第二次世界大戦の勃発と三国軍事同盟

アドルフ・ヒトラーのナチスドイツの快進撃と世界情勢の緊迫


『南進論』の台頭と日独伊の三国同盟:第二次世界大戦の本質

アドルフ・ヒトラーのナチスドイツの快進撃と世界情勢の緊迫

『満州事変・日中戦争における総動員体制』の項目では、中国の国民党と中国共産党が“抗日民族統一戦線”を形成して日中戦争が泥沼化していき、日本国内の生活や思想、経済活動、地域共同体が厳しく統制されていった状況を説明しました。中国大陸における一進一退の苦しい戦況が続く中で、国力(国家のリソース)の多くを戦争推進に次ぎ込む必要性が高まり、戦争反対の言論や戦争に協力しない行動が強く非難される社会風潮が形成されていきます。

その結果、日本の政治・社会の状況が、体制批判・軍部批判を絶対に許さない『ファシズム(全体主義)』に接近していくことになり、『贅沢は敵のスローガン・兵隊さんを最優先する財政・義務的な国防献金・軍需物資の徴用』などでそれまで豊かさを増してきていた国民生活が一気に窮乏していきます。日中戦争が開戦してから日本は、英米から中国大陸で支配圏を拡大する侵略行為を批判されていましたが、その対立図式は決定的なものにはなっておらず、近衛内閣は『独伊同盟路線』『英米協調路線』のどちらを選ぶかで閣内不一致が起こっていました。

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日本は既に1936年(昭和11年)にドイツと『日独防共協定』を結び、1937年(昭和12年)にイタリアも交えた『日独伊防共協定』を結んでいましたが、三国の軍事的な同盟関係の内容は明確化されておらず、ソ連の共産主義拡大(赤化)を防ぐための協定という建前だったので、アメリカ・イギリスに対する対立姿勢も示されてはいませんでした。ヨーロッパではアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945)が率いるナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)が、1933年3月の『全権委任法』と7月の『政党禁止法』によってドイツの国家権力を完全に掌握してワイマール憲法を停止し、ハーケンクロイツ(鉤十字)をシンボルにしてファシズム(全体主義)と支配領域を急速に拡大していました。ナチスドイツは国家社会主義やアーリア人至上主義、反ユダヤ主義、軍事侵略の肯定を含む『ナチズム』というイデオロギーによって主導され、第一次世界大戦の敗戦でドイツの領土・権益が削られた『ヴェルサイユ体制(英仏主導の欧州秩序)』の否定を目指しました。

大衆動員の独裁者となったA.ヒトラーは、1935年にヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言し、1936年にはヴェルサイユ条約で非武装地帯となっていたラインラントへと『ラインラント進駐』を行いました。1936年にはベルリン・オリンピックを成功させて国威を発揚し、1938年にオーストリアを併合して同年9月にはチェコスロバキアに強引にズデーテン地方を割譲させました。ドイツの侵略的な行動に英仏は非難の姿勢を見せますが、イギリス・フランス・ドイツ・イタリアの『ミュンヘン会談』において、ドイツは『これ以上の領土拡張はしない』と主張して英仏の妥協的な同意を引き出しました。しかしヒトラーはこの約束を破って1939年にチェコスロバキアを併合し、第一次世界大戦敗戦でドイツ帝国が割譲させられたポーランドの『ダンチヒ回廊』を奪い返すために更に軍隊を進めました。

A.ヒトラーはヨーロッパの混乱する軍事情勢の中で『後顧の憂い』を取り除くために、ヨシフ・スターリンが指導する宿敵のソビエト連邦との間に『独ソ不可侵条約』を1939年8月23日に締結し、1939年9月1日にポーランドへと侵攻してイギリス・フランスがドイツに宣戦布告を通達します。

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A.ヒトラーはポーランドを侵略しても、平和主義で民主的な意志決定を重視するイギリス・フランスはまだ参戦してこないと予測していましたが、『ドイツへのポーランド侵攻』を見てヨーロッパ全土がナチスドイツに侵略されるという危険を感じ取った英仏は参戦を決断、ここに『第二次世界大戦』が開戦しました。日本とドイツは元々『遅れてきた帝国主義国・植民地獲得(領土拡大)への強い野心』という共通項を持っていましたが、日本が英米協調路線から三国軍事同盟へとシフトしていった背景には、このナチスドイツが連戦連勝で領土を増やしていく破竹の勢いもありました。また英米が日本の中国での満州国建国・利権拡大を警戒していたのとは対照的に、ナチスドイツは1938年に満州国を正式な独立国として承認しており、日本のアジアにおける覇権主義に同調する態度を明らかにしていました。

