政治的権限を一切持たない『象徴天皇制』を導入する運びとなりました。

GHQは戦後日本で行政を統括する内閣総理大臣の条件として『反米的思想を持たない人物・太平洋戦争を遂行した戦争責任者でない人物・外交政策に精通した人物』などを上げ、東久邇宮の後に、当時の日本では珍しかった先進的な自由主義者・幣原喜重郎が首相になりました。幣原内閣は短期に終わって、第一次吉田内閣(昭和21年5月~昭和22年5月)が成立しますが、戦後の混乱期には、対米関係を再建する外交交渉が重視されたこともあって、幣原喜重郎と吉田茂、芦田均(第47代総理大臣, 任期昭和23年3月10日~昭和23年10月15日)といった外務官僚出身の首相が多く誕生しました。

GHQの戦後占領政策の基本は、日本が再び軍国主義化したり報復戦争をすることが出来ない政治体制を再構築することであり、日本に平和主義と自由主義・民主主義を導入することで、全体主義的な熱狂や危険を抑制できると考えました。しかし、GHQ及び最高司令官のマッカーサーは、日本経済の復興や成長には直接の責任を負っておらず、占領直後は、食糧危機や飢餓の苦境に対する支援に余り熱心ではありませんでした。日本において、軍事用途への転換が容易な重化学工業や機械工業を発展させることにもアメリカは否定的でした。昭和20年(1945)は農作物の収穫量が少ない不作となったので、国民を養う為の米や野菜が大幅に不足し、日本各地で激しい『米寄こせデモ』が起こりましたが、外相であった吉田茂はマッカーサーとの直接交渉で食糧支援への同意を引き出しました。

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全てが焼け野原となって国民の精神が疲弊し、経済活動を円滑に行う為の社会インフラや生産設備が破壊され尽した日本を前にして、吉田茂は『徹底した現実主義』を貫かなければ日本の将来はないと考えました。昭和21年(1946)3月、憲法改正草案の作成が幣原内閣で閣議決定されますが、吉田茂外相は天皇主権の大日本帝国憲法に執拗にこだわってGHQに無闇に抵抗することは国益を損なうと考えました。つまり、『独立国家としての主権』を回復する為に『アメリカとの講和条約の締結』を最優先すべきだと考えて、妥協できる問題については妥協していくことにします。吉田茂自身は、平和主義や民主主義を信条とする政治家ではありませんでしたが、自由民主主義国家として平和を重んじる姿勢を国際社会に示すことが、日本の評価・国益につながることを知悉していたのでした。

吉田茂本人は、戦時中には、満州進出(中国進出)による国益の獲得に関して肯定的であったように、日本国憲法9条に定められた『戦争放棄の平和主義』を永続的に保持する気持ちはなかったようです。GHQにしても、『とりあえず、一応、日本国憲法への改正を進めてみて、将来の日本に不都合な部分が生じればその都度再検討して改正すれば良いではないか』という形で、(大日本帝国憲法から)日本国憲法への憲法改正に難色を示す日本の有力政治家をなだめたと言います。憲法9条の平和主義条項について、吉田茂は、『所謂、不磨の大典の一条項として、将来に亙って変わらざる意義を持つというよりも、どちらかといえば間近な政治的効果に重きが置かれていた』といった記述を残しており、当時の段階では(現在の日本国憲法の持つ意義と価値は別問題として)、日本国もGHQも日本国憲法の公布・施行についてそれほど重大な決意と長期的な視点を持っていたわけではないと言えるでしょう。

