真珠湾攻撃とマレー作戦
米国内の日系アメリカ人に対する抑圧的政策
『近衛内閣・東條内閣と太平洋戦争の日米開戦』の項目では、1941年11月26日に中国利権を手放して南進を諦めるように要請する『ハル・ノート』を受け取った東條政権が日米開戦を決断するまでを説明しましたが、日本軍はハワイオアフ島の真珠湾を奇襲攻撃することを決定します。ハワイの真珠湾には米軍の太平洋艦隊と軍事基地があり、日本は12月8日のぎりぎりまで米国との交渉をすると見せ掛けて、真珠湾攻撃を実行する1時間前にアメリカに宣戦布告を通達する手順を整えていました。しかし、ワシントン駐在の日本大使館で『本国からの暗号解読と清書』に時間を取られてしまい、野村吉三郎大使がコーデル・ハル国務長官に宣戦布告の通達を手渡したのは、真珠湾攻撃が終わった1時間後になってしまいました。
実質的に『宣戦布告無し・不意討ちの奇襲攻撃』になってしまった為、ハル国務長官は激怒しアメリカ国民の反日感情が急速に高まります。アメリカ国民は対日戦争の戦意高揚のスローガンとして“Remember Pearl Harbor(パールハーバーを忘れるな)”を掲げますが、日本が真珠湾にいた太平洋艦隊を奇襲したのはハワイオアフ島にある海軍基地が要塞化されていたからであり、日本軍の艦隊と航空機の戦力では『オアフ要塞(戦艦を沈没させられる40センチ砲を完備)』を陥落させられる見込みが全く立たなかったからだと言われています。真珠湾の航空攻撃の発案は、1939年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六(やまもといそろく,1884-1943)と第11航空艦隊参謀長の大西瀧治郎少将(おおにしたきじろう,1891-1945)によるものであり、1941年1月に山本五十六の依頼を受けた大西瀧治郎が『空爆+雷爆撃の併用案』を具体的に肉付けしていきました。
『真珠湾攻撃(ハワイ作戦)』は太平洋戦争(大東亜戦争)の南方作戦の一環として計画された大規模な作戦であり、当時の正規空母4艦すべてを用いる一か八かの作戦であったため、作戦遂行を唱える連合艦隊司令部と作戦中止を求める軍令部の対立が激しくなりました。もし真珠湾攻撃に失敗してしまえば、日本は持っている正規空母全てを失って、太平洋地域における制海権・制空権を共に失ってしまうリスクがあったことから、軍令部は攻撃出動に慎重な姿勢を見せていたのです。最後は『真珠湾奇襲を実行しなければ連合艦隊司令長官を辞職すると山本五十六が言っている』と参謀の黒島亀人(くろしまかめと)大佐が軍令部次長伊藤整一(いとうせいいち)中将に伝えたため、軍令部総長の永野修身(ながのおさみ,1880-1947)大将は真珠湾攻撃案を渋々ながらも承認しました。
『真珠湾攻撃(1941年12月8日午前3時20分頃,ハワイ時刻12月7日午前7時55分頃)』は、イギリス領のマレー半島とシンガポールに侵攻する『マレー作戦(同日1941年12月8日)』の後に実行されましたが、この奇襲作戦とマレー半島進軍によって第二次世界大戦の戦場は、ヨーロッパ・北アフリカの戦線からアジア地域・太平洋まで大きく拡大することになります。イギリスの海軍拠点があるシンガポールは『東洋のジブラルタル』と呼ばれる難攻不落の要塞でしたが、日本軍大本営は『マレー半島を70日以内で縦断してシンガポールを攻略せよ』という極めて過酷な指令を下していました。
1941年12月8日、マレー半島北端に奇襲で上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を行いながら55日間で1,100キロの長距離を踏破進軍することに成功し、1942年1月31日にマレー半島南端のジョホール・バルを攻略しました。1941年12月10日には、イギリスの戦艦であるプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを、マレー半島東方沖で航空攻撃により撃沈しています。この日本軍の快進撃で、イギリス軍はマレー半島の防衛を放棄して、シンガポール島内に退却しましたが、2月8日に日本軍はジョホール海峡を渡河してシンガポール島に上陸します。シンガポールの主要陣地を奪い取りながら11日にブキッ・ティマ高地に突入するも、そこでイギリス軍の集中砲火を受けて進軍が初めて止まることになります。日本軍は高地での銃撃戦で弾薬が尽きて攻撃中止に陥りかけたのですが、水源(給水路)を破壊していた事で15日にイギリス軍のほうから降伏してきました。『シンガポール攻略戦』での日本軍の戦死者は1,713人、負傷者は3,378人と被害が大きかったのですが、イギリス軍も10万人が捕虜となる損失を出して『大英帝国の植民地主義』が往時の勢いを失って翳りを見せることになりました。