1938年(昭和13年)2月に、ナチスドイツでリッベントロップが外相に就任、オットー少将が駐日大使に任命、日本では同年10月に大島浩が駐独大使、白鳥敏夫が駐伊大使に任命されますが、この両者の間で日独防共協定の強化が議論されました。近衛内閣では、依然として世界の最強国である英米との協調路線を維持すべきという宮中グループや米内光政(よない・みつまさ)海相山本五十六(やまもと・いそろく)海軍次官、有田八郎外相、池田成彬(いけだ・しげあき)蔵相らの意見もありましたが、陸軍大臣の板垣征四郎(いたがき・せいしろう)を中心した軍部はあくまで三国軍事同盟を締結して、ドイツと共に英米に対抗すべきだと主張しました。閣内不一致の状況が続いたため、近衛文麿内閣は1939年1月4日に総辞職しました。

近衛に続いて、国家主義思想を持つ右翼の大物であった平沼騏一郎(ひらぬま・きいちろう, 1867-1952)が首相に任命されますが、平沼首相は『万民翼賛(ばんみんよくさん)』のファッショな国家統制を理想として組閣を行い、日独伊の防共協定強化に取り組みます。しかし、ナチスドイツが1939年8月23日に突如としてそれまでの対ソ敵対政策を転換して『独ソ相互不可侵条約』を締結したため、平沼騏一郎は反ソ連でドイツと協調しようとしていた目的を見失ってしまい、平沼首相は8月28日に『欧州情勢複雑怪奇』の声明を出して総辞職しました。次の首相に就いたのは予備役陸軍大将の阿部信行(あべ・のぶゆき)であり、阿部政権下の1939年9月1日にナチスドイツは『ポーランド侵攻』を開始して、9月3日のイギリス・フランスのドイツに対する宣戦布告で第二次世界大戦が勃発します。9月23日は独ソ不可侵条約で秘密協定を結んでいたドイツとソ連が『ポーランド分割』を行いました。

ナチスドイツがヨーロッパ全土を支配するのではないかとの日本の期待が高まる中、日本はドイツとの外交関係を更に親密なものにしていきますが、ナチスは非人道的な『ホロコースト(ユダヤ人虐殺)・反ユダヤ主義の政策(アウシュヴィッツのような強制収容所送り)』に手を染めているという問題を抱えていました。そのナチスドイツの非人道的な反ユダヤ政策に同調せずに、ユダヤ人をヨーロッパ外部に脱出させる手助けをした外交官(リトアニアの日本領事館領事)に杉原千畝(すぎはら・ちうね)がいます。

阿部信行内閣はソ連とのノモンハン事件を停戦させて、親米派の野村吉三郎海軍大将を外相に任命して駐日大使グルーとの対米交渉に当たらせますが、中国における英米利権との対立は根深く『日米通商航海条約の再締結交渉』は上手くいかず、阿部内閣は1940年1月16日に退陣しました。阿部と入れ替わりで1月16日同日に米内光政内閣が組閣されますが、対米通商交渉が失敗に終わってアメリカから禁輸措置を取られたために日本は工作機械の輸入が不足するようになっていきます。

1940年3月には、関東軍が南京に傀儡政権である汪兆銘政権を誕生させて、更にアメリカ・イギリスとの対立図式が強まってしまいます。前の阿部政権とこの米内政権までは、世界の最強国であるアメリカ・イギリスとの戦争を回避して協調していこうとする『英米協調派』もかなりの影響力を持っていましたが、1940年4月にドイツがヨーロッパ西部のフランス・イギリスとの局地戦で連勝を重ね、6月にドイツがフランスのパリを陥落させると、ドイツと同盟を結んで英米に対抗しようとする強硬派の勢力が台頭してきます。『三国同盟推進・英米対決論』を唱える議員・軍人らは『聖戦貫徹議員連盟』を結成しますが、この連盟に加わった人物には政友会の久原房之助(くはら・ふさのすけ)、政友会革新派の山崎達之輔(やまざき・たつのすけ)、社会大衆党の麻生久など親軍派政党人でしたが、それ以外にも中野正剛、赤松克麿、清瀬一郎、安達謙蔵などが参加しました。

