毛利元就・尼子経久・大内義隆:西国大名の勃興

尼子経久と大内義隆:西国大名の盛衰
毛利元就による中国地方の制覇

尼子経久と大内義隆:西国大名の盛衰

『細川政権の崩壊と三好長慶の台頭』の項目では、応仁の乱後の京都の政治闘争に焦点を合わせましたが、中国地方・九州地方といった西国に視点を移すと出雲守護代の尼子氏と長門・周防守護の大内氏の勢力が強まってきます。室町中期頃まで山陰・山陽の中国地方に大勢力を築いていた山名氏(山名宗全)は、応仁の乱では西軍の大将となりましたが、その後支配領域を縮小させ山陰地方では尼子氏が台頭してきます。

尼子氏は出雲の守護代で、祖先は豪放なバサラ大名(婆沙羅大名)として知られる佐々木道誉(佐々木高氏, 1296-1373)にまで遡りますが、氏族は近江国地頭の『佐々木京極氏』です。本姓は宇多天皇を祖とする『宇多源氏』とされています。佐々木道誉の子の京極高秀(たかひで, 1328-1391)には、嫡子・京極高詮(たかあきら・たかのり, 1352-1401)と次男・尼子高久(あまごたかひさ, 生没年不詳)がいましたがこの高久が尼子氏の始祖となります。

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尼子高久は父の京極高秀の指示を受けて近江守護代に任じられますが、高久の拠点とした地域が犬上郡尼子郷だったことから尼子氏を名乗るようになります。高久の次男である尼子持久(もちひさ)は京極氏が守護を務める出雲の守護代となり、出雲尼子氏(いずもあまごし)の祖となります。持久の子の尼子清定(きよさだ, 生年不詳-1478)の時代に京都で応仁・文明の乱が発生して出雲守護の京極氏の支配力が衰え、尼子清定は出雲国における権力の地盤を固めます。

清定は月山富田城(島根県安来市広瀬町)を本拠にして軍事力を強化し、幕府や守護に対する公用銭・段銭(税金)の支払いを怠って独立の構えを見せるようになります。尼子清定は山名氏の出雲侵略を撃退した功績を出雲守護の京極氏から賞されて、能義郡奉行職や幕府御料所である美保関代官職を与えられました。清定の子の尼子経久(つねひさ, 1458-1541)の代になると戦国大名としての政治的・軍理的独立性が明確となり、幕府・守護に対する段銭・加地子など税金の上納を取りやめて軍事侵攻と政治経略によって出雲周辺に領土を拡張していきます。経久は守護の京極政経の権益である寺社領を押領し、独自の勢力を強化していたため、尼子氏と京極氏との政治的緊張は強まり続けていました。

幕府・守護の威令に服さない尼子経久を警戒した室町将軍は、1484年に経久に対する追討令を発して出雲守護・京極政経(まさつね,生年不詳-1502,1508)に経久を攻撃させますが、この時には経久の出雲支配に抵抗する国人(地方武士層)の勢力が強かったので経久は月山富田城を追放されてしまいます。捲土重来(けんどちょうらい)の機会を伺っていた尼子経久は、山中氏・亀井氏・真木氏・川副氏など譜代の家臣をまとめ上げ、1486年正月に鉢屋弥之三郎(はちややのさぶろう)率いる賀麻党70人の手引きで月山富田城へと侵入します。

富田城では新年を祝う千秋万歳(せんずまんざい)という舞楽の催しが行われていましたが、その平和で無防備な状況の中に100人規模の兵士を突入させた経久は、女子供を含む700人を殺害して月山富田城を奪還しました。城主の塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)は妻子と共に自害しますが、この非情な急襲の謀略を実行した尼子経久は『鬼』と異称されて恐れられるようになります。

月山城を奪還した尼子経久は京極氏から独立して、出雲国の統一作業に着手し軍事と謀略を巧みに組み合わせて有力国人の三沢氏・三刀屋(みとや)氏・赤穴(あかな)氏を服属させます。経久が正式の出雲守護に任命されたのは京極政経が没した後の1508年であり、出雲国を完全に統一したのが最後まで抵抗した赤穴氏を服従させた1518年でした。尼子経久は1508年の三好氏討伐や1511年の船岡山合戦など京都の戦にも多く参戦しています。

