五・一五事件と政党政治の崩壊

世界恐慌と井上日召の血盟団事件


五・一五事件と政党政治の崩壊

世界恐慌と井上日召の血盟団事件

『満州事変と満州国建設』の項目では、海軍青年将校が引き起こした『五・一五事件』の概略について説明しましたが、日本・西欧列強が急速に軍国主義やナショナリズムの総動員体制に傾斜していった要因の一つとして、アメリカのニューヨーク株式市場の大暴落(暗黒の木曜日)を発生源とする『世界恐慌(大恐慌)』がありました。ニューヨークのウォール街で1929年10月24日に起こった金融恐慌は、世界各地に波及して深刻な不況が拡大しましたが、その原因は供給力・設備投資の過剰と需要の大幅な減少であり、デフレスパイラルが加速して企業の倒産と失業者が急速に増大して労賃も下落を続けました。

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景気後退と需要減少の影響は日本にも押し寄せて、中小企業の倒産や失業者の増加、賃金の不払いなどの『昭和恐慌』を引き起こし、デフレで農作物の価格も大幅に下がったので農村も激しい不況に襲われました。農村の窮乏化によって東北地方や北海道では娘の身売りという悲惨な事例が増え、天候不順などで農作物が不作となると飢えや欠食児童(弁当を持っていけない児童)も増加傾向を示しました。第二次世界大戦やアジア太平洋戦争が勃発したマクロな要因として、こういった世界恐慌の需要減や雇用減を解決するために『対外戦争・軍需産業・総動員体制』が選ばれたということがあり、新たな市場や労働力、天然資源を獲得して国民の経済生活を再建するという意図も多くの帝国主義国で見られました。

昭和期の日本では急進的なファシズム運動や国粋主義的な軍人によるクーデターが相次ぎますが、満州事変の直後から民間右翼が絡んだ『三月事件・十月事件・血盟団事件,五・一五事件,二・二六事件』などが起こりました。民間右翼の代表的な思想家・活動家としては、北一輝(きたいっき)、西田税(にしだみつぎ)、大川周明(おおかわしゅうめい)、頭山満(とうやまみつる)、権藤成卿(ごんどうせいきょう)、橘孝三郎(たちばなこうざぶろう)、井上日召(いのうえにっしょう)などが知られています。この中で国家主義的なクーデター計画である『血盟団事件(1932年)』を主導したのが、辛亥革命後の激動の中国で軍のスパイや満鉄社員として活動していた日蓮主義者の井上日召(1886-1967)でした。

井上日召は『偽の国日本を真の国日本に立て直す』というスローガンを掲げて、小学校教員・古内栄司(ふるうちえいじ)や東大法学部学生・四元義隆(よつもとよしたか)らと『血盟団』を組織して“一人一殺の精神”で国賊を誅罰しようとする『血盟団事件』を起こしました。1931年8月に郷詩社(ごうししゃ)という右翼団体の会合が開かれましたが、そこでは『井上日召―海軍青年将校グループ』『西田税―陸軍青年将校グループ』の連携が模索されましたが、結局実現には至らず、井上日召のグループだけが血盟団事件で暴走しました。

1932年2月に始まった『血盟団事件』では、天皇の政治を補佐する役割を間違えて日本を国難と堕落に陥れたとして、政友会の犬養毅・床次竹次郎(とこなみたけじろう)・鈴木喜三郎、民政党の若槻礼次郎・井上準之助・幣原喜重郎、三井財閥の池田成彬(いけだしげあき)・団琢磨(だんたくま)、三菱財閥の木村久寿弥太(きむらくすやた)、重鎮の西園寺公望・牧野伸顕(まきののぶあき)などが粛清の対象とされていました。実際に暗殺されたのはその中の一部の人物ですが、1932年2月9日、大蔵大臣・井上準之助(いのうえじゅんのすけ)が東京本郷追分にある駒本小学校で政党演説をしようとしていた所、小沼正(おぬまただし)に射殺されました。3月5日、三井合名理事長で日本経済連盟会長の経験もある団琢磨が、日本橋室町の三井本館前で菱沼五郎(ひしぬまごろう)に暗殺されました。

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血盟団事件は表向きは逆賊を排除して天皇親政を実現し、伝統的な日本精神の回復を図る復古主義的革命でしたが、実際には『社会的不平等(貧富の格差)の拡大・庶民農民の生活の困窮』による支配者階級に対する不満が根底にありました。財閥関係者が多く標的にされていたのも、財閥の経営者や幹部が贅沢な生活をして私欲を満たしているのに、下層階級の労働者や地方の農家は飢餓に苦しむほどの貧苦・重税に喘いでいて、それを何ら救済しようともしない財閥と政府に不満・義憤が高まっていたからです。1932年3月11日、首謀者の井上日召らが自首しましたが、当時の軍部の影響力の増大や非常時の時代の空気もあり、裁判所の裁判官は井上日召らの国家反逆罪に等しい行動を『憂国の情に基づく国体護持と天皇制擁護のための行動』と解釈して、死刑求刑に対して無期懲役という甘めの判決を下しました。その後、恩赦が繰り返し出されて、井上日召と小沼正は1940年に仮釈放で出所しました。

