右翼と左翼の違いとは何か?1:フランス革命による右翼・左翼の対立の始まり

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右翼には『国家主義・国粋主義・民族主義・伝統主義(保守主義)・軍国主義』のイメージがあり、左翼には『共産主義・社会主義・国際主義・進歩主義(革新思想)・平和主義』のイメージがありますが、政治・社会情勢が複雑化して細分化してきた現代では、右翼と左翼の違いについて一言で語ることが難しくなっています。右翼というのは端的には『保守主義・伝統主義』で古き良き伝統や習慣を守ろうとする思想的な立場であり、逆に言えば新しい時代の変化や今までに無かった価値観を既存秩序を乱すものとして警戒する立場です。

左翼というのは端的には『革新主義・急進主義』であり、近代初期には身分制度(=国王・皇帝・貴族による封建的支配体制)を否定する新しい価値観・社会観であった『自由で平等な個人=自由で平等な個人から成り立つ社会』を実現して拡大しようとする思想的な立場でした。

元々の右翼(保守派)とは左翼の考え方に対して、『みんな(大衆)が参政権を持つ自由で平等な社会などにしたら、社会秩序が崩壊してめちゃくちゃになってしまうから、伝統的・歴史的な権威としての君主や身分制度は必要である』と考えている人たちであり、元々の左翼(革新派)とは右翼の考え方に対して、『国王や貴族の支配体制(専制的権力)は根拠のない不正なものであり、人民は身分制度の支配から解放されて参政権を持つ主権者となり、自由で平等な存在として生きられるようにならなければならない』と考えている人たちでした。

世界の歴史で『右翼』『左翼』の政治思想・立場の対立が生まれて、その対立図式が一般的なものとして定着するきっかけになったのは、フランス革命時に開かれた国民議会で『保守派』『急進派(革新派)』の議員がそれぞれ右と左の座席に偏って座ったことでした。

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フランス革命の議会における『右翼』と『左翼』の誕生

マルクス主義における『右翼』と『左翼』の違い

フランス革命の議会における『右翼』と『左翼』の誕生

18世紀のフランス(ブルボン朝)で絶対王政の象徴だったバスティーユ監獄が襲撃されるフランス革命が勃発し、その後に開かれた1789年9月11日の国民議会(制憲議会)で『国王ルイ16世の拒否権の是非』『貴族院開設の是非(一院制か平民院と貴族院を分ける二院制か)』が議題になりました。この時に、国王の拒否権を認めて貴族院も開設すべきだと主張したのが議長から見て右側の席に集まった『王党派(保守派・守旧派)』であり、反対に国王の拒否権を否定して普通選挙で選ばれた議員だけで構成する一院制にすべき(すべての特権身分を廃止すべき)だと主張したのが左側の席に集まった『民主派(急進派・改革派)』でした。

1789年の議会をモデルにするか1792年の議会をモデルにするかなど細かな違いはありますが、人権宣言を採択して王権・特権身分を規制する憲法を制定した『フランス革命時の議会』によって、世界史で初めて『保守派・守旧派の右翼』『急進派・改革派の左翼』との対立が明確化されたのでした。1791年9月に制定された憲法では、議決内容を2~6年間停止できる国王の『限定的な拒否権』が認められ、議会は貴族院(僧侶・貴族だけで構成する特権身分の議院)を認めない『一院制』が採用されました。国王の政治権限については右翼が有利な結果となり、議会の議院設立については左翼の主張が通った結果になりました。

1791年の段階では、人権宣言と憲法に王権が規制される『立憲君主制』の政治体制が確立して、フランス市民(一般庶民)は国王・僧侶・貴族の支配階級から一方的な抑圧や命令を受けることがない『自由な存在』となりました。しかし、形式的な存在ではあっても『限定的な拒否権(議決の停止権)』を持つ国王ルイ16世が残っており、財産・納税額によって有権者が制限される『制限選挙』しか実現できていなかったので、自由主義と民主主義(政治参加の平等)を求める『左翼(急進派)』はまだ不満を多く抱えていました。特権身分を廃止する憲法制定によって、右翼(保守派)だった『王党派』の議員は失脚したり弾圧されたりしていきましたが、今度は中央左派にいて民主主義の普通選挙を拒否していた立憲主義者の集団『フイヤン派』が、右翼(保守派)と見なされるようになっていきます。

