フロイトの神経症論(固着点への退行と反復)

フロイトの精神病理モデルの第一は、『ヒステリー研究』という初期(1890年代)の論文に書かれたもので、無意識への抑圧、幼児期の心的外傷体験、抑圧された感情・欲求の転換(conversion)などの力動的な要素が神経症の原因として重視されています。それに続いて、精神分析的な病理学で大切なもう一つの視点は、リビドーの発達と退行に関するものでしょう。

このフロイトの精神のリビドー(性的欲動)の発達図式は、精神分析の歴史の流れの中で多くの批判や変更を受けてきたもので、イギリスでは、メラニー・クライン(M.Klein)からウィニコット(D.W.Winnicott)フェアバーン(W.R.D.Fairbairn)といった人たちが英国対象関係論の学派を作りました。アメリカでは、エリクソン(E.H.Erikson)、スピッツ(R.Spitz)、マーラー(M.S.Mahler)などによる自我心理学派が意欲的に心理の発達研究を進めました。

一時期、隆盛を極めたネオ・フロイト学派というものもありましたが、このネオ・フロイト学派は、心的構造論(エス・自我・超自我)のモデルをかなり批判して否定していましたが、力動的見地や不安と防衛の関係についてはフロイトを継承していました。他にもエス・自我・超自我の人格構造を構成する要素の働きから精神病理を説明するモデルや不安と防衛機制の関係から精神病理を解明するモデルがありますが、ここではリビドーの発達と退行の視点から精神病理を見ていきたいと思います。

この『発達―退行論』とも言える観点は、フロイトの『精神分析入門』に詳しく書かれていますので、機会があれば読んでみるといいと思います。フロイトは、リビドーの発達段階として、発達の早い順から『口愛期→肛門期→男根期→潜伏期→性器期』という各段階を快感を強く感じる身体部位を当てはめて考えました。この中で男根期のみは比較的フロイト後期において案出された概念で、『幼児の性器体制』(1923)という論文に初出しているようです。

大雑把に神経症の精神分析治療を説明すると、症状の無意識的な意味を探る為に自由連想法などによる無意識の意識化が行われ、その深層にあった願望充足や欲求と禁止の葛藤を見つけ出すという事ですが、この治療過程から性(リビドー)の発達と神経症の形成が結び付けられたと考えられます。神経症の典型的な特徴として、フロイトは、過去の外傷体験に関係した一定の精神状態への固着や過去の重要な意味を持つ体験に対する一定の反応への固定があると言います。フロイト理論は、時の流れと共に幾つかの変更や修正を経て発展していきますが、この『特定の発達段階への固着が神経症の原因である』とする説をフロイトは死ぬまで変えなかったと言います。

ある特定の過去の外傷体験や体験に対する反応としての精神状態にとらわれて、その状態から脱け出せなくなってしまうというのが『固着(fixation)』です。一口に固着といっても、固着のあり方には、過去の体験に対する反応としての精神状態を自動的に延々と繰り返してしまう『反復』と、過去に外傷体験をした発達の段階で発達が停止してしまう『発達停止』があります。

精神の発達が停止してしまうと、見かけ上の成長をした後に何か大きなストレスがあったり、フラストレーションの状態になると、その発達が停止した時点の精神状態に戻ってしまう『退行』が起こりやすくなります。固着に関するここまでの話をまとめると、神経症や精神病の状態というのは、ある特定の過去の感情体験に固着してしまい、それを何回も反復して繰り返したり、あるいは精神の発達が停止してしまう事が原因という事になります。

そして、その固着点への退行による幼児的な欲求や感情状態になるという特徴もあります。フロイトの考えた神経症概念は、満たされない願望を無意識的に満たす代理的な過程ともいえ、内的な空想や夢などの手段を用いても満たせない願望を満たす苦肉の策でもあるのです。欲求は、通常、快を志向して、不快を回避しようとします。それは、見方を変えると、『過去に経験した快の記憶を再現したいという願望』と言えます。その快を再現できない時、欲求を満たせない時に、その欲求に執拗にこだわり、そこから離れられなくなると、反復的な神経症の症状が出てくるのです。

後期のフロイトは、不安夢や心的外傷による神経症の研究を通して、人間には深い苦痛や恐怖の記憶を何度も再現し反復する傾向があると指摘しています。何故、このような反復強迫的な症状が起こるのかの考察を経て、フロイトは『死の本能論』(タナトス)を展開しました。強迫的な反復行為と性的願望充足の失敗の関係を示唆するフロイトの有名な症例に、30代の女性の症例があります。これは、夫と過ごした新婚初夜に夫のインポテンツが判明して、性行為を行う事が出来ず、その事が心的外傷となって強迫症状を呈してしまったというものです。