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経久は出雲を起点として伯耆(ほうき)・石見・安芸へと進出しますが、その過程で長門・周防・九州北部に勢力を持ち安芸を伺っている大内義興(よしおき, 1477-1529)と対立することになり、尼子氏の勢力拡大(1511年の尼子氏の安芸侵攻など)を恐れた義興は京都から領国へと帰還します(1512年に大内義興が山口に帰国)。

大内義興は10代将軍・足利義稙(1466-1523)を庇護し将軍復位を支援した功績などによって、室町幕府の管領代や山城国守護に任命されるなど京都でも高い地位を築いていましたが、本国の山口(長門・周防)の周囲で尼子氏の軍事勢力が急速に拡大しているのを懸念したのでした。1518年に、嫡男・尼子政久(まさひさ, 1488-1518)は反乱を起こした桜井宗的(さくらいそうてき)が篭城する阿用城を攻めて戦死しますが、経久の後継者は政久の子の尼子晴久(詮久・あきひさ, 1514-1561)に決まりました。

経久には有能な武将であった尼子久幸(ひさゆき)がいて、経久は初め久幸を後継に据えようとしましたが久幸が晴久を薦めたといいます。1521年には経久は石見と安芸を手中にしますが、大内氏が持っていた安芸の拠点・鏡山城の攻略には尼子氏の傘下であった毛利元就(もうりもとなり)と幼少の当主・毛利幸松丸(こうまつまる, 1515-1523)が参加しました。

1524年は中国地方の歴史が大きく動いた年であり、経久が西伯耆に進んで南条宗勝(なんじょうむねかつ)と伯耆守護・山名澄之(やまなすみゆき)を打倒し、安芸奪還のために軍勢を差し向けてきた大内義興(よしおき)・大内義隆(よしたか)・陶興房(すえおきふさ)らを尼子に帰属していた毛利元就が撃退します。しかし、尼子家臣の亀井秀綱(かめいひでつな)が毛利家の家督争いに介入したことなどから、尼子氏の有力武将で目覚しい活躍をした毛利元就が尼子氏から離反して大内氏に味方するようになります。

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戦国乱世を勝ち抜けた尼子経久は最盛期には、出雲・伯耆・安芸・石見・隠岐・因幡・備後・備中・備前・美作・播磨を支配下に置く大大名へと成長し、中国地方東部の全域に大きな勢力圏を広げました。尼子経久が11ヵ国にまたがる大勢力圏を築き上げたことから『陰陽十一州の太守』と呼称されることもありますが、直接的に一国全域を統治したのは出雲・伯耆・隠岐だけであり、経久の死後(1541年)の晴久の代からは急速に影響力を落として毛利元就の支配領域が拡大してきます。1552年4月に尼子晴久が8ヶ国の守護に任じられた頃が最盛期でしたが、その後毛利元就の謀略などによって尼子氏の勢力は縮小し、晴久の子の尼子義久(よしひさ, 1540-1610)が当主になると1566年11月に毛利氏に降伏して月山富田城を開城しました。ここに山陰地方に大勢力を築いた戦国大名の尼子氏は滅亡することになりました。

大内政弘(まさひろ)の子・大内義興(よしおき, 1477-1529)は、1508年に10代将軍・足利義稙の将軍復位を強力に支援して京都で管領代や山城守護などの要職を手に入れましたが、西国における尼子氏との安芸(広島県)争奪戦では苦戦を強いられます。1540年から1541年にかけての吉田郡山城(こおりやまじょう)の戦いでは、尼子晴久・久幸の軍と毛利元就・大内義隆方の陶隆房(すえたかふさ)の軍が衝突しますが、尼子が大敗北を喫して尼子久幸(経久の弟)が戦死します。