制憲議会に続く立法議会では、封建的な身分制度を廃止する憲法に賛成して、身分に縛られない国民の自由(自由主義)までは認めるけれど、誰でも平等に政治・選挙に参加できるようにする民主主義までは認められないという『フイヤン派』が、その前の王党派に変わる右翼(保守派)の位置づけになったのです。フイヤン派は左翼のジャコバン派から分離した中道左派の勢力でしたが、右翼と左翼の違いというのは絶対的なものではなく、『その時点における保守派か急進派(革新派)か』という相対的なものなのです。

絶対王政を維持しようとするオーストリアやプロシアが『反革命の戦争』をフランスに対して仕掛けてくると、ルイ16世が外国の貴族勢力と結託して王政を復活させようとしたため、フランス国民の祖国を裏切ろうとした国王に対する怒り・不信感が高まります。男子普通選挙で選ばれた議員で構成する1792年9月開設の『国民公会』ではさらに左翼勢力が勢いを強めるようになり、立憲君主制を擁護する『フイヤン派』が失脚して、ジャコバン派から分離した自由市場経済(貧富の格差)を擁護する『ジロンド派』が右翼の立場に追いやられることになります。

ジャコバン派(モンターニュ派)もジロンド派も、『人権が守られる自由主義(貴族階級に支配されない自由)』『庶民が政治参加できる民主主義(政治的な平等)』を肯定する左翼勢力でしたが、自由市場経済の競争原理によって生まれたブルジョア階級と労働者階級(貧困層)との経済格差の是非を巡って対立します。つまり、左翼のジャコバン派(王政反対の共和主義者の集団)は、政府の市場介入・税制によって貧富の格差を是正しなければならないとする最左翼の『モンターニュ派(山岳派)』と自由主義・民主主義が認められているのだから経済的な平等までは追求しなくても良い(経済競争・資本格差は受け容れるべきだ)とする相対的な右翼の『ジロンド派』に分離したのでした。

自由市場経済の競争原理を肯定するジロンド派の支持勢力は、平民とはいっても資本家・地主・経営者などの富裕層(ブルジョア階級)であり、貧富の格差を政治権力の介入によって是正すべきだとするモンターニュ派(山岳派)の支持勢力は中小の個人事業主・零細事業者・労働者などの庶民層・貧困層(労働者階級)だったのです。1792年の段階でジャコバン派(ジャコバン・クラブ)は、貧富の格差を是正すべきか否かの経済的自由を巡って『モンターニュ派(左翼)・平原派(中道)・ジロンド派(右翼)』の3つの勢力に分裂してしまいましたが、1793年にはモンターニュ派がジロンド派を追い落として庶民層・貧困層を助けるための『社会民主主義(経済的平等の実現)』の独裁政治を行うようになります。

ジャコバン・クラブの最左翼、マクシミリアン・ロベスピエールが率いるモンターニュ派は、国王(君主)のいない共和主義政体と男子普通選挙を規定した『1793年の憲法』を制定しますが、資本家・地主・ジロンド派などの『反革命勢力』を抑え込むために、反対者を次々にギロチンで処刑する恐怖政治を行いました。近代啓蒙思想の『自由・平等・民主』を追求していくのが左翼なのですが、大多数の平民が賛成した『自由主義(人権保護)・政治的平等(普通選挙による民主主義)』に加えて、賛成派と反対派が激しく割れる『経済的平等(社会民主主義による経済規制と格差是正)』まで求め始めた時に、左翼勢力はそれまで手に入れてきた人権と自由を自ら否定する恐怖政治に走ってしまったのです。

権力(政府)から干渉されない自由を求める思想を『消極的自由主義』、権力(政府)によって最低限度の経済生活(実質的な自由)を保障してもらおうとする思想を『積極的自由主義』と呼ぶことがあります。フランス革命の左翼であるモンターニュ派(山岳派)が実現しようとした、『最低賃金保障・物価統制・応能負担=財の再配分』による社会民主主義も、経済的にも満たされていなければ本当の自由があるとは言えないという『積極的自由主義』に近いものでした。

