国家総動員体制と大政翼賛会による統制

国家総動員法の制定と国民生活・産業・農村の統制強化


近衛文麿の新体制と大政翼賛会

国家総動員法の制定と国民生活・産業・農村の統制強化

『盧溝橋事件と日中戦争』の項目では、日本軍と中国軍の偶然の発砲を巡る小競り合いである盧溝橋事件が発生して、日中戦争(支那事変)へと発展していくプロセスを説明しました。日中戦争・アジア太平洋戦争(日米戦争)では、国家の兵力と労働力、経済力、物資を全て投入してギリギリまで戦う『総力戦』の様相となり、総力戦を戦うための『総動員体制』が段階的に固められていきました。国民全員を戦争に協力させ貢献させるために、政府は日中戦争発生後の1937年(昭和12年)8月24日に『国民精神総動員実施要綱』を閣議決定して、10月12日には国民精神総動員中央連盟が結成されました。国民精神総動員中央連盟は、馬場鍈一内相・安井英二文相が主導して、有馬良橘(ありまりょうきつ)海軍大将、司法官僚の小原直(おはらなおし)、農林官僚の松村謙三(まつむらけんぞう)、右翼の井田磐楠(いたいわくす)、王子製紙会長の藤原銀次郎(ふじわらぎんじろう)ら政官財の有力者を集めて発足しました。

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政府が国民の天皇(国体)への忠誠心や戦争への積極的協力を強めるために採用したスローガンは『挙国一致・尽忠報国・堅忍持久』の3つであり、1939年3月には平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)内閣の荒木貞夫文相を委員長とする国民精神総動員委員会が設立されて『国民の戦意高揚』の任務に当たりました。国民精神総動員運動は国民の戦意高揚を目的とする官製国民運動でしたが、その下部組織には『部落会・町内会・隣組』の相互監視機能や密告制度が用いられたりもしました。

国民精神総動員運動によって戦時体制が整備されていき、1937年10月に精神総動員強調週間、11月に国民精神作興週間、1938年2月に肇国(ちょうこく)精神強調週間が作られ、『神社参拝・教育勅語の奉読・出征兵士の歓送・柔剣道の鍛錬・ラジオ体操の奨励・戦没者慰霊祭・軍人遺家族慰問・国防献金』などが国民に強制されるようになりました。1938年2月に『愛国公債購入運動』が、6月には『貯蓄報国強調週間』が、7月には『一戸一品献納運動』が実施されて、国民が国家に対して経済的な協力をすることが奨励され、国民の精神だけではなく経済力も動員されるようになっていきます。

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国家のリソースを軍需産業に集中させて国民生活に必要な物品・資源が欠乏しやすくなったため、1938年2月には『家庭報国綱領』なるものを制定して、各家族に服装・食事の質素化、節約と廃物の再利用、徒歩とラジオ体操の励行、禁酒・節煙が奨励される事になりました。1939年9月になると、更に国民に対して厳しい節約・我慢を求めるようになり、一汁一菜の食事や日の丸弁当が奨励され、9月1日からは毎月1日の『興亜奉公日』が設けられて、神社参拝や勤労奉仕、料亭・娯楽場の休業が実施されました。日中戦争が始まると『表現・言論・思想の自由』についても規制が厳しくなり、1937年8月頃には陸海軍省による新聞の検閲が行われるようになり、憲兵司令部が言論・文書取締禁止事項の通達を行いました。

1937年9月には内閣情報委員会が『内閣情報部』へと改組され、言論の統制や忠君報国・天皇崇拝などの思想宣伝に利用されるようになります。東京帝国大学経済学部教授の矢内原忠雄(やないはらただお)は、『中央公論』に投稿しようとしていた戦争批判の内容を含む植民地研究の論文が軍部の検閲にひっかかって、全文を削除させられて1937年11月には教授の座を追われる事になりました。それ以外にも、反ファシズムの論調を持つ自由主義的な雑誌が相次いで廃刊に追い込まれていき、久野収の『世界文化』、斎藤雷太郎の『土曜日』、草野昌彦の『学生評論』などが廃刊になりました。1937年12月には『第一次人民戦線事件』が起こって、日本無産党や全国労働組合全国評議会(全評)の活動家の470人余りが検挙されることになり、日本無産党と全評は解散へと追い込まれました。