戦後60年以上が経過した現在でも憲法は一度も改正されていないし、改正することが良いのか悪いのかについて国内の世論も大きく分かれる状況がありますが、吉田茂という政治家は、国家の最高法規であっても日本の国益と国際社会の現実に合わせて臨機応変に改変すればよいという柔軟思考の持ち主であったとは言えるでしょう。戦争放棄を規定した憲法の改正気運が何故、国民レベルで高まらなかったかの理由には色々あるでしょうが、その最大の理由は、悲惨で残酷な戦争を二度と繰り返したくない、戦争にはかかわりたくないという嫌戦の意思と厭戦の気分にあったと思います。また、国家権力の暴走を抑止する立憲主義に基づいて、『現実的な利益』よりも『普遍的な正しさ』を追求することに価値を見出した日本の国民性も大きく影響していると考えられます。

普遍的理念を定義する憲法だけでは平和は実現できませんが、日本は、米ソ冷戦やアメリカの核の傘、高度経済成長、国際貢献など各種の要素によって戦後の長い期間、一切の戦争を行わず戦争による自国民の死者を出さずに歴史を刻むことが出来たのは幸運だったと思います。日本国憲法の優れた部分の一つは、『国家の命令によって、個人の意思に背いて徴兵することや戦争に参加させることを禁じている』部分にありますが、この普遍的理念を有効にする為には、周辺国との緊張状態の緩和や諸外国の戦争放棄に向かう意思と統制主義と拮抗する個人主義の普及が欠かせません。

保守主義者であった吉田茂が戦後間もない時期に目的としていた事柄は、『対米講和条約締結による国家主権の回復』であり、国力の基幹となる経済と財政を再建する為に『国防に必要な軍事負担を削減すること』でした。元々、軍部と対立することが多く、軍部の越権的な増長に手を焼いていた外務官僚であった吉田茂は、アメリカが起草して提示してきた日本国憲法の第9条2項にある『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』ということが、戦後日本の経済再建や軍事負担の切り下げに役立つと思ったのです。国家安全保障を自前の軍隊で行うのではなく、安全保障の確保の大部分をアメリカに移譲して、国防にかかる経済的コストや人的被害を最小限度に留めることは、結果として日本の高度経済成長に貢献しました。

幣原内閣の時に衆議院が解散されて、戦後初めての総選挙が行われますが、その選挙の前にGHQによって、戦時体制への積極的貢献者(軍国主義・軍事占領を肯定した政治家・官僚)の公職追放が行われました。総選挙を終えて自由党総裁となった鳩山一郎は、連立政権の首班となって首相となることが確実とされていましたが、1946年5月4日に、三国軍事同盟を結んでいたナチスドイツ政権を礼賛した文章を書かせたという罪状で、GHQから公職追放の処分を受けました。首相就任を目前にして夢を立たれた鳩山一郎は、戦前の田中義一内閣(昭和2年4月20日~昭和4年7月2日)で同僚だった吉田茂に自分の後任を託そうと決め、松野鶴平が吉田茂を後押ししたことで吉田茂は自由党総裁の責務を引き受けることになります。

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しかし、政党政治の有力者であった英才の鳩山一郎は、長期間にわたって自由党総裁と内閣総理大臣の地位を吉田茂に譲渡する意図はなく、自分の公職追放が解除されるまでの期間、中継ぎとして吉田茂に政界を取りまとめていって欲しいと考えていたのでした。とりあえず、外務官僚であった吉田茂が苦手だった党内実務や政治に必要な金策は、鳩山一郎が担い、吉田茂は内閣の人事と政策判断に集中することになりました。昭和21年5月13日に行われた会談の場面において、『鳩山一郎の政界パージ(追放)が解けたら、すぐに鳩山に政権を譲り渡す』という口約束が為されたのか為されなかったのかは、吉田茂と鳩山一郎の回想で大きく食い違っており、これが後になって吉田茂と鳩山一郎の対立原因となります。