1542年には大内義隆のほうが大規模な出雲遠征に失敗することになり、大内氏と尼子氏の安芸支配はなかなか確立せず漁夫の利をさらう形で毛利元就が急速に力を伸ばしてくるのです。大内義興は京都との密接な人脈を持ち京都文化を山口に輸入した大名としても知られますが、山口を『西の小京都』として繁栄させた義興自身が公家的な素養と作法に恵まれていた人物だったようです。織田信長登場以前の実質的な天下人でもあった義興が1529年に没すると、その後を、貴族趣味・教養文化に傾倒する柔弱な大内義隆(よしたか, 1507-1551)が継ぐことになります。

武家としての武勇と公家としての教養の両面に優れていた文武両道の大内義興と比べると、子の大内義隆は政治・軍事への関心が乏しく『和歌・禅宗・儒学・古典漢籍・朝廷の有職故実(儀礼慣習)』などの貴族文化・教養趣味・公家との交遊に溺れる日々を送っていたといいます。しかし、大内義隆は軍事活動に秀でた家臣の杉興連や陶興房らを活用して九州の大友氏と激しい戦いを演じており、キリスト教にも興味を持った義隆は、イエズス会のフランシスコ・ザビエルに山口での布教を許しています。

貴族文化や公家との交遊に興じる大内義隆は、知識人で公家文化に精通していた文治派・相良武任(さがらたけとう, 1498-1551)を重用して、それまで大内氏の勢力拡大に大きな軍事的貢献をしてきた武断派・陶隆房(すえたかふさ,陶晴賢・はるかた, 1521-1555)を遠ざけます。義隆の不当な待遇に怒った陶晴賢(陶隆房)は1550年に毛利氏と結んで謀反を企て、貴族文化に耽溺する義隆に不満を感じている家臣をまとめて、1551年8月29日に山口の大内館を襲撃しました(大寧寺の変,だいねいじのへん)。

陶隆房の急襲を何とか逃れた大内義隆は、縁戚である石見の吉見正頼を頼ろうとしましたが果たせず、長門の大寧寺で自害に追い込まれ嫡子の大内義尊(よしたか, 1545-1551)も陶軍に殺害されます。大寧寺の変の後に、陶隆房は主君の義隆から『隆』を偏諱(へんき)されていた『隆房』の名を『晴賢』に変えて陶晴賢と名乗るようになります。

義隆の後の当主には豊後の大友義鎮(よししげ,大友宗麟)の異母弟・大友晴英(はるひで, 生母が義隆の父である大内義興の娘)が就くことになり、晴英は大内義長(よしなが, 1532-1557)と改名しました。大内義隆の死によって周防大内氏の正統な血縁は断絶しますが、陶晴賢が大内義長を傀儡にした不正な出自を持つ政権は求心力が乏しく、1555年に厳島の戦い(いつくしまのたたかい)で陶晴賢が毛利元就に敗れて自害すると大内氏は政治的にも軍事的にも一挙に衰退していきます。

1557年、内部対立が激しくなった大内氏を毛利元就が更に追撃して大内義長は自害することになります。百済の聖明王の第3皇子である琳聖太子(りんせいたいし)を祖とすると称し、平安時代以来、数百年以上にわたって周防・長門・九州北部の守護として君臨してきた西国の大大名・大内氏はあっさりと歴史の舞台から退場したのでした。大内氏に代わって中国地方の覇者となったのは、国人から下剋上を果たして戦国大名となった毛利元就でした。

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毛利元就による中国地方の制覇

毛利元就(もうりもとなり, 1497-1571,幼名・松寿丸)は、鎌倉幕府の有力官僚・大江広元の四男・毛利季光を祖とする毛利氏の血胤であり、安芸国吉田郡山城(広島県安芸高田市吉田町)を本拠とする毛利弘元(ひろもと,1466-1506)の次男として誕生しました。名字である毛利の由来は鎌倉時代に拠点を置いた相模・毛利荘にあるとされ、安芸毛利氏の祖は鎌倉時代初期に安芸・吉田郡の地頭職を手に入れて南北朝時代に安芸へと移住してきました。