日中戦争の戦死者に対しては、遺骨出迎えと町葬が実施されると同時に『支那事変忠魂碑』に祀られて、一部の勇敢な戦死者には金鵄勲章が贈られて、遺家族に対しては軍事援護の僅かな生活扶助費が支給されました。1920~30年代には『食生活の洋風化・近代化』が急速に進んで、肉・卵・牛乳・バター・洋風の野菜と果物の消費量が増えて、ライスカレーやオムレツ、コロッケ、フライ、サラダ、コーヒーなどが庶民の食卓にも出てくることがありました。しかし、日中戦争が始まると質素倹約が励行されて一汁一菜の粗食となっていき、1940年には『7・7禁令』と呼ばれた奢侈品等製造販売制限規則が出されて、国民精神総動員運動のスローガンとして『贅沢は敵だ・華美な服装はやめましょう・パーマや指環はやめましょう』などの贅沢や装飾、虚栄心を戒めるフレーズが流行ることになりました。

第一次近衛文麿内閣(1937年6月4日~1939年1月5日)は、1937年に国家総動員の中枢機関として『企画院』の設置を決めて、その根拠法となる『国家総動員法』を1938年に制定しました。『国家総動員法・臨時資金統制法・輸出入品等臨時措置法』の戦時体制や経済統制を整備・強化するための3つの法律を合わせて、『戦時三法』と呼んでいます。

国民の日常生活や経済活動を強く規制する国家総動員法の第1条には、『国防目的達成のため、国の全力を最も有効に発揮せしむるよう人的物的資源を統制運用する』と明記されており、『労働力(徴用)・生産手段・産業活動・金融・投資』などの分野に幅広く及ぶ強大な統制権限が、政府に全権委任されるファシズム的な法律となりました。1939年には『国民徴用令・従業員雇入制限令・賃金統制令・臨時賃金措置令』が制定されて、政府は国民を自由に必要な労働に対して徴用して賃金も規定できるようになり、この法令に基づく徴用の乱発によって農村の若年労働力が不足する問題も起こりました。

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1941年には『物資統制令・重要産業団体令』が出されて、国内の全ての産業・企業活動が国家の強制的な統制に服するようになり、1939年の会社利益配当資金融通令、1940年の会社経理統制令、銀行等資金運用令、1942年の金融統制団体令などによって、金融や投資の部門でも国家・官僚が直接的な指示命令を出せる体制が整いました。これらの国家総動員法の個別立法によって、国家・官僚組織が日本全土の人・モノ・カネを自由裁量して統制できる『総力戦体制』が強化されたわけで、国民の私生活や労働内容も国家から全面的な管理・統制を受けるようになってしまったのです。

1938年7月には、内務省・厚生省によって『労使一体・産業報国』をスローガンに掲げた産業報国連盟が結成され、資本・経営・勤労の一体化によって『国家に奉仕するための産業活動・労働』が強く推奨されるようになります。国家の財政と維持、発展のためにこそ企業と労働者は存在するという『産業報国運動』が活発化していき、労働者の権利や労働条件を守るための『労働組合(労働運動)』は解散に追い込まれて、ストライキなどの労働者の争議権は厳しく規制されました。

農業政策・農地調整においても『食糧増産の国家的要請』が重視されることになり、国策的意図を汲んだ大日本農民組合が『農業生産力の維持増大・地主と小作人の共同福利の増進・勤労奉公の精神』をスローガンに掲げました。国家権力の介入によって地主と小作農の強制的同権化(階級的身分の解体)が推進され、『勤労奉仕による食糧増産』を至上命題とする農村共同体のファシズム的管理が強化されました。