強迫症状の内容は、下女を用事もないのに、何度も何度も部屋に呼びつけてテーブルの上の(ありもしない)しみを確認させようとするもので、これは、当時のイギリス(ヴィクトリア朝)やヨーロッパ諸国の多くは婚前交渉が道徳的に許されない性道徳の厳しい時代でしたので、自分が処女であり、旦那との初夜に無事、性的に結ばれた事の証拠である血液を確認したい、更には夫がインポテンツではなく正常な性機能を持っている事を証明したいという無意識的な願望の現れが強迫症状につながったと説明されています。

これは、現在の日本のように結婚前の自由恋愛がありふれたもので、性行為に対する道徳が極めて緩やかな社会ではまず起こらない症状だと思われますし、この理論的説明によって性的欲動の抑圧と神経症の形成が客観的に証明されたわけでもありませんが、19世紀当時としてはとりあえず強迫神経症の形成過程をうまく説明した症例だったとは言えるでしょう。

これを、現代的に解するならば、愛する配偶者との信頼や愛情を深め、二人の強い結びつきを確認する為に性的な快楽をお互いに与え合いたいと思う人が、相手の性機能不全が原因で性的な願望を満たせない状態が何年も続いた場合に深い苦悩や憂鬱を感じて、その結果として、夫婦(恋人)関係が悪化したり、離婚問題が持ち上がったりといったことがあるかもしれません。

この性的願望が長期間にわたって満たされない事による夫婦関係の疎遠や悪化、落ち着かない心理状態、心理的な孤独感やフラストレーションによる苛立ちや興奮といった問題、即ち、愛する人とのセックスレスの問題は、意外に現代でも大きな問題だと私は考えています。ここまでのフロイトの神経症理論で大切なことは、神経症の基盤には多くの場合、『症状の意味』があり、症状の意味とは『満たされない願望』であるという事です。そして、その過去から無意識的に固執し続けている願望が満たされない限りは、延々とその願望を神経症の症状という形に転換して満たそうとするという事です。

『精神分析入門』の中で、フロイトは以下のような事を言っています。

『必ずしもこういう体験に固定したり、反応が固定するからといって、全ての固定が神経症になるとは限らない。例えば、過去に対する感情の固定化の典型的なものは、悲哀(mourning)である。だが、悲哀はそれ自体必然的に神経症とは区別されるものである。悲哀は、神経症とよく似ていて、過去にこだわってしまって、現在と未来というものに対して、完全に自分が疎外した精神状態に落ち込んでしまうけれども、にも関わらず悲哀は、素人判断でさえ、神経症とははっきり区別される。しかし、同時に悲哀の一つの病的形態と呼ぶ事が出来るような神経症も、一方では存在する。即ち、悲哀という反応は、半分、神経症と重複し、半分は神経症にまでいかない反応である。』

それに続けて

『従来の生活を揺り動かすような、外傷的な事件があって、色々な活動を停止させられてしまって、現在と未来に対する全てを拒否してしまって、心を過去に奪われているという場合があるけれども、しかもこうした不幸な人々が、全て神経症になるとは限らない。』

この部分から分かる重要なポイントは、過去の悲しくつらい悲哀体験は、その悲しみの感情から容易に抜け出せない為に、そこに固着してしまうと神経症になりやすくなるという事、それから、神経症とは過去のある衝撃的な体験をした時点に強くこだわってしまい、現在の生活を楽しめず、未来への希望を抱く事が出来なくなっている状態である事です。もう一つ大切なことは、『心的外傷体験を経ても、絶望的な悲哀を体験しても、全ての人が神経症になるとは限らない』という事で、ここから神経症になりやすい先天的な素因の存在や外的環境に対する認知や価値観の偏りを考える事が出来ます。

また、現実的な環境の中で満たされない欲求があり、フラストレーションが起こって空想や想像でその欲求を満たす事が多い人でも、必ずしも神経症になりやすいとは限られません。そういった幻想性や想像性といった心的活動のプロセスを重視する人は、その想像を形として表して、他の人々と空想内容の価値を共認することで大きな現実的な満足や利益を得られる事があるからです。

そういった空想活動を得意として、無意識的願望の充足を幻想的に成し遂げながら、社会に適応出来ている人たちは、俗にアーティストと呼ばれる人たちで、有り余る程の豊かな想像力やイメージ力を活かして、創造的な文学作品や独創的な音楽作品、絵画、彫刻、オブジェなどを作り上げていきます。それらの芸術活動全般は、農業や工業といった人間が生きていく為に必要不可欠な仕事ではありませんが、多くの人たちが無意識に抑圧している願望を呼び覚まし、その願望を作品を通して象徴的に満たしてくれるので、大勢の人々を感動させて、社会的に大きな評価を得る事があります。

こういった、本来、社会に不適応な本能的願望や激しい性的欲動を、社会的な評価を得られる芸術的創作やスポーツ、音楽などの分野で満たす事を『昇華』といいます。昇華は最も、高次の防衛機制とされ、人間は他者に危害を加えたり、社会的価値観に背くような激しい原始的欲求を昇華する事で、他者に認められる社会的な価値を持つ行動に変えていく事が出来るのです。