日本軍の連合艦隊は海軍の総戦力といっても良い“航空母艦6隻”で、千島列島(現北方領土)の択捉島・単冠湾(ひとかっぷわん)を出港して北方からハワイオアフ島の真珠湾に接近し、1941年12月8日午前3時20分頃に米軍基地の太平洋艦隊に対する奇襲を仕掛けました。ハワイは日曜日で天候は快晴、現地時間の午前7時10分頃に、日本軍の潜水艦が見つかり撃沈される『ワード号事件』が発生したが、米軍は日本軍が攻めてくる事には気づく事ができず、7時49分(日本時間3時19分)、第一波となる空中攻撃隊が真珠湾上空に到達します。攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して『全軍突撃(ト・ト・ト……のト連送)』の攻撃命令を下して、7時53分(同3時23分)に淵田中佐が旗艦の『赤城』にかの有名な『トラ・トラ・トラ(ワレ奇襲ニ成功セリの符丁)』の打電をしました。7時55分(同3時25分)になると、翔鶴飛行隊長の高橋赫一海軍少佐の急降下爆撃隊が、フォード島に二列になって繋留していた太平洋艦隊に対し爆撃を開始します。
7時58分(同3時28分)には日本軍襲来に気づいたアメリカ海軍の航空隊が『真珠湾は攻撃された。これは演習ではない』という警報をオアフ島内に向けて発して警戒体制を取ります。米軍の戦艦『アリゾナ』は7時55分頃に空襲警報を発令しますが、8時過ぎに加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が800キロ爆弾を投下して四番砲塔側面に命中させ、8時6分に一番砲塔と二番砲塔の間の右舷に爆弾を更に命中させました。8時10分に、『アリゾナ』の前部にあった火薬庫が爆撃の影響で大爆発を起こして、戦艦は1,177名の将兵を乗せたまま大破して沈没しました。戦艦『オクラホマ』も激しい爆撃を繰り返し受けて、将兵415名を乗せたまま沈没させられました。8時54分(同4時24分)には、嶋崎重和少佐が率いる第二波空中攻撃隊が『全軍突撃』を命令して米軍基地や戦艦『ネバダ』に痛撃を与えようとしますが、不意討ちの奇襲から立ち直りを見せた米軍の猛烈な対空射撃を受けて、『加賀航空隊(零戦9機・艦爆26機)』に零戦2機、艦爆6機を失う大きな被害(19機が被弾)が出ました。
真珠湾攻撃の結果は総合的には日本軍の勝利と言ってよく、アメリカ兵の2345人の戦死者、1341人の負傷者を出させました。しかし混戦の中での爆撃となったのでアメリカの民間人にも被害が出ており、民間人57人が死亡、180人が負傷しています。米軍の太平洋艦隊の損失は、戦艦5隻が沈没、駆逐艦2隻が沈没、標的艦1隻が沈没、航空機188機を破壊、航空機155機を損傷であり、かなり大きな戦果を上げて、一時的にせよ米軍の太平洋上における制海権を大きく抑制することが出来ました。日本軍の被害は、航空機29機が墜落、戦死者55人であり、真珠湾に雷撃のために突入した特殊潜行艇5隻も全滅して、9人が戦死し1人が捕虜になりました。
2000人以上を殺傷した日本の宣戦布告無しの真珠湾攻撃はアメリカ国民に強い衝撃と憤慨を与えて、アメリカがそれまでの『モンロー主義(国際的な孤立・無干渉主義)』を捨てて対日戦争に踏み切るきっかけになってしまいました。
日本が真珠湾攻撃を奇襲で行い、膨大なアメリカ人兵士・民間人を殺傷したことで、アメリカ国内では『日本人に対する不満・怒り・復讐感情』が膨れ上がっていきますが、対日戦争を予期していたアメリカ政府はマスメディアをも動員して、『日系アメリカ人への諜報抑止・報復措置』を準備していました。当時のアメリカは白人(アングロサクソン系)が支配階層や世論の中心になっている国であり、『黒人・アジア人(黄色人種)に対する差別感情』が一部の人たちから公然と語られる風潮が残っていて、日本人や中国人といった黄色人種が白人国家に危害や損失をもたらすという『黄禍論(こうかろん,Yellow Peril)』の影響もありました。
『黄禍論』というのは19世紀半ばから20世紀前半にかけてアメリカ合衆国や西欧諸国、カナダ、オーストラリアなどの白人国家に出現した『黄色人種脅威論』ですが、初めて黄禍論を主張したのは最後のドイツ皇帝のヴィルヘルム2世だとされていますが、元々ヨーロッパ世界にはモンゴル帝国に侵略・弾圧を受けた過去の伝承などから、東方の黄色人種に対する不信感・嫌悪感が残っている部分がありました。人種差別問題も抱えていた米国では、中国人排斥法や1924年移民法(排日移民法)などの立法措置に黄禍論の影響が認められましたが、欧米世界で黄禍論が高まった背景には『大日本帝国の躍進(日清戦争や日露戦争の勝利)・日本人の影響力の強化』がありました。明治維新以降の『富国強兵・殖産興業・帝国主義政策』によって、欧米列強並みの軍事力や植民地を持つようになった日本への警戒感が高まっており、これ以上の日本の領土・利権の拡大に抑止を掛けたいという思惑が強まっていたのです。