近衛文麿の新体制と大政翼賛会

日中戦争の泥沼化・長期化に苦慮していた近衛文麿内閣は、ヨーロッパでオランダやフランスを占領して進軍するナチスドイツの破竹の勢いを見て、ナチスのようなファシズムの色彩を持つ『一国一党制』の指導力を信じるようになり、1940年(昭和15年)5月に近衛首相が一国一党制を前提とする『新党構想』を打ち出しました。近衛の新党構想に対して、政友会正統派の久原房之助、政友会革新派の中島知久平(なかじまちくへい)、民政党革新派の永井柳太郎らが親軍的な一国一党制に賛同を示し、既存の政党の消滅による一党独裁的な政権の有効性を主張するようになりました。社会大衆党の麻生久、国家社会主義から日本主義に転向した赤松克麿(あかまつかつまろ)らが、1940年3月には『聖戦貫徹議員連盟』を組織しており、既成政党の消滅による『挙国一体(実質的な一党独裁制)』のスローガンで近衛の新党構想に賛意を示しました。

第36代阿部信行内閣(1939年8月30日~1940年1月16日)第37代米内光政内閣(1940年1月16日~1940年7月22日)が短期間で崩壊すると、一国一党制のリーダーシップを掲げる第38代・第二次近衛内閣(1940年7月22日~1941年7月18日)が成立して、1940年7月~8月にかけて既成政党が相次いで解散してしまいました。7月に社会大衆党が解党、それに続いて政友会正統派・政友会革新派も解党し、国民同盟、民政党革新派も解党しました。更に8月になると民政党主流派まで解党を決定して、既成政党のほぼ全てが解党する事態となり、日本の政党政治の議会主義は完全に崩壊する形になってしまいました。

世論の支持も強かった近衛文麿と華族の宮中グループは、高級官僚・軍人幹部・資本家・地方有力者など『上層階級からのファッショ化』と労働者・農民・市民中間層など『下層階級からのファッショ化』を効果的に結びつけて連帯させることに成功して、新党構想には右翼勢力だけではなくて無産主義・国家社会主義・労働組合などの左翼勢力も迎合してきました。

満州事変で中心的な役割を果たした石原莞爾(いしはらかんじ,1889-1949)は、満鉄調査局の宮崎正義(みやざきまさよし)と提携して計画経済的な満州産業開発5ヵ年計画を実施していたこともあり、近衛内閣の一国一党制にも関心を示していました。石原莞爾の『一国一党制(挙国一致体制)』と『経済統制(計画経済)』による政治構想は、政治行政機構改革案としてまとめられていましたが、この軍純産業に資源を集中させるアイデアに対しては、三井財閥の池田成彬(いけだしげあき)、安田財閥の結城豊太郎(ゆうきとよたろう)、日産の鮎川義介(あゆかわよしすけ)、鐘紡の津田信吾(つだしんご)なども賛同していました。

石原莞爾は日中戦争に対しては『不拡大論』を取っていたので、軍の主流派である東條英機らと対立して満州に左遷させられたりもしましたが、石原は下層階級からのファシズム政策である『昭和維新論』を展開しました。昭和維新論は、天皇崇拝の地域の拡張とアジア全体の大同団結によって欧米帝国主義に対抗し勝利できるとする思想であり、日本を盟主とする『東亜連盟』を結成して東アジア全民族の能力を結集させることができれば、大国であるアメリカとの最終戦争に備えられるというものでした。

昭和維新論は『天皇親政論』でもあり、『八紘一宇(はっこういちう)』でアジア諸民族を天皇に従う一つの家族のように束ね、『万邦無比(ばんぽうむひ)』の日本国体の神聖性によって欧米帝国主義に対峙することが可能になるという思想性を持っていました。石原莞爾は一国一党制の経済政策については、民間の企業・経済・投資を全面的に国家管理及び行政指導の下に置くという『計画経済・ファッショ的な経済統制』を唱導していましたが、この計画経済は総力戦のための軍需産業への重点的投資には役立つ方式でした。

