星亨(1850-1901):明治時代の議会制民主主義と政党政治の歩み

左官職人の息子から税務官僚になった星亨

現代の人々からすると、星亨(ほし・とおる, 1850-1901)の知名度は、同時代人の政党政治家である板垣退助や大隈重信、原敬などに遠く及びませんが、星亨の名前から『押し通る(おしとおる)』と渾名された豪腕無双の星は、数々の汚職疑惑を掛けながらも薩長主導の藩閥政治を転換する重要な政治的役割を果たしました。

星亨は、板垣退助を筆頭とする立憲自由党においてその政治的才覚を遺憾なく発揮し、藩閥政府が政党の言論活動を弾圧する空気の中で日本の国会開設(1890)と政党政治の基盤作りにも尽力しました。明治時代の半ば頃までは、有力政治家や高級官僚・軍人官僚の大部分が、明治維新(戊辰戦争)に功績のあった薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)の出身者で占められていました。長閥・薩閥が政界を縦横する中にあって、星亨は無位無官の江戸(東京)の左官職人の子として生まれ、医学や英学(英語)・法律などの勉学に励みながら英語教師から政治家への転身を遂げました。

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多数の無頼者の書生や食客に慕われた星亨は、良く言えば面倒見の良い親分肌の性格であり、悪く言えば攻撃的で傲慢不遜な雰囲気の強い人物でした。藩閥による官僚独裁に反対する政党政治家としての星亨も、極めて野心的なところがあり、他人と正面から論戦することを恐れない好戦的で豪放磊落な壮士でした。何者をも恐れない傲慢な自信家として振る舞った星亨には当然政敵も多くいましたが、それ以上に知識人から財界人、無法者まで幅広い人材を統率する強力(剛腹)なリーダーシップを持っていました。外見的な行動や挑発的な発言だけを見ると星亨は粗野で乱暴者の親分という印象がありますが、暇さえあれば世界各地から政治・法律・語学などの専門書を取り寄せて読んでいたというほどの誠実な知識人であり、同時代の政治家で星亨の教養水準に並ぶものは殆どいませんでした。星亨は相手を言い負かす議論(ディベート)に非常に強かったことでも有名ですが、星は日本初の弁護士(代言人)でありその主張・反論にはいつも知的な論理や客観的な根拠がありました。

星亨は、江戸の左官の棟梁である父・佃屋徳兵衛(つくだや・とくべえ)と母・松子の間に「幼名・浜吉」として1850年(嘉永3年)に生まれました。大酒飲みの父親は、多額の借金を残して浜吉(星亨)が2歳の時に蒸発し、母親と浜吉・二人の姉妹は路頭に迷って貧窮に苦しみました。姉妹を商家に奉公に出した母親・松子は食べる物にも困る貧困生活の中で、ふと浜吉を堀に投げ捨てて楽になりたい欲求に駆られますが、何とか思い留まって漢方医の星泰順(ほし・たいじゅん)と再婚することになります。星泰順と再婚しても生活はそれほど裕福ではありませんでしたが、浜吉は星登(ほし・のぼる)と改名して、神奈川の奉行付蘭方医であった渡辺貞庵(わたなべ・ていあん)にオランダ医学を学ぶことになります。星登は渡辺貞庵からオランダ医学を学びながら、次第に欧米の先進的な学問(洋学)や政治制度、法律、技術に興味を覚えるようになります。その後、星亨と名前を変えた星は、日本の近代郵便制度を開設した前島密(まえじま・ひそか, 1835-1919)の推薦もあって、官学の開成所(かいせいじょ)で外交業務に欠かせない英語を学ぶことになります(1866)。

