近衛内閣・東條内閣と太平洋戦争の日米開戦

近衛内閣の対米交渉と仏印(フランス領インドシナ)への南進


ハルノートと東條内閣の日米開戦の決定

近衛内閣の対米交渉と仏印(フランス領インドシナ)への南進

『三国同盟・第二次世界大戦の勃発』の項目では、日本・ドイツ・イタリアが軍事的な三国同盟を締結するプロセスを説明しましたが、1939年9月、ドイツの『ポーランド分割・侵略』に危機感を感じたイギリス・フランスが、ドイツに宣戦布告することで第二次世界大戦が勃発しました。日本の『対米外交』では陸軍を中心とする強硬派と海軍を中心とする協調派の意見が対立していましたが、日本は『欧州戦争への不介入・満州国の権益維持・日中戦争の終結』を主要命題として、何とかアメリカの日中戦争・満州国への干渉を排除しようと苦心していました。

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『太平洋戦争(アジア太平洋戦争,15年戦争)』という呼称は終戦後にGHQ(連合国軍総司令部)によって提唱されたもので、当時の日本では大東亜共栄圏構想を前提として蒋介石政権・欧米列強に対抗するという意味で『大東亜戦争』という呼び方がされていましたが、ここでは太平洋上での戦闘が多い日米戦争に限った戦争を指示するため、一般的に用いられる事の多い『太平洋戦争』の呼称を用いています。

そして日本が1940年3月に、南京の傀儡政権である『汪兆名政権(蒋介石の中華民国を否定する政権)』を樹立した事などで、アメリカの対日外交は更に対立的なものへと硬化していきます。アメリカは既に1939年7月26日、対日経済制裁を意図した『日米通商航海条約の一方的な破棄』を行っており、日本は石油・くず鉄などの軍需物資の調達が困難になっていたのですが、この経済制裁によって、軍部の中で仏印・蘭印を支配しようとする『南進論(南方進出)』が力を持つようになってきます。

1940年(昭和15年)11月に駐米大使に任命された野村吉三郎海軍大将は、日米開戦を回避することを前提として、アメリカ大統領のフランクリン・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882-1945)や国務長官のコーデル・ハル(Cordell Hull, 1871-1955)と厳しい条件下で交渉を重ねていました。日本は1937年(昭和12年)に既に『日中戦争』を開戦しており、膨大な人的損失と軍事コストを費やしていたので、産業必需物資(軍需物資)の最大の輸入国であるアメリカと戦争をする余力はありませんでした。

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しかし、コーデル・ハルを外交の窓口とするアメリカの要求は『満州国をはじめとする日本のアジア利権』の多くを手放すように迫る厳しいもので、軍部の強硬派の中には『対米開戦やむなし』という声も出始めます。またアメリカの側も1940年末の段階で既に、ヨーロッパ戦線においてナチスドイツを制圧した後に、アジア戦線において日本を打倒する軍事政略を固めており、日本がよほど妥協してアメリカの提案に対して全面譲歩をしない限りは戦争を避ける事が難しい情勢でした。

アメリカは1941年(昭和16年)3月11日に『武器貸与法』を施行することで、日本の交戦国であった中国の蒋介石政権を軍事的に支援するようになり、実質的に中立国では無くなっていきます。アメリカは『援蒋ルート(仏印のベトナム・英領のビルマ・中国の雲南の三ルート)』を使って、日中戦争で日本と戦っていた『中華民国(重慶に政府を置く蒋介石政権)』に航空機、武器・弾薬、軍需物資、トラックなどを供給して支援し、アメリカ自身もその圧倒的な工業生産力を軍需物資の増産に傾けていきます。

日米の開戦を回避しようとする野村吉三郎駐米大使の外交とは別に、民間レベルでもアメリカ人のカトリック(神父)であるウォルシュドラウトがアメリカに渡航して、1941年(昭和16年)4月に日中戦争の終結を急ぐ『日米諒解案』を作成しました。『日米諒解案』で示された和解案は『満州国の承認・日本軍の中国撤退・汪兆銘政権と蒋介石政権の統合』という日本に有利な条件でしたが、アメリカ本国はこのウォルシュらの民間案には殆ど関心を寄せておらず、コーデル・ハル国務長官は『ハル四原則』を日本に対して提案してきます。