第一次吉田内閣が政権を担っていた1946年11月3日に日本国憲法が公布され、翌年1947年5月3日に新憲法が施行されました。人間的な愛嬌があり楽天家の性格であった吉田茂は、アメリカの軍人らしい鷹揚さと強い自信に満ちた雄弁家のマッカーサーとウマが合い、個人的な関係でも友情を育むことが出来ました。その結果、吉田茂はマッカーサーから、日本国民を飢えさせないように食糧支援を積極的に行うという確約を取り付け、日本国憲法9条を盾にして、日本にとって大きな財政負担となる軍事力強化の再軍備を回避し続けました。貴族趣味的な振る舞いを好んだ吉田茂は、外交官時代に培った国際社会の時流を読むセンスを最大限に活かし、単一の価値観にこだわる頑迷な政治交渉ではなく、国家間の経済関係で確実に利益を引き出すような柔軟な交渉を好みました。吉田茂は、ケーディス次長率いる民生局とマッカーサー率いる参謀本部の確執を巧みに利用してマッカーサーの意を汲むことで、財閥解体や農地改革、教育体制の変革など国益と大きく矛盾しない戦後政策を実施してきたと言えます。

昭和22年(1947)4月に実施された総選挙で、吉田茂を総裁とする自由党は敗れて、片山哲(1887-1978)が率いる社会党が与党となり内閣を組閣し、その後は芦田均内閣へと続いていきます。その後、自由党と民主党(旧・日本進歩党)の一部が連立して民主自由党ができ、吉田茂はその総裁となります。昭和23年(1948)10月15日に第二次吉田内閣が成立、昭和24年2月16日に第三次吉田内閣が組閣され、吉田茂を首相とする内閣は昭和29年(1954)の第五次吉田内閣まで続く長期政権となります。吉田茂が政治課題として最も重視したのは、敗戦後に失われた日本の国家主権の回復であり、そのために必要な講和条約の締結でした。

極東における米ソの冷戦状況が緊張してきたのを見た吉田茂は、ソ連や共産圏を含めた『全面講和』を後回しにして、とりあえず、西側諸国(資本主義圏)との講和を実現する『多数講和』を選択することにしました。アメリカが提示してくる講和条約を締結し、西側の自由主義国家とサンフランシスコ体制を確立することが、海洋貿易国家である日本の繁栄と安全につながると判断したわけです。吉田茂は外務官僚出身ということもあり、基本的に世論に配慮せずに政策を決める権威主義的な首相でしたが、民意よりも自分の理性とセンスを信頼する天才肌の自信家でもありました。その意味では、国民から圧倒的な人気を集めていた政党政治の雄・鳩山一郎と対照的な政治家でした。鳩山一郎の政界追放(パージ)が解除された時に、官僚政治家であった吉田茂の時代は終焉へ向かい、党人政治家が激しく民意を問いながら勢力を競い合う政党政治(派閥力学)の時代へと突入していきます。

対日本の講和条約を詰める為に日本に来日したジョン・ダレス特使と吉田茂首相との間の議論では、主権国家としての独立と独立に伴う自由主義国家としての責務についての意見が交換され、吉田は積極的に冷戦に対する軍事的貢献は現段階では出来ないが、最小限の国防の責務を果たす為に警察予備隊を強化した保安隊を設立することを約束して、将来の再軍備に対する意識を暗示的に示しました。その結果、昭和26年(1951)9月8日にアメリカのサンフランシスコでサンフランシスコ講和条約が締結され、同時に、日米安全保障条約(日米安保条約)で日米同盟を結んで、米軍の無期限駐留を認めたのです。

吉田茂の最大の功績は、サンフランシスコ講和条約の締結で自由主義圏に日本を加え、国家主権を法的な手続きを経て取り戻したこと、そして、混乱期にあって食糧不足に喘いでいた日本の基礎的な再建をやり遂げたことだと言えるでしょう。しかし、吉田内閣以降の政治には、沖縄の領土返還、北方領土の返還、ソ連や中国など共産圏の国々との国交回復(講和条約締結)、再軍備の問題、本格的な経済復興(社会インフラの再建)など困難な課題が残されることとなりました。

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