五・一五事件と政党政治の崩壊

1932年(昭和7年)5月15日に、海軍青年将校を中心とする軍事クーデターである『五・一五事件』が勃発しますが、この事件の背景にあったのも世界恐慌による日本経済の大不況と農村の疲弊であり、政治・官憲の腐敗や財閥・資本家の強欲、特権階級の利権を否定して天皇中心の国体を再建しようとするものでした。海軍青年将校の古賀清志中尉と中村義雄中尉が陸軍士官候補生を組織し、そこに血盟団残党や橘孝三郎ら民間右翼(愛郷塾の国粋的な農民)の勢力が加わることで、政党政治の原則を揺らがす五・一五事件が引き起こされることになりました。

5月15日の午後五時半頃、海軍青年将校のグループが政財界の中枢に対して攻撃を仕掛け、第一組の三上卓(みかみたかし)中尉らは永田町官邸の犬養毅首相を襲撃しました。土足で官邸に上がりこむ三上卓ら9人は、犬養毅によって応接間へと招きいれられて『話せば分かる・話を聞こうじゃないか』と諭されますが、三上は『最後に言い残しておきたいことがあれば話しておけ』と飽くまで襲撃の目的を達しようとします。山岸宏中尉が『問答無用。撃て!』と号令を掛け、黒岩勇少尉が拳銃の引き金を引いて、瀕死となった犬養首相の右こめかみに三上が止めの一発を打ち込みました。

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犬養毅の暗殺は成功したものの、古賀清志ら第二組が担当した牧野伸顕内大臣の暗殺計画は失敗に終わります。内大臣官邸や立憲政友会本部、日本銀行に投げ込まれた手榴弾は大きな被害にはつながらず、発電所を襲撃して東京全体を停電させその間に政治の中枢を占拠する計画も全く実現できませんでした。海軍青年将校のグループや民間右翼は、直接的な決起の行動力を持っていましたが、具体的な国家改造論の内容や政治改革を断行するための手順を踏まえていなかったので、5・15事件が本格的な政体転換や国家変革につながることはありませんでした。しかし、首相が暗殺されるという軍事クーデターによって、政党内閣の立場が更に弱くなって、軍部の存在感と発言力が増すことになります。

軍部に妥協した元老の西園寺公望の奏請によって、海軍大将の斎藤実(さいとうまこと,1858-1936)元朝鮮総督が首相に任命されることになり、軍部・官僚の影響力が増した挙国一致内閣としての斎藤実内閣が成立したことで、『憲政の常道=多数派政党が内閣を組閣する政党政治』が歪められることになります。つまり、1924年(大正13年)に『大正デモクラシー』の成果として成立した『護憲三派内閣』以来の憲政の常道が守られなくなったのであり、首相・内閣は必ずしも国政選挙で多数派を形成した政党から任命されるわけではなくなったのです。

選挙結果とは無関係に閣僚になった軍人や革新官僚の『国家主義的・統制主義的』な意向が多く政治に採用されることになり、『選挙+政党政治』による民主主義の基盤が突き崩されて、政党政治家そのものが全体主義的な統制を支持する『ファッショ化』の変化を見せてきました。政党の政策立案能力や議会運営能力を否定するための制度改革も着実に為されていきます。1935年5月に内閣調査局・内閣調査会が設立され、それらが1938年に企画院へと改組発展させられることで、国家主義的な革新官僚(新官僚)や軍人による『官僚主導体制(国民統制・集権的計画経済・国民の自由の抑圧)』が法律的にも実質的にも固められていきました。

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選挙で選出された国会議員が立法を担い、議会の最大多数を取った政党が内閣(行政府の中枢)を組閣するという『憲政の常道(政党政治)』が次第に否定されていく中で、左派政党の社会民衆党も満州事変や国家統制主義の支持に回るファッショ化を起こしていき、軍部と革新官僚の国家主義的な政策目標に反対する政党勢力や国民世論も減少していきました。

5・15事件や2・26事件など軍の一部が暴走するクーデター・反乱計画は政府によって鎮圧されるのですが、大不況を克服できず国民生活を救済できない『既成政党・財閥に対する不満や義憤』は蓄積していきます。その結果、『国家主義的な軍事拡大・経済統制』を志向する軍部・革新官僚へと世論の期待が集まり始め、『言論・思想の自由』が閉塞する空気が作られて、政党政治(議会政治)や個人の尊厳が機能しない『ファシズム(翼賛体制・国民総動員の全体主義)』へと日本は傾斜していくことになりました。

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