1941年5月に出されたハル四原則とは『内政不干渉・領土主権尊重・市場経済の機会均等・現状維持』であり、満州国の承認という現状維持だけに焦点を絞ることができれば、日本側にとって絶対に飲めないとまでは言えない原則でした。しかし、親ドイツ派・対米強硬派であった松岡洋右外相はハル四原則だけでなく日米諒解案にさえ反対して、1941年5月の大本営政府連絡会議で松岡外相・陸軍幕僚らの対米強硬論が支持されることになります。対米強硬派の多くは陸軍であり、アメリカが要求してきた『日本軍の中国撤兵・三国同盟の解消・南進論の断念』に対しては一貫して反対の姿勢を貫き、1941年6月にドイツとソ連の戦端が開かれると、日本は7月2日の御前会議において『南進論の軍事政策=仏印への進駐』を決定します。

フランス領のインドシナに進軍するに当たって、日本は1941年7月24日にナチスドイツの傀儡であるヴィシー政権に強い要求をして、7月29日に強制的に『日仏議定書』を調印させます。その結果、仏印を日本軍がフランスと一緒に共同防衛するという大義名分ができたわけですが、日本軍は既に7月28日の段階で陸海軍共に仏印への進駐と軍事拠点づくりを開始しており、イギリス領のシンガポールに対する爆撃が可能な態勢を作ろうとしていました。

アメリカの警告を無視してフランス領インドシナへの『南方進出(南進論)』を始めたことで、日本と英米との対立図式が明確となり、アメリカ・イギリスは7月26日に(オランダも7月27日に)日本の外国資産を凍結して金融取引を停止する経済制裁を発動します。日本にとって最も致命的な影響を与えた経済制裁は、アメリカが1941年8月1日に開始した『ガソリン(航空機用原油)の禁輸措置』であり、オランダもアメリカに続いて『蘭印(インドネシア)からの石油の禁輸措置』を行い、日本には工業生産や軍事活動に必要な石油が入ってこなくなるのです。このように、日本が対米開戦に踏み切った理由の一つは、アメリカ(America)、イギリス(British)、中国(China)、オランダ(Duch)が軍需物資・必需品の対日禁輸措置(経済制裁)を取った『ABCD包囲網』にありました。

日本軍が将来のために備蓄していた余剰な石油は『約2年分』でしたが、石油が枯渇すると航空機・軍艦・軍用トラックが使えなくなって戦争を継続できなくなるので(そこで英米に宣戦布告されれば自動的に敗戦してしまうことになるので)、軍部の強硬派はアメリカ・オランダの石油禁輸措置の経済制裁に対して逆に『即時開戦論』の激しい反応を示すようになります。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、既に禁輸措置の段階で『日米戦争・対日戦争(日本軍の先制攻撃の誘発による対日参戦の大義名分づくり)』を決断していましたが、日米の工業生産力・資源量の違いを考えると、日米戦争で日本が勝利する可能性は皆無でした。

そのため、『第二次近衛内閣』は強硬派の松岡外相を更迭して7月16日に内閣総辞職をして、豊田貞次郎(とよだ・ていじろう)海軍大将を外相に任命し、日米和平に転回するための最後の交渉に臨みます。7月18日に『第三次近衛内閣』が組閣されますが、外相になった豊田貞次郎は『(アメリカが断念を要求している)南進論』の主張者であり、対米交渉でアメリカが納得できるような対案が出せる人物ではありませんでした。またこの時期には、軍事機密保護を理由にして軍人・官僚以外の政党人が閣僚になることは出来なくなっており、8月には近衛文麿首相がアメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領と直接交渉しようとしましたが、米国は既に開戦を決意していた事(交渉だけでは日本からアメリカが望む満州国の放棄など大幅の譲歩を引き出せそうにない事)もあり反応は鈍くなっていました。