神経症の原因となる、ある特定の発達段階への固着と過去の精神状態の反復は、無意識の領域で起こりますから、本人はそれを意識する事が非常に難しくなっています。精神分析的な治療というのは、こういった自分の力では気付く事の出来ない無意識的な願望の抑圧や過去にこだわり続けている心理の動き、そして、その過去の重大な意味を持つ経験を、自由連想法や夢分析といった技法を用いて、明らかにしていく事だと言えます。

神経症とは、過去に満たされなかった願望に執着して、いつまでもそれを満たそう満たそうとしている『反復』であり、何とかしてもう一度トライして、今度こそは満たそうという『やり直し』の心理が働いている状態でもあります。神経症の症状はそういった無意識的な願望の代理的満足であり、固着点への心理的退行を起こす事で、過去に失敗した欲求の満足にもう一度挑んでいるという見方も出来ます。

精神病理の類型と固着の対応については、『No.6 フロイトの発生―発達論的病理学』にも書きましたが、フロイトは性格傾向とリビドー発達の固着との関係についても言及しています。精神分析の有名な性格傾向に、肛門期へのリビドーの固着で形成される『肛門期性格(anal character)』と呼ばれるものがあります。肛門期性格の性格特徴は、『頑固・吝嗇(りんしょく=ケチ)・神経質・几帳面・倹約家・完全主義』といったものがあります。

今までの話で、神経症はリビドーの発達が障害され、特定の発達段階に固着して、『退行(regression)』が起こる事によって症状が形成されるという事を見てきました。フロイトはリビドーの退行に、『欲動退行(drive regression)』『対象退行(object regression)』の二つの区別があると考えました。大まかな分類では、欲動退行は強迫神経症に付随して起こり、対象退行はヒステリーに付随して起こります。

ヒステリーの場合には、リビドーは性器期段階にまで発達していて正常な人と変わらないのですが、性器期の欲動の対象が近親姦的な対象へ退行しているという特徴があり、これは、エディプスコンプレックスと深い関係があると考えられます。つまり、男性では母親、女性では父親に対する愛着や好意がとても強くて、その愛情が近親相姦禁忌(インセスト・タブー)に触れるので、通常の異性との性的関係に対しても罪悪感や嫌悪感あるいは恐怖感を覚えてしまうという事です。その罪悪感や嫌悪感の為に、性的欲動を意識することを極端に避けたり、性的欲動の存在そのものを抑圧してしまう為に、ヒステリー症状が形成されるのです。

一方、強迫神経症では、欲動退行が中心で、成長した性器期ではなく肛門期へのリビドーの退行(anal regression)が起こるとフロイトは言います。強迫的な性格と性器愛の断念とが結びついて、異性との愛情関係で満足が得られなくなると、物質的利益や物そのものに非常に執念深くなったり、他人に対しての思いやりに欠ける冷たい面が現れてきたりする事があります。中年後期から老年期にかけて、時々、人間との親密な関係から離れて、人嫌いになり全く孤立してしまった人が、不動産や預貯金などの財産に非常に強いこだわりを持って、自分に親切にしてくれる人は自分の財産を狙ってきているに違いないという風な被害妄想めいた観念にとらわれるようになるのもある種の退行と言えるでしょう。

ここで重要なのは、同じ神経症でも病態によって退行の仕方に違いがあるという事です。神経症の原因には、精神(リビドー)の発達がうまくいかなくて途中の未熟な段階に固着しているという素因(リビドーの発達不全)があり、その素因を持っている人が偶発的な外傷体験(フラストレーションや挫折感を起こすようなストレスを感じる体験)をする事で神経症が発症してきます。

だから、精神の発達が未熟だからというだけでは神経症にはならず、特別に不快な出来事や強いストレスを感じる状況がなければ、むしろ、いたって普通の健康な人、十分に大人としての社会適応力と常識を持った人にしか見えないという事が大いに有り得ます。神経症が発症する場合には、精神の発達の停滞という素因に加えて、心的外傷を思い出させるような苦痛なストレス体験が起こっています。

そういった心の傷になるようなつらい経験や耐え難いストレス状況にさらされた時に、精神の発達が不十分だった地点(固着点)にまで退行して、神経症になってしまうのです。私達は日常生活の中で様々な経験をしながら、喜びや楽しさ、苦しみ、悲しみといった感情を感じています。そして、その状況や出来事の中で生起した感情によって、自我を退行させたり、進展させたりしています。

どんなに苦しくてつらくても、いつも冷静で理性的な判断を下せる人が、健康な心の状態であるとは言えないし、人間的に成熟しているとも言えないのではないかと私は考えています。本当に深い苦悩を感じて、疲れ果てている時には、自分の感情を発散する為に限度を超えない範囲で、自我を退行させて子どものように泣いたり、親密な関係にある人に甘える事も必要なのです。自分一人で耐えられない苦悩を抱えた時には、親しい他人に甘えられる事、そして、自分が元気な時には、他人の痛みや悲しみを癒す為に