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1940年~1941年にかけて、近衛新党構想を達成するために『政党・労働組合・農民組合』が解散させられましたが新体制をどのようにするのかについての議論は紛糾しました。天皇親政を理想とする観念右翼の勢力が、ナチスドイツ的な一国一党制は天皇大権を抑制することになる(幕府のような政体を生み出す)として難色を示し、『天皇帰一・尽忠報国・承詔必謹』の精神総動員方式が良いと主張しました。結局、近衛文麿首相は新党構想の具体的な規定をすることを放棄して、1940年10月12日に独裁政党ではない国民総動員の中核的運動体として『大政翼賛会(たいせいよくさんかい)』を発足させました。

近衛首相は大政翼賛会について、『本運動の綱領は大政翼賛の臣道実践に尽きる。これ以外に綱領も宣言もない』という曖昧な無定見さを示して、一国一党制で強力な指導力を発揮するような新党の結成は出来ませんでした。大政翼賛会の総裁には近衛文麿、事務総長兼総務局長に有馬頼寧(ありまよりやす)、組織局長に後藤隆之介、企画局長に小畑忠良、常任総務に東方会の中野正剛・後藤文夫、常任顧問に風見章、安井英二、東條英機、永井柳太郎らが就任することになりました。1941年(昭和16年)4月13日に『日ソ中立条約』を締結しましたが、6月22日に独ソ戦(ドイツ対ソ連の戦争)が勃発したため、ドイツ・イタリアとの三国軍事同盟を結んでいた日本はドイツを支援してソ連と戦うべきか、それともソ連を回避して天然資源が豊富な南部の仏印(フランス領インドシナ半島)へと進駐すべきかで意見が分かれました。陸軍・松岡洋右はソ連との戦争を主張して、海軍は資源を確保するために南方進出(仏印の占領)を主張しましたが、とりあえず独ソ戦の様子を見ながら、南方へと進出していくことが閣議決定されました。

1940年末~1941年3月にかけて、観念右翼の勢力や財界・官僚が計画経済を唱える大政翼賛会を『共産主義勢力(赤)』であると非難し始めて、それに恐怖を感じた近衛首相は観念右翼に強い影響力を持っていた平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう,1867-1952)を内相に任命しました。平沼内相は大政翼賛会は公事結社であって政治結社ではないから、直接的な政治活動を行うことはできないと主張し、翼賛会の主導権は次第に内務省へと移されて、一国一党制の性格を失っていきました。最終的には、大政翼賛会は日本の官僚主導体制の中に取り込まれてしまい、官僚支配を受ける行政機構の一つになってしまうわけですが、近代日本の政党政治は1940年10月の大政翼賛会の成立と既存政党の消滅によって完全に崩壊してしまい、軍部が主導する行政官僚国家としての性格を強めていきます。

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1932年の5・15事件で犬養毅首相が暗殺されて政党政治は危機に直面し、1935年の国体明徴によって理論的に議会政治が強く批判されることになり、1940年の大政翼賛会の成立によって政党が消滅してしまったわけですが、近代日本の不幸は『政党・労働組合・農民組合』といった市民社会を民主的に運営するための中間組織の全てが解体されてしまい、権力が天皇の権威を嵩に着た軍・官僚に一元的に移譲させられてしまった事にありました。

その結果、社会・世論と政治権力を媒介する『政党』が消滅してしまい、市民社会の利益を主張して軍人官僚に対抗できるような政党政治家もいなくなってしまったわけですが、議会政治(政党政治)が名実共に崩壊してしまったことで、軍部・高級官僚は『天皇の専制政治・君主政治』を偽装して自分たちに都合の良い政策を強制的に押し通せるようになりました。

1940年9月には、国民を直接的に教化・支配するための末端組織として『部落会・町内会・隣組』が整備されていき、『政党・労働組合・農民組合の解散』『部落会・町内会・隣組の組織化』の相乗作用によって、“国民総動員体制・大政翼賛会”を契機とする日本のファシズム(全体主義)体制が強化されていったのです。

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