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ハルノートと東條内閣の日米開戦の決定

1941年9月6日の御前会議で『帝国国策遂行要領』が決定され、英米との交渉期限を10月上旬に設定して、外交的な条件交渉による解決が図れない場合にはアメリカ、イギリス、オランダに対する開戦を決断することが決められました。アメリカとの交渉決裂を想定して、戦争のために必要な準備を10月下旬までには整えて、11月上旬の開戦に備えるということになりました。事前の軍事計画では、全陸軍の5分の1の兵力に当たる10個師団と相当の航空戦力を集中して、まずは4ヶ月以内にマレー半島、シンガポール、フィリピン、インドネシア(蘭印)の東南アジアを侵略・占領して石油資源を確保することが目標になりました。東南アジア占領を実行するための軍事拠点として、台湾、海南島、仏印(ベトナムなどインドシナ)が想定されており、航空母艦(空母)を主力とする海軍兵力をハワイ真珠湾に差し向けて、アメリカの太平洋艦隊を叩くことが計画されていました。

日本は石油・鉄鋼などの資源量に制約があり、『長期戦』になれば敗北は確実と見られていましたが、元々日米開戦に戦略上・資源制約上の観点で反対していた山本五十六(やまもと・いそろく)連合艦隊司令長官は、『ハワイ先制攻撃による短期決戦・早期決着』を主張しました。

9月6日の御前会議の前には、日米戦争の勝算に懐疑的だった昭和天皇が会議の開会を上奏してきた杉山元(すぎやま・はじめ)参謀総長に対して、『南方進出はどのくらいで完了するのか』と問い、杉山元は『マレー・フィリピンの占領に5ヶ月ほどかかります』と答えたが、天皇陛下は『日中戦争開戦の折に陸相だったあなたは、蒋介石は1ヶ月で降伏してくると言ったが、現実には4年以上も戦争が続いている』と不満を漏らしたといいます。杉山参謀総長が『中国奥地は広くて開けているので追い込むのが難しいのです』といった弁解の返答をしたところ、天皇陛下が『今度の戦場となる太平洋はもっと広いのではないか』と更に疑問をぶつけられたので、杉山参謀総長は『アメリカに絶対に勝てるとまでは申し上げられません』と本音の心中を述べたとも言われます。

近衛文麿首相は日米開戦の最終決定には及び腰になっており、御前会議が終わった9月6日夜に、ルーズヴェルト大統領との『日米首脳会談』によって事態を打開したいと考えるようになります。近衛首相は駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーと極秘会談を行い、日米戦争を回避するための『日米首脳会談の早期実現』を求めて、近衛の要求を聞いたグルーは、すぐに首脳会談の早期実現を求める電報を本国アメリカに打ちました。しかし既にアメリカ本国の国務省では、時間のかかる『交渉・対話』ではなく『圧力・戦争』によって日本をいったん武力で打ち負かすべきだという強硬論が優勢になっており、10月2日に米国国務省は日米首脳会談を拒否する回答を寄せてきました。

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アメリカの首脳会談を拒否する回答によって、日本陸軍は日米交渉は終了したと判断して、参謀本部は第三次近衛内閣に対して外交期限を10月15日とするように要求します。10月12日に、対米戦争の決断を迫られた近衛首相は豊田貞次郎外相、及川古志郎海相、東條英機陸相、鈴木貞一企画院総裁を荻外荘(てきがいそう)に呼んで『荻外荘会談』を開き、対米開戦の是非について議論をします。

近衛首相は、『自分は外交的な議論で解決を図りたいがそれは困難な状況であり、自分は日米戦争について自信がないので、自信のある人にやってもらいたい』という旨の発言をして、10月16日に政権を投げ出して内閣総辞職をしました。外交派の近衛文麿と主戦派の東條英機は、次期首相として東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこ)を推薦しましたが、『皇族内閣』で日米開戦に至ると皇族・皇室の責任が追及される恐れがあり好ましくないという木戸幸一内務大臣らの懸念によって、東久邇宮内閣は実現しませんでした。