毛利氏は地方に土着して荘園経営と勢力拡大を行う『国人(こくじん)』であり、元就の父・弘元と兄・興元がそれぞれ大内氏の当主(弘元が大内政弘・興元が大内義興)から偏諱を受けていることから大内氏との同盟関係を維持していました。弘元の長男である毛利興元(おきもと,1492-1516)が家督を継ぎましたが24歳で急逝し、興元の子の幸松丸(こうまつまる, 1515-1523)もわずか9歳で夭折しました。幸松丸の死後に家臣団から擁立された毛利元就が家督と所領を継承することになり(1523年)、安芸郡山城を拠点とする国人領主として27歳の元就の戦国時代がスタートすることになります。

家督を継ぐ前の1516年には、毛利元就は佐東銀山城主・武田元繁(たけだもとしげ,安芸武田氏)と配下の猛将・熊谷元直(くまがいもとなお)を『西国の桶狭間』と呼ばれる有田中井手の戦いで破っています。家督を相続したすぐ後には弟の相合元綱(あいおうもとつな, 生年不詳-1524)を担いだ反乱も起きましたが、元就はこの内部対立の原因となる元綱派を徹底的に鎮圧・粛清しました。

1523年には尼子氏の大軍が安芸侵略のために攻め寄せてきましたが、元就は大内氏との連盟でこの危機を乗り越え、1541年にも尼子氏の郡山城攻撃を退けることに成功します。毛利元就は『武略・計略・調略』によって安芸国の統一と中国地方の支配を進めていきますが、元就の『巧妙な謀略(計画的なはかりごと)』による安芸の国人支配の事例として『両川乗っ取り(りょうせんのっとり)』があります。

1541年に、安芸の有力国人(竹原小早川氏の当主)である小早川興景(こばやかわおきかげ, 1519-1543)が病死すると、その後継者に自分の三男である徳寿丸(とくじゅまる,小早川隆景)を就かせました。小早川興景の妻が元就の兄・興元の娘だという血縁を利用した『小早川家の乗っ取り』は見事に成功し、元就の三男・小早川隆景(たかかげ,1533-1597)が安芸東南部の竹原荘を支配する小早川家の家督を継ぐことになります。沼田荘を本拠とする沼田小早川氏のほうも後継者が絶えることになり、1550年に小早川隆景が強大な瀬戸内海軍を掌握する竹原・沼田小早川氏の当主の座に就きました。

安芸北部の大朝荘を拠点とする有力国人の吉川氏(吉川国経)は、尼子経久と毛利元就の双方に娘を嫁がせて婚姻による安全保障を行っていましたが、元就の妹が吉川国経(きっかわくにつね,1443-1531)の子の吉川元経(きっかわもとつね,1459-1522)に嫁いでいました。毛利元就に嫁いだ吉川国経の娘は妙玖(みょうきゅう,1499-1546, 元経の妹)といいます。吉川元経が60歳の時に後継者の吉川興経(おきつね,1508-1550)が生まれますが、興経が小さな頃に元経は死去し、祖父の国経が死んでから興経が家督を継ぐことになります。

吉川興経は剛勇の武士であったといいますが、尼子氏と大内氏との安芸争奪戦に対する防衛戦略において優柔不断なところが多く、吉川氏の家臣からの忠誠と信頼を大きく失っていました。そこに付け込んだ毛利元就は、吉川興経の家臣団を懐柔して次男の元春を吉川家の養子に送り込み、吉川家の家督を強引に吉川元春(きっかわもとはる, 1530-1586)に継がせました。猛将の吉川興経は吉川家当主への返り咲きを粘り強く元就に持ちかけますが、元就は将来の禍根を残す恐れがあるとして興経の隠居館を襲撃させ、吉川興経と嫡子・吉川千法師を抹殺しました。

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毛利元就は三男の小早川隆景に『小早川家』を乗っ取らせ、次男の吉川元春に『吉川家』を乗っ取らせることで『安芸の両川乗っ取り』を成功させます。隆景が山陽地方の軍事を担当し元春が山陰地方の守備を担当する形で攻守のバランスが取れた『毛利両川体制』が確立されました。