1794年7月27日の『テルミドールのクーデター』によって、反対者をすべてギロチン台に送り込む恐怖政治を敷いていたM.ロベスピエールが、今度は国民公会からの反撃を受けて自分自身がギロチンで処刑されることになります。ロベスピエールの死によって、フランス革命の左翼勢力は一時衰退して中道の『平原派』が議会の主導権を握りますが、1799年には左翼の恐怖政治の反動(極端な平等化の流れへの反対)が起こって、軍人として頭角を現したナポレオン・ボナパルトが独裁権力を握ります。国王の権力(特権身分)とカトリック(聖職者)の権威を完全に否定して、『人民の自由・平等(参政権)・民主主義』を促進したはずのフランス革命に対する保守反動が起こり、1804年にはナポレオンが教皇ピウス7世の前で王冠を被る『戴冠式』を行って何と皇帝(特権身分)に就任してしまいます。

国民公会で議席を持っていなかった『バブーフ派』は、ロベスピエール率いるモンターニュ派以上に『経済的平等・実質的平等』を重視する極左(最左翼)であり、市場原理と格差縮小を組み合わせる社会民主主義の範疇を超えた『社会主義・共産主義』を主張しました。つまり、自由市場経済の競争原理と企業・設備の私的所有を否定することで経済格差を封じ込め、最終的には『私的所有権(財産権)』を禁止して『生産手段と資本の共有化』を進めようとしたのが共産主義肯定のバブーフ派だったのです。しかし、ロベスピエールの恐怖政治の失政によって『行き過ぎた実質的平等(経済格差否定)の追求』に懸念を示すようになったフランスでは、モンターニュ派を超えるほどの左翼が支持されることはなく、右翼(保守派)の軍人・政治家による保守反動の流れが生まれました。

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マルクス主義における『右翼』と『左翼』の違い

『右翼』とは既存の秩序や伝統的な価値観を保守しようとする思想・人物であり、『左翼』とは伝統的な価値観や秩序を否定して進歩させようとする思想・人物ですが、右翼と左翼の違いには『フランス革命』だけではなく『マルクス主義(共産主義)』も深く関わっています。カール・マルクスは産業革命が進展して経済社会が豊かになってくると、生産手段(企業・工場・資本)を所有して労働者から利益を搾取できる『資本家階級(ブルジョワ階級)』と生産手段を持たず自分の労働力・時間を従属的な立場で切り売りするしかない『労働者階級(プロレタリア階級)』が分かれて、その経済的格差は拡大する一方だと考えました。

ブルジョワ階級とプロレタリア階級の『階級闘争』を前提とするカール・マルクスは、『共産主義革命(プロレタリア独裁)』の必要性を強く主張しました。マルクス主義は『自由(人権)・平等・民主主義』を求めたフランス革命期の左翼思想のうちでも、特に『平等(経済的平等=積極的自由主義)』を重要視する政治思想であり、ロベスピエールのモンターニュ派(山岳派)以上に『平等実現のための恐怖政治(全体主義)』に陥る危険制を孕んでいました。

左翼は本来、専制的な権力や国王(君主)を否定して『自由(人権)・平等・民主主義』といった近代主義の理念を実現しようとする進歩的で革新的な思想のはずなのですが、マルクスは幾ら憲法・法律で人権と自由が保障されていても普通選挙による民主主義が行われていても、『経済的な貧困・格差(資本家による労働者の搾取+庶民の生活の苦しさ)』があれば、それは本当の自由ではなく形式的なまやかしの自由に過ぎないと考えました。

『形式的な自由の実現(権力に強制されない自由)・人権の保護』を求めていたフランス革命初期の左翼(民主派)が、『経済的な自由(生活に困らない実質的な自由・権力による経済格差の是正)』を求めるようになってから、反対者の弾圧や処刑が激しくなりましたが、『自由』よりも『平等』を優先するようになった左翼は自ら自由・人権を侵害して規制するようになっていきます。現代では左翼というと『自由主義者』というよりも『平等主義者』のイメージのほうが圧倒的に強いわけですが、これはフランス革命初期に『自由・人権』を求めていた左翼(急進派)に代わって、マルクス主義の影響を受けて『平等(経済格差の是正・私有財産の禁止)』を優先する共産主義者の左翼が増えたからです。