次期首相の指名について天皇の諮問を受けていた木戸幸一内務大臣は近衛文麿と相談して、『強硬派・主戦派を抑えられる人物』として陸軍主戦派の首魁でもあった東條英機(とうじょう・ひでき,1884-1948)を推薦します。翌10月17日に『東條内閣(1941年10月18日~1944年7月22日)』が成立しますが、近衛文麿は東條英機を推薦した重臣会議そのものは欠席していた事から、後世になって主戦派を首相に担いだ政治責任を逃れようとしたなどの批判もされています。

天皇は東條内閣の成立に当たって、今までの議論の経緯を白紙に戻して『国策の再検討』をするように命令しましたが、東條内閣は企画院の石油・船舶・必需物資の統計的なデータを参照して、石油は3年後には供給が大幅に不足し4年後には枯渇するという見通しを得ました。石油・物資の供給能力と備蓄量から考えると、日米戦争がまともに継続可能な年数は『約2年程度』であることが、この段階から既に分かっていたという事になります。

日米開戦の決定期限とされていた1941年(昭和16年)11月5日には、三度目となる御前会議が開かれて『帝国国策遂行要領』が決定され、『自存自衛・大東亜新秩序』の大義名分によって対米英蘭の戦争を遂行することが決められました。実際の攻撃開始を12月上旬と定め、日本はアメリカとの最終交渉の条件として『仏印以外には進出しないので、英米蘭の石油・鉄くずなどの禁輸措置を解除して欲しい』という要求を突きつけますが、アメリカが強く要請している『中国からの日本軍の全面撤退・満州国の中国への返還(傀儡政権の放棄)』が織り込まれていないので、初めから交渉は決裂することが分かっていました。またアメリカは既に1940年9月に、日本軍の暗号解読作業に成功していて、1941年の三度に及ぶ御前会議の内容についても知っていたとされ、日本のインテリジェンス(諜報活動)はまともに機能しておらず、アメリカから『諜報戦・情報戦』を制されているという不利な状況でした。

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アメリカ国務長官のコーデル・ハルは1941年11月26日、日本を開戦に踏み切らせる事を意図して、日本に対する最後通牒としての『ハル・ノート』を提起して突きつけてきます。『ハル・ノート』の具体的な内容は以下のようなものでしたが、その内容を簡単にまとめると『1931年の満州事変以前の状態に中国を戻し、日本が満州国及び中国利権のすべてを放棄して、仏印への南方進行を諦めること』であり、日本がその条件を呑むことができないことを見越して、ハルはこの一方的な要求を突きつけ決断を迫ったのです。

1.中国およびフランス領インドシナ(現在のベトナム)からの、日本軍・警察の全面撤退。

2.国民党の蒋介石を総裁とする『重慶政府』を中国における唯一の正統な政府として承認し、日本が傀儡政権として擁立した『満州国・汪兆銘政権(南京政府)』を放棄する。

3.日米両国は中国における治外法権を放棄する。

4.第三国と締結した協定(=日独伊三国同盟)によって太平洋地域の平和秩序を乱さないようにする。

東條内閣は1941年11月の初頭まで『日米戦争の大義名分・戦争目的の決定』に逡巡するところもありましたが、日本側が到底受け容れられない今までの戦争の成果を全否定する『ハル・ノート』をアメリカから突きつけられた事によって、『自存自衛・アジア利権(満州国・南京政府)の保全』を主目的とする対米戦争を決断することになります。1941年12月1日、参加者の全員一致で開戦を決定する最後の御前会議が開かれ、『杉山メモ(杉山元参謀総長のメモ)』によると、昭和天皇のご様子について『本日の会議において、お上は説明に対し一々頷かれ何ら御不安の様子を拝せず、御気色麗しきやに拝し恐懼感激の至りなり』と記されています。最後の御前会議が終了すると、昭和天皇が『此の様になることは已むを得ぬことである。どうか陸海軍はよく協調してやれ』という指示を出して、日米開戦の最終決定が下されることになりました。

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