毛利元就の有名なエピソードとして『三本の矢』の喩え(たとえ)がありますが、これは三人の兄弟(隆元・元春・隆景)の結束・連帯の重要性を説いたもので、枕元に三兄弟を呼び寄せた元就が『一本の矢は簡単に折れるが、三本まとめた矢の束はそう簡単に折ることはできない』と語ったとされます。つまり、中国地方を統一している毛利一族が一味連帯していればそう簡単に外敵の勢力から滅ぼされることはないが、毛利氏の内部や親族で対立・紛争を起こせばそこを外部の敵に利用されて毛利氏が滅亡する恐れがあるということです。

毛利元就は幼少期に自分を補佐していた有力国人・井上氏(井上元兼)の専横と越権に業を煮やしていたが、遂に1550年7月、毛利氏の権威を軽んじて好き放題していた井上一族を一人残らず粛清しました。井上一門を粛清した後、元就は井上衆の罪状を書き連ねた『井上衆罪状書』を公表して、安芸における家臣の専横・越権を許さない毛利氏の中央集権体制の成立を宣言しました。

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井上衆の粛清が終わると、元就は家臣団に毛利主家の命令と権威に従うという『起請文(きしょうもん,誓約書の効果を持つ文書)』に署名させ、毛利氏の『成敗権・裁判権・軍事指揮権』をより公的なものとして強化しました。1550年の毛利両川体制の確立と家臣団の忠誠の確認によって、毛利元就は『国人の代表者』から専制的・独立的な『戦国大名』として飛躍することになります。

1551年に大寧寺の変によって大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)に殺害されると、陶晴賢・大内義長の連合政権が誕生しますが、大内義隆のもとに人質として送られていた元就の長男・毛利隆元(たかもと, 1523-1563)は陶晴賢征伐を主張します。1554年に毛利元就は大内軍(陶晴賢・大内義長)との決戦を断行しますが、その途中で非常に大規模な『防長一揆(周防・長門における国人・土民・惣村の一揆)』に苦しめられるものの、1555年には厳島の戦いで陶晴賢を滅亡させました。

防長一揆の鎮圧には殲滅・弾圧と懐柔・交渉を使い分けながら3年以上の月日を費やしましたが、1557年には大内義長を滅ぼし防長征服(防長経略)を完成させ嫡男の毛利隆元が家督を相続します。隆元に家督を譲った後も元就が引き続き政治・軍事の決定権を掌握していましたが、隆元は元就よりも早く死に隆元の嫡男・毛利輝元(てるもと, 1553-1625)が後継者となります。

毛利元就は『大内氏(陶晴賢・大内義長)に対する防長征服の成功』『出雲尼子氏の討伐(尼子義久の月山富田城における降伏,1566年)』によって、中国地方全域と大内氏の旧領の大半を支配する大大名となりますが、その後も国人・土民の統治と九州地方の大友宗麟や尼子氏残党(尼子勝久の抵抗)との戦いに悩まされました。1560年代に入って体調を崩しがちであった元就は、1571年6月14日に拠城である吉田郡山城において死去します。1571年は15代将軍・足利義昭と戦国の覇者・織田信長との対立が深刻化していた時期であり、1573年には将軍・義昭が信長によって京都から河内に追放され、室町幕府が事実上崩壊することになります(形式的には将軍足利義昭は、豊臣秀吉に屈従する1588年まで征夷大将軍の職位に留まりました)。

尾張の織田信長が天下一統を目指して中国地方に軍勢を差し向けてきた時には毛利一門は織田軍に対抗していましたが、信長の意志を継いだ豊臣秀吉の天下が定まってくると当主の毛利輝元は豊臣政権五大老の一人となり、毛利本家を支えた小早川氏と吉川氏も秀吉政権に従うことになります。中国地方の覇者となった毛利氏も、中央(京都・大坂)の政情の急変には上手く対応することができず、豊臣秀吉の全国統治に従った後に起こった天下分け目の『関ヶ原の戦い(1600年)』では、西軍の総大将に担がれた毛利輝元が徳川家康に敗れることで外様大名の地位に位置づけられることになります。江戸幕府の政治体制において『中国地方の覇者』から『長州藩初代藩主』に転落した毛利輝元は、支配領域と石高を大幅に削減されることになりました。

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