無論、共産主義者の多くは自分たちの政治活動が『人民の自由・人権』を侵害しているとは考えておらず、『実質的・経済的な本物の自由』を守るためには『形式的・法律的な偽物の自由,市場経済の自由競争』を制限(禁止)するのも仕方がない、形式的な見せかけの自由だけがあっても、経済的に貧しくて暮らしが苦しければ意味がない(資本家からこき使われるだけの労働者を放置することは許されない不正義だ)という風に捉えていました。

フランス革命が人権宣言と憲法制定によって実現した『消極的自由(権力に強制されない自由)』は、マルクスに言わせれば『経済的平等(経済生活の安心)が伴わない偽物の自由』ということになってしまうのです。何をしてもいい自由や権利があっても、十分な収入と経済的な立場の平等がなければ、『資本家・企業に使役される不遇な貧しい労働者』として終わるしかないじゃないかというのが経済的平等(自己疎外のない労働)を至上命題とするマルクスの主張でした。

マルクス主義が歴史的(必然的)な国家の進歩と見なした共産主義国家(社会主義国家)を標榜する『中華人民共和国・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)・旧ソ連』がすべて、『個人の自由・人権』を否定する恐怖政治を行う独裁国家であるのは偶然ではありません。国家指導者や共産党幹部だけが贅沢をしているという建前や欺瞞があるとしても、『経済格差の否定・経済的平等の実現(積極的自由の実現)』を最優先にする国家体制を作ろうとすれば、『平等のための自由(人権)の犠牲』が起こることは避けることが出来ないからです。

左翼がマルクス主義者や共産主義者の代名詞となり、右翼がマルクス主義を否定する自由主義者や市場主義者(ブルジョワ階級)の代名詞になっていくにつれて、左翼は『自由』よりも『平等』を優先する全体主義者・独裁主義者を指すようになり、旧ソ連・北朝鮮のように『収容所国家』と揶揄される恐怖政治を行う不幸な事例も増えてしまったのです。マルクスにも影響を与えたヘーゲルは、共和主義政体(あるいは左翼の極限としての共産主義政体)の暴走としての『恐怖政治(全体主義の監視社会)』を警戒して、『普通選挙のない官僚主義・二院制の立憲君主制』を理想としました。一方、ヘーゲルの構想した『自由』もまた『権力に強制されない自由』ではなく『国家共同体の為に自主的に奉仕する自由(国家共同体の為に生きて死ぬ自由)』でした。

左翼は本来『自由・平等・民主主義(国民主権)』を目指していく政治思想のはずですが、左翼の極限であるマルクス主義・共産主義になると『資本家と私有財産の廃止・経済格差の是正・労働者階級の独裁』によって人民の本当の自由と呼ぶものを実現することを目指すようになります。資本家・ブルジョワジー階層からすべての資本(財産)を奪い取って強制的な再分配をしようとした結果、『プロレタリア独裁・個人崇拝の強制・恐怖政治による弾圧』の大規模な人権侵害・自由否定の悲劇が生まれてしまったのです。

旧ソ連のスターリンによる独裁(粛清増加の収容所国家)、中国の毛沢東による独裁(大躍進・文化大革命)、北朝鮮の金日成・金正日・金正恩の三代にわたる独裁(共産主義を騙る世襲王制)などは、左翼が『自由(政治権力から干渉されない自由)』を放棄して『平等(資本家や経済格差の否定)』を求めた結果ですが、こういった独裁政治・人権抑圧の共産主義を否定する左翼思想として『リベラル左翼(人権と自由を重視する左翼)』もいます。

人権派と呼ばれることもあるリベラル左翼は、『精神的自由(権力に強制されない個人の自由)』『複数政党の議会制民主主義(一党独裁政治の否定)』に最大の価値を置いて、共産主義者の左翼が重視する『積極的自由(結果としての経済的平等)』は人権・自由と民主主義を侵害しない範囲でしか認めない(個人が権力によって強いられたり脅されたりしない政治が望ましい)というわけです。

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