英米対決を望む軍部は親英米派である米内光政の政権を倒すために、陸軍大臣の畑俊六(はた・しゅんろく)を辞任させてから後任の大臣を陸軍から出さないことにして、『軍部大臣現役武官制(軍人しか陸相・海相になれない原則)』を理由にして米内政権を退陣に追い込みました。日本はナチスドイツの圧倒的な快進撃を目の前にした事で、アメリカ・イギリスに対抗することは難しいという『英米協調路線』から、ドイツ・イタリアと同盟を結んで東南アジアに南進して石油資源を確保すればアメリカ・イギリスと対等に戦うことができ、今まで獲得した領土・利権を奪われなくも済むという『三国同盟路線・英米対決論』へと傾き始めました。経済政策の方向性も、欧米列強と通商活動を維持する『国際貿易主義』ではなく、日本と植民地の間だけで外国に頼らない自給的な経済圏を構築しようとする『日満支ブロック経済構想(日本・満州・支那での自給的貿易体制)』へと転換していきました。

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『南進論』の台頭と日独伊の三国同盟:第二次世界大戦の本質

アメリカ・イギリスと対決するという考え方と共に影響力を増してきたのが、『援蒋ルートの遮断(英米による蒋介石国民党政府の支援ルートの切断)・石油資源の確保』を目的とする南進論でした。日中戦争を有利に進めて勝利を勝ち取るためには、英米が重慶にある『蒋介石の国民党政府』に軍需物資を輸送している『援蒋ルート』を遮断する必要があり、日本は1939年2月に海南島を占領して香港とシンガポールの連絡を遮り、フランス領インドシナに軍事的圧力を掛けました。東南アジアを各地へと進軍し占領を進める『南進論』では、イギリス領ビルマ、フランス領インドシナ(仏印と呼ばれたベトナム・ラオス・カンボジア)、オランダ領東インド(蘭印と呼ばれたインドネシア)を侵略して援蒋ルートを遮断し、禁輸措置で不足した石油資源をインドネシアから確保することが目的とされました。

1939年3月には南シナ海に浮かぶ無人の南沙諸島を日本軍が占領して『新南群島』と命名し、1939年10月~1940年2月にかけて華南の援蒋ルートを遮断するために『南寧・賓陽(ナンニン・ピンヤン)作戦』と『雲南爆撃作戦』が実施されました。1939年11月にはフランスに対して仏印の援蒋ルート遮断を要求し、フランスは1940年6月には日本側の要求を受け入れました。1940年6月には中立姿勢を取っていたタイとの間に『日タイ友好条約』を締結しています。ヨーロッパ戦線でナチスドイツがフランス・オランダを降伏させたのを見た日本は、1940年5月にオランダに蘭印(インドネシア)からの石油・ボーキサイト・ニッケルの日本への輸出を強引に認めさせて不足する軍需資源を確保しました。

軍務大臣現役武官制の計略によって米内光政内閣が倒れると、1940年7月22日に第二次近衛文麿内閣が誕生することになり、『日満支結合による大東亜新秩序・高度国防国家体制の確立』をスローガンに掲げて総動員体制につながる『基本国策要綱』を7月26日に閣議決定しました。7月27日には、近衛内閣は支那事変の解決の促進と南方問題の積極的解決を『時局処理要綱』として打ち出し、ビルマや仏印、蘭印へと進軍していく『南進論』が軍事政策として承認される形が整えられていきますが、当初はイギリスだけを仮想敵国に据えて対米開戦には慎重な構えを取っていました。1940年9月23日から、日本は仏印への日本軍進駐に対するフランスとの迂遠な平和的交渉を取りやめて、富永恭次(とみなが・きょうじ)参謀本部作戦部長の命令で武力進駐を開始してフランス軍との間で戦端が開かれました。

日本が仏印へと南進を始めるとアメリカは対抗措置として7月に『石油・屑鉄の輸出許可制,航空機用ガソリンの対日禁輸』を決定し、更に日本軍が仏印に武力進駐を開始した数日後には『屑鉄の全面的禁輸』という経済制裁を持って対抗してきます。日本はアメリカに石油輸入の約75%、屑鉄輸入の約50%を依存していたため、アメリカの禁輸措置の影響は致命的なものとなり、オランダに蘭印(インドネシア)からの輸入を求めたものの拒絶されました。アメリカ・イギリス・中国・オランダの『ABCD包囲網』によって、日本は軍需物資の不足に追い込まれていき、初めから勝利の可能性がほぼ無いと見られていた『日米開戦』へと踏み切ることになります。