真珠湾攻撃によって米国世論の反日感情が高まると、デウット西部防衛司令官が『日本人は敵性人種である』という日本人排斥の主張をし始め、12月10日までの4日間でFBI(連邦捜査局)は全米で1291人の日系指導者を逮捕して、全米26ヶ所の強制収容所に移送しました。強制収用所に送られたのは日系アメリカ人のリーダー層であり、日系団体の理事や教育者、宗教家などが対象とされました。施設に収容しなければならない理由として、『諜報活動の危険性・利敵行為の可能性』が言われましたが、実際に日系人が諜報スパイ活動や利敵行為をしているという客観的証拠などは全くありませんでした。フランクリン・ルーズヴェルト大統領は1942年(昭和17年)2月19日に、“行政命令9066号”を提起し議会を通過させて、陸軍長官・軍の各司令官に特定地域から住民を強制排除する権限を与えました。
当初は西海岸地区から内陸部への自発的退去を勧告しただけでしたが、1942年3月には西海岸地区から全ての日系人の強制退去を断行し、日系人約12万人が住み慣れた土地・住居から追い出されます。そして、カリフォルニア・アイダホ・アーカンソー・アリゾナ・コロラド・ワイオミングなどの州の僻地(砂漠・荒野・寒冷地)に建てられた強制収容所に移送されました。粗末なバラック小屋で作られた収容所の生活環境は過酷であり、収容所から逃走できないようにと機関銃で武装した兵士が監視に立っていたため、行動・移動の自由はもちろんありませんでした。収容された12万人のうち、約3万5千人が米軍入隊・大学入学などで収容所を出て行きましたが、日系人全員が釈放されるのは日本の敗戦が必至の情勢になってきた1944年12月17日でした。日系人はアメリカ国民としてアメリカに忠誠を誓うという『忠誠宣誓書』で署名させられた上で、故郷の西海岸ではない地域に移住させられました。
日系人の中にはアメリカへの忠誠心を具体的に証明するために、軍隊に入隊する者も少なくありませんでしたが、1943年2月に日系部隊として編制された『四四二連隊(四四二部隊)』は、ドイツ・イタリアと戦ったヨーロッパ戦線の最前線に派遣されて多数の死傷者を出しました。ハワイでも日系指導者や教育者700人の強制収容が行われましたが、ハワイは日系人が16万人もいて全島人口の3分の1を占めていたので、日系人全員の強制収容は実際的に無理でした。しかし、ハワイの日系人もアメリカへの忠誠心を示すために軍隊に志願して、陸軍省の承認で『第一〇〇戦闘大隊』が編制されます。その第一〇〇戦闘大隊は本国の四四二連隊(四四二部隊)に組み入れられて、大勢の日系人が勇敢に第二の祖国である日本と戦い命を落とすことになりました。軍隊に入隊した日系人の二世は、日本との太平洋戦争において日本語を話して通訳をしたり、敗色が濃くなった日本兵に投降を呼びかけたりしました。
日米戦争ではアメリカの人種主義や差別感情が高揚しましたが、欧米の白人文化圏では日本人を『イエローモンキー・類人猿・野獣・狂犬・野蛮人(原始人)・未熟な子ども』というイメージで呼ぶような差別感情が勃興しており、日本では白人の人間性・道徳性を『鬼畜米英』のようなスローガンで否定したりする教育が強まりました。アメリカが日本と戦った太平洋戦争ではこういった『白人至上主義+黄禍論』の影響があり、欧米列強が日本人に対して火炎放射器・ナパーム弾・無差別戦略爆撃を容赦なく使用できた背景にもなっています。アメリカがドイツには落とさなかった『原子爆弾(核兵器)』を日本のヒロシマ・ナガサキに投下した心理的理由にも、白人至上主義や人種差別主義の感覚が影響していると言われることもあります。
日本も『大東亜共栄圏・八紘一宇』の理念の下で、大和民族(日本人)が世界で最も優秀な民族であるという優越感を持ち、自らをアジア民族の盟主・指導的民族として位置づけていたこともあり、『他の国のアジア人』を日本人よりも文化的・精神的に劣っている民族として蔑視・差別する風潮が強まっていました。日本は太平洋戦争における大義名分として、『白色人種に対する有色人種の解放闘争』を主張して、アジア人を長年の白人支配のくびきから解放するとしましたが、日米戦争にはこういった『人種主義的な偏見・理念』も大きく関係していました。
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