開成所で優秀な学業成績を修め続けた星亨は海軍伝習所の英語教官に就職しますが、語学堪能で知られた星亨はその後の職業キャリアでも英語の読解力と会話力を高く評価されていました。1867年(慶応3年)に徳川幕府最後の15代将軍・徳川慶喜が天皇に大政奉還をし、1868年には鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争によって江戸幕府を首班とする幕藩体制は瓦解して、近代国家の建設を目指す明治維新が成立しました。語学堪能で洋学の素養を身に付けていた星亨は、大阪府立洋学校や神奈川県英語学校などで語学教師を勤めた後に、不平等条約改正の功績で知られる陸奥宗光(むつ・むねみつ, 1844-1897)の推薦で、税務官僚として大蔵省に入省しました。しかし、星亨を敬慕して集まっていた気の荒い書生の一人が泥酔して警官と揉め事を起こし、その書生を弁護した星が警官を弁論で侮辱したために、入省後間もなく大蔵省を解雇されることになります。

大勢の食客(学生)を自宅に養っていた星亨は、侠客的な豪放さと義理人情を持っていましたが、この事件以降は軽佻浮薄な振る舞いを慎むようになり、(陸奥宗光や大蔵大輔の井上馨の口利きで)大蔵省の租税寮七等出仕で公職に復帰してからは税務畑で順調にキャリアを積んでいきます。1873年(明治6年)に横浜税関に勤務するようになり、1874年には横浜税関の税関長に任じられます。当時、治外法権の特別待遇で税関をパスしていた西欧列強(イギリス・フランス・オランダ)の人々の荷物や品物を規則どおりに厳しく検査して、西洋人からは強い反対や抗議を受けましたが、豪胆な星亨はイギリス公使パークスの苦情さえも無視して脱税品や密輸品を摘発しました。

しかし、イギリス(ヴィクトリア朝)のヴィクトリア女王(1819-1901)の呼称である“Her Majesty”を星亨が“女王陛下”と訳したことに「不敬である」と憤激したイギリス公使パークスの訴えによって、星亨は2円の罰金を科され横浜税関長の職務を解任されました(「女王事件」)。大英帝国の国家元首であるヴィクトリア女王を「女王」と呼ぶことが不敬(無礼千万)であると抗議された理由は、「王・女王」という称号が一般的に「皇帝・天皇」よりも格下(劣位)だと認識されていたからです。特に、日本では、皇室の内親王よりも遠い血縁の女性皇族を指して「女王」と呼んでいます。その為、イギリス公使・パークスは、世界最強の帝国の元首であるヴィクトリア女王を「女王」と呼ぶことは、日本や他国の国家元首よりもヴィクトリア女王が下位であることを意味するので相応しくないと抗議したのでした。日本ではこれ以降、外国の君主を全て「皇帝」という最高の尊称で呼び表すことを決定しました(太政官布告)が、結局、イギリスの女帝については慣習的に「女王」と呼ぶ状況が今も続いています。

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日本初の代言人(弁護士)になり、自由党の民権運動に参加した星亨

ヴィクトリア女王の呼称を巡る「女王事件」で横浜税関長を辞した星亨は、その後いったん大蔵省に戻るものの、西欧文明の実利的な知識と先進的な制度を学ぶ為にイギリス留学を決断します。1874年(明治7年)にイギリスの首都ロンドンに留学した星亨は、日本とは比較にならないイギリスの機能的な都市文明に圧倒され、活発な経済活動や民主的な政治制度に深い感銘を受けます。同時期にロンドン留学をしていた学者には、後に東京帝国大学総長になる数学者の菊池大麓(きくち・だいろく)などもいました。

法律専門大学のミドル・テンプルで寝る間も惜しんで学んだ星亨は、4日間にわたる卒業試験に合格して日本人で初めてバリスター・アット・ロー(Barrister=at=Law)という法学の国際的学位を取得しました。1877年に帰国した星亨は翌年に司法省付属の初の代言人(弁護士)となり、法治国家の訴訟業務に必要な専門的(職業的)法律家の育成の必要性を訴えますが、1880年に官吏としての代言人制度は廃止されます。星亨は判事(裁判官)の職務を辞退して民間の代言人となりますが、司法省付きの代言人であった時代に、後藤象二郎(1838-1897)経営の高島炭鉱の巨額訴訟事件を取り扱って高額な報酬を得ることに成功しました。

弁護士稼業で一財産を築いた星亨は、1882年(明治15年)に土佐出身の民権家・板垣退助(1837-1919)を総裁とする自由党(1881年に結党)に加盟して、自由民権運動を熱心に推し進めるようになります。西郷隆盛(薩摩出身)や板垣退助(土佐出身)、江藤新平(佐賀出身)らは征韓論を主張して明治政府の論争に破れ、1873年に官職を返上して下野しています(明治六年の政変)。西郷隆盛ら薩摩藩出身の士族(私学校党)は、1877年に西南戦争の武装蜂起を起こして鎮圧されますが、板垣退助・江藤新平・副島種臣・後藤象二郎らは愛国公党を結成して(1874年1月12日)、1874年1月17日に民撰議院設立建白書を政府左院(立法機関)に提出して国会の開設を訴えました。

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天賦人権論に基づいて有司専制(官僚独裁)を批判する民撰議院設立(国会開設)の建白書は即座に退けられましたが、板垣退助が中心となって構想した「民撰議院(国会)の設置」「平民(士族・富農・豪商)の参政権」は日本の議会制民主主義の原点になるものでした。しかし、1874年2月には、参議であり司法卿であった江藤新平が島義勇(しま・よしたけ)と共に佐賀の乱を起こして西郷隆盛よりも早く自滅し、長州(山口県)出身の前原一誠の萩の乱(1876)や太田黒伴雄率いる敬神党の神風連の乱(1876, 熊本県)も次々と鎮撫されました。

イギリス留学の経験を持つ博識な法律家の星亨は、日本が近代国家として発展するために「議会制度の整備(国会の開設)・政党政治の成熟・民主政治の浸透」が必要不可欠であると考えていました。星亨自身はイギリス型の二院制の議会政治よりも一院制の議会のほうがより効果的で迅速な意志決定が出来ると考えていたようですが、日本の議会は、結局、貴族院(後の参議院)と衆議院の二院制で慎重な議決を取る方向に整備されました。自由民権運動の旗手として知られる板垣退助は初め愛国公党を結成して国会(民撰議院)設立を訴え、それに続いて、国会期成同盟が発展した自由党(1881-1884)を結成します。

しかし、自由党は、武力革命を肯定するような急進派の過激分子(不平士族・貧農・労働者)を含んでいたので、増税に反対する農民の武装蜂起である秩父事件(1884年10月-11月)を筆頭として過激な反政府運動(激化事件)が起こり、自由党の自由民権運動は政府から武力弾圧を受けました。自由党に関連する勢力が武装蜂起した激化事件として、秋田事件(1881)や福島事件(1882)、高田事件(1883)、加波山事件(1884)などがありますが、これらの武力鎮圧には、民主化(議会開設)を嫌った藩閥政府が自由民権運動を弾圧したという側面もあります。最終的に、自由党執行部は急進派の過激分子を抑えることが出来ず、1884年に自由党はいったん解散することになります。

1881年の「明治十四年の政変」とは、伊藤博文率いる専制的な「薩長閥(藩閥政権)」とイギリス型の議会政治(国会開設・憲法制定)や内閣制度(政党政治)の必要性を唱える大隈重信が対立した事件であり、政権闘争に敗れた肥前(佐賀)出身の大隈重信は政府から追放されました。明治十四年の政変(1881)は実質的に「自由民権運動」の是非を問う政争であり、とりあえず自由民権運動の国会開設や内閣制定に否定的な薩長閥の伊藤博文・井上馨らが、自由民権運動の国会開設に親和的な大隈重信を追い落とすことに成功します。明治十四年の政変のきっかけになったのは、北海道開拓使長官の黒田清隆(薩摩藩出身)が政商の五代友厚に官有物を格安の金額で払下げようとした「開拓使官有物払下げ事件(1881)」です。

しかし、大隈重信が政権中枢から追放されることになったこの政変で、明治天皇の「国会開設の詔勅(1881年10月12日)」が出され10年後に国会を開設することが決まり、板垣退助が一院制の立憲君主制を主張する自由党を、大隈重信が二院制の立憲君主制を主張する立憲改進党(1882-1896)を結成しました。国会開設の詔勅によって、日本では1889年に大日本帝国憲法(明治憲法)が公布され、1890年に日本初の議会・国会である帝国議会が開かれました。法律や政治に関する深い学識と弁護士(代言人)として蓄積した資産力などを身に付けた星亨は、自由党急進派として知られる大井憲太郎(1843-1922)の勧めもあって自由党に加入しますが、星と大井は後に自由党の主導権を巡る政争を戦うことになり星が勝利を収めます。朝鮮の独立党を支援して朝鮮に政変(朝鮮の民主化)を起こそうとした大阪事件(1885)で大井憲太郎は禁固刑に処せられますが、その後、1890年に「東洋のルソー」と称された民主主義思想家の中江兆民(1847-1901, 土佐出身)と共に立憲自由党を結成します。

豪胆な気質と旺盛な行動力を持つ星亨は、『腕力(強力な交渉力)・資力(党の財政基盤)・知力(政策立案能力)』の三本柱で自由党の政党活動を強化しようとし、裕福な市民から寄付を募る『10万円募金計画』や党機関紙である『自由新聞(古沢滋・主幹)』上での反・立憲改進党(大隈重信)の言論活動を推進しました。当時の日本には、板垣退助を総理(党首)とする自由党と大隈重信を総理とする立憲改進党しか大きな政党がありませんでしたから、星亨は大井憲太郎や植木枝盛(1857-1892)らと共同して徹底的に立憲改進党を「偽党撲滅」のスタンスで叩きました。土佐藩出身の植木枝盛は、私擬憲法である『東洋大日本国国憲按(日本国国憲案)』を書いたことで知られますが、ジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』『民約論』の民主主義思想として日本に紹介した同じ土佐藩出身の中江兆民と並ぶ自由民権運動の理論的指導者です。

星亨や板垣退助のいる自由党には、血気盛んに日本の国政を語る感情的(情熱的)な青年の壮士(党員)が多く、急進的な思想に根ざした旺盛な行動力を特徴としていたので、時に暴発して粗暴な激化を見せることもありました。自由党はどちらかというと、地方政治よりも国政からのトップダウンの政治を理想としていました。大隈重信の立憲改進党には、政策や制度の具体的研究などに関心を示す知識人・研究者のような党員が多く、現実的な思想に根ざした段階的な改良主義を特徴としていました。立憲改進党は自由党と比較すると、暴力的なデモよりも理性的な議論によって問題の解決を図る傾向があり、地方政治の改革から国政の改善へとつなげるボトムアップの政治手法を基本としていました。

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活発な行動力(破壊力)の自由党と穏健な思考力(交渉力)の立憲改進党は激しく対立しましたが、政党政治に否定的な中央政府は両党を牽制しながら主だった政党人を弾圧しました。星亨も1884年(明治17年)に新潟県で専制的な政府を批判する演説会に出席して、召喚された新潟県警の警察を言論で侮辱したために「官吏侮辱罪」に問われ、6ヶ月の禁固と40円の罰金の刑罰を受けました。その後に続発した秩父事件など自由党の「激化事件(武装蜂起)」によって、結局、過激分子を抑制できなかった自由党は1884年に解散することになりました。

自由党が解散し立憲改進党も大隈重信が離脱したので、1885年から暫く日本の政党政治は実質的にその活動を停止することになり、薩長中心の藩閥政府(官僚主導体制)が、政党活動とは無関係に立憲君主制の確立を推し進めることになります。新潟の刑務所から出獄した星亨は『各国国会要覧(国会組織要論・各国現在組織)』という著作を書き上げ、国会の基本概念や重要課題、世界各国の議会制度やその役割を詳細に解説しました。星亨自身は一院制の議会政治を理想としていましたが、婦人参政権と匿名投票の実施を含む「普通選挙」の実施や「政党単位の政策論争」を中心に選挙が行える「比例代表制」の導入を強く求めました。星亨は党派的な対立によって民権運動が中途で挫折したことを反省し、後藤象二郎を首領に仰ぐ自由派と改進派の「大同団結」による政党政治の基盤作りに奔走しましたが、立憲改進党の大隈重信は政府(藩閥)の懐柔政策によって伊藤内閣(第一次)に入閣することがほぼ確実な情勢となっていたので、改進派は殆どこの星亨が扇動する大同団結運動に参加しませんでした。

自由党派と改進党派を結びつけようとする大同団結運動は、『地租軽減・言論の自由及び集会結社の自由・諸外国との対等外交』を政府に求める『三大事件建白運動』へと発展していきますが、政府は警視総監・三島通庸(みしま・みちつね, 1835-1888)が中心となって1887年に保安条例を制定してこれらの運動を弾圧しました。皇居を危険人物から守るという建前を持つ言論弾圧の保安条例の規定によって、それらの運動の主導者である星亨片岡健吉(1844-1903)は東京から追放されました。

翌年の1888年(明治21年)に、外遊を予定していた星亨は、政府批判の書籍や機密漏洩の文書に関わる「秘密出版事件」の罪に問われて、軽禁固1年6ヶ月と罰金5円の有罪判決を受け再び獄中生活を送ることになりました。どんな時にも学問と読書を忘れない星は、獄中でも毎日勉強のための読書を勤勉に続けたといいます。大日本帝国憲法発布(1889)の特赦で出獄すると、星はすぐに欧米旅行(アメリカ合衆国・カナダ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア)に旅立ちました。

開明的に経済活動の将来を見通していた星亨は、藩閥政府が行っている地租軽減の農業保護的な政策に反対して、地租(農民への税金)を増額して農業よりも商工業の発展に政府は力を注ぐべきだという考えを持っていました。しかし、直接国税(地租・所得税)を15円以上納める25歳以上の男子のみに選挙権が限られていた制限選挙では、有権者(全国民の1.1%)の大半が農業を営む中規模以上の地主だったので、候補者は「地租の値上げ」を主張することが出来ませんでした。また、商工業が十分に発展しておらずサラリーマンの労働者階級が成長していなかったので、都市部には衆議院選挙の当否に影響を与えるだけの有権者の層がありませんでした。その為、制限選挙を行っても地方の地主・農家への「利益誘導型の政治」にならざるを得ず、日本の将来の発展を見据えた産業政策の振興が出来ないという問題があったのです。

自由党を掌握した星亨の栄華と没落

日本で最初の衆議院議員総選挙は1890年7月1日に行われ、1890年11月29日に初めての帝国議会(国会)が開かれましたが、その時に星亨が加入していた自由党は、四派の連合体として立憲自由党(1890)を名乗っていました。立憲自由党の四派というのは「東北派(河野広中)」「関東派(大井憲太郎・星亨)」「土佐派(板垣退助・片岡健吉・林有造)」「九州派(松田正久)」ですが、星亨は政党内部の派閥争いを嫌って、立憲自由党の統制を強化して国政への影響力を強めようとしました。星亨は、国政を混乱させるだけの急進的な激化を批判して、政治の成果を国益や国民の福祉に還元できる欧米流の政党政治や議会主義を理想としました。

1891年に星亨は、立憲自由党の党指導部の統制力と党全体の連帯感を強める為に、急進派の大井憲太郎の反対を押し切って党全体を代表する「総理(党首)」を置くことを提唱して、党名も「立憲自由党」から「自由党」へと改称しました。そして、党大会における選挙の結果、自由党の総理は大井憲太郎に大差をつけて勝利した板垣退助に決まりました。自由党の関東派で勢力を二分していた星亨と大井憲太郎でしたが、未来の政局と日本の産業政策を見通した星亨のほうが、次第に急進的で明確な政策ビジョンのない大井憲太郎を圧倒するようになりました。大言壮語に基づく『政治情勢の破壊』を得意とした大井憲太郎は、実際的な政権担当能力や政策立案能力に乏しく、1892年には自由党を脱党してわずか4人になった同志と共に東洋自由党を結成しました。

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ライバルの大井憲太郎を追い落とした堅実な実務派の星亨は選挙でも当選して代議士となり、第3回帝国議会における政党間の調整で河野広中を抑えて衆議院議長に選出されました。衆議院議長となった星亨は、自由党内の主導権を掌握して正に政治家としての絶頂期を迎えましたが、自由党のそれまでの政策であった「民力休養・経費節減」の消極主義政策から社会インフラ基盤を整備する積極財政へと方向転換し始めました。

藩閥政府の陸奥宗光と深い関係のあった星亨は、政府の最高実力者・伊藤博文とも会談する機会を持ち、最大の影響力を誇る政党人(政党政治家)として栄華を極めました。しかし、自由党を掌握して思いのままに独断専行の政治をしようとする星亨には政府だけでなく党内にも敵が多く、「改進新聞」に収賄疑惑をスクープされた頃から、絶頂期にあった星の権勢に陰りが見えてきます。1893年には、衆議院本会議において星亨が衆議院議長として不適格であるという緊急動議・出席停止決議を受けることになります。続く12月13日には、懲罰委員会の議論を経て除名処分という厳罰を与えられ、星亨は議会から追放されました。

衆議院を追放されて後の星亨は、駐朝鮮公使の井上馨の要請により1895年の3月~10月までを朝鮮政府顧問として勤務しましたが、井上馨の後任となった三浦梧楼公使が閔妃殺害のクーデター(乙未事変)を起こすと、文化侵略的な野蛮なクーデターに我慢できない星はそのまま職務を辞して日本に帰国しました。星亨が帰国しても日本の政界には星が活躍する舞台は殆ど用意されておらず、日清戦争後に、自由党は政府(伊藤内閣)と協調路線をとって軍備増強や産業振興の積極財政政策を進めていました。1896年に自由党を形式的に離れた板垣退助は、伊藤内閣(第二次)の重要ポストである内務大臣に就任しました。大隈重信率いる立憲改進党は1892年に進歩党となっていましたが、1896年9月に成立した松方正義内閣(第二次)で大隈重信が外務大臣のポストを得て、政党政治が藩閥政治に大きな影響力を与えるようになりました。

大隈が外相となった第二次松方正義内閣が総辞職すると、第三次伊藤博文内閣が成立しますが、伊藤博文は自由党と進歩党の双方を取り込む挙国一致体制の確立に失敗して衆議院を解散します。藩閥政府に取り込まれることを拒絶した自由党と進歩党は、1898年6月22日に合併して憲政党が結党されました。日本で政党と藩閥政府の一致協力が深まる中で、星亨は1896年5月に駐米日本公使としてアメリカに赴任して読書と学問の日々を送っていました。星亨は日本の議会政治の成熟や立憲主義の確立にその政治的生命を注いでいたので、外国に赴任する外交官としての職務には殆ど熱意や関心を示さなかったとも言われます。

衆議院における圧倒的多数を占める憲政党に、伊藤博文は新党立ち上げで対抗しようとしますが、政党政治の更なる発展と政党内閣(議会制民主主義)の常態化を嫌悪した元老・山県有朋によって、伊藤の新党結成は断念させられます。その結果、第三次伊藤内閣は総辞職することになり、憲政党が政権を担う『日本史上初の政党内閣(隈板内閣・大隈重信と板垣退助を首班とする内閣)』が誕生しました。総選挙の結果、衆議院の定数300のうち憲政党は260を占めて圧倒的多数の与党となり、大隈重信が首相と外相に板垣退助が内相になりましたが、念願の政党内閣が成立したと聞いてアメリカから急遽帰国した星亨は大隈に外相のポストを要求しました。その要請が聞き入れられないと知るや、星亨は憲政党の政党内閣を潰しにかかりました。

大隈が、尾崎行雄文部相の後継に同じ進歩派の犬養毅をもってきたことを理由にして、自由派の分裂を煽り、憲政党を自由派と進歩派に分裂させて瓦解させてしまったのです。自由派に属する板垣退助内相と西山志澄(にしやま・しずみ)警視総監は、進歩派が憲政党を名乗って結社を築く事を禁止したので、大隈重信は立憲改進党を糾合して新たに「憲政本党」を結成しました(1898)。外相ポストを拒絶された星亨の内部崩壊を促進する陰謀によって、憲政党は分裂してしまいました。

かつて隈板内閣を組閣した大所帯の憲政党は、自由党派の憲政党と進歩党派の憲政本党とに分裂することになり、板垣退助率いる憲政党は1900年に伊藤博文を首班とする立憲政友会へと改組されました。憲政党に影響力を伸ばした星亨は、1898年11月に成立した山県有朋内閣と政策面での提携を図り、藩閥政府と政党政治との静かな融合を目指しましたが、山県は元々政党政治や政党内閣に対して強い拒絶アレルギーを持っていたので、いずれは伊藤博文へと乗り換えようと考えていました。

藩閥政府の首領である伊藤博文も、政党政治家に対して良い印象は持っていませんでしたが、これからの議会政治を政党なしに乗り切ることは出来ないという現実主義的な感性の持ち主であり、山県有朋と比較すると政党政治への親和性や妥協性を持っていました。国家の利益や発展に貢献する政党の必要性を痛感していた伊藤博文は、星亨の説得に乗って、1900年(明治33年)9月15日に立憲政友会を立ち上げてその総裁に就任しました。政党政治の雄であった「憲政党(自由党)」と明治政府(藩閥体制)の首領であった「伊藤博文」が融合して立憲政友会が誕生することにより、近代日本の政党を前提とする議会制民主主義に新たな一歩が刻まれることになったのですが、それは同時に、長閥(長州出身者)の影響が政党政治に対して継続的に強くなることを意味していました。

1900年10月に、立憲政友会によって組閣された第四次伊藤博文内閣で星亨は逓信大臣(現在の郵政大臣)に就任しますが、国政だけでなく東京市会も同時に牛耳っていた星亨は、東京市会の清掃業務の汚職収賄事件で嫌疑を受けて不起訴となります。しかし、金権政治のフィクサーや汚職政治家としての糾弾・非難を浴びた星亨は、伊藤内閣に迷惑を掛けられないということで自ら逓信大臣を辞職しました。逓信大臣辞職後も東京市会議長として、実業界との太いパイプを持って東京市政を掌握していた星亨ですが、1901年6月21日に、政治を腐敗させる国賊(巨悪)として星を憎悪していた伊庭想太郎(いば・そうたろう, 心形刀流剣術第十代宗家)によって市庁参事会室内で暗殺されました。旗本の家柄に生まれ金権政治を嫌う伊庭想太郎の隠し持っていた短刀によって、星亨は左わき腹を一突きされ更に右胸を鋭く斬り付けられて絶命しました。強引な辣腕を振るって政党政治と議会運営に尽力した一代の怪傑・星亨は、彼を汚職腐敗の巨魁と見る暗殺者・伊庭によって命を奪われた訳ですが、星の評価は現代においても毀誉褒貶が激しいものとなっています。

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