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伝統的に陸軍では『三国同盟派(英米対立論)』が強く、海軍では『英米協調派(英米宥和論)』が強かったのですが、アメリカの禁輸措置で物資が不足したりヨーロッパ戦線でドイツが連勝を繰り返したことで、海軍でも三国同盟派が多くなってきます。第二次近衛内閣は東条英機陸相、吉田善吾海相、松岡洋右外相の布陣で『日独伊の枢軸国の同盟強化』で同意を取り付けますが、対米開戦にどうしても踏み切れない吉田海相は病気を理由にして途中で辞任しました。

そして、1940年(昭和15年)9月27日に、アメリカを仮想敵国に据えた日独伊の『三国同盟(三国軍事同盟)』が締結されることになりました。三国軍事同盟の内容は、日本にアジアにおける指導的地位を認め、ドイツ・イタリアにヨーロッパにおける指導的地位を認めて、それぞれが当該地域において新秩序を建設するために相互に協力するというものでした。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線や日中戦争・南進にアメリカが参戦してきた場合には、軍事的・政治経済的に相互に援助し合うという事も決められていました。

三国同盟はヨーロッパとアジアにおいて日独伊の枢軸国が『世界新秩序』を構築して『世界の再分割』を行うという帝国主義的な宣言であり、それと同時に『対米軍事同盟』としての性格を濃厚に持っていました。日独伊の三国軍事同盟を受けたアメリカは危機感を募らせ、1941年3月に英米同盟を強化してイギリスを支援するため『武器貸与法』を通過させてイギリスに大量の兵器を送りました。

1941年6月22日にはドイツが『バルバロッサ作戦』でソ連に攻撃を仕掛けたことで、ソ連はイデオロギーの異なる自由民主国の英米と外交関係の結びつきを強めました。英米は初めにヨーロッパ戦線でドイツを打倒してから、アジア太平洋における日本の進撃に対抗する方針を立て、1941年8月12日にはアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が領土不拡大、各国の主権尊重、開放的な貿易体制、平和と安全保障の国際協力などを決めた『大西洋憲章』を発表しています。

1941年9月にソ連はじめ15ヶ国がこの大西洋憲章(戦後に国際連合の基本理念につながる憲章)に賛同し、1942年1月には26ヶ国が連合国共同宣言を採択して、第二次世界大戦の対立図式が『日独伊の三国同盟の枢軸国軍VS米英仏蘭ソなど連合国軍』として浮かび上がり、枢軸国の連合国に対する劣勢が強まってきました。英米主導の世界秩序を正当化する大西洋憲章では、『ファシズム侵略国の日本・ドイツ・イタリア』『民主主義国のアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ソ連』の対立図式が強調されましたが、実際には第二次世界大戦は『民主主義国(先進資本主義国)+共産主義国ソ連』『ファシズムの枢軸国(後進資本主義国)』との間で起こった植民地争奪戦としての性格を濃厚に持っているものでした。

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第二次世界大戦は米英仏蘭といった植民地利権を『持てる国』と日独伊といったこれから新たな植民地利権を簒奪しようとする『持たざる国』とが戦った戦争であり、連合国軍が正義であり枢軸国軍が悪であるという単純化は第二次世界大戦の本質を捉え損ねる事になるでしょう。ソ連とドイツ、ソ連と日本との戦争は、ドイツが『独ソ不可侵条約』を一方的に破棄するバルバロッサ作戦を展開し、ソ連が敗戦間近に追い込まれた日本を見て『日ソ中立条約』を一方的に破棄して攻め込んできたように、『軍事的な方便・建前としての中立性』が壊れた事で戦争が勃発しました。

ソ連は『コミンテルン(国際共産主義運動)VSファシズム(全体主義)』という対立図式を強調しましたが、実際には独裁者ヨシフ・スターリンが主導したソ連も攻撃的なファシズム体制としての特徴を備えており、『ポーランド分割による西ウクライナ併合・バルト三国(ラトヴィア・エストニア・リトアニア)の併合・ルーマニアのベッサラビア地方の併合・フィランドのカレリア地方の割譲・ポーランド内のカチンの森での虐殺事件』などの帝国主義的な侵略・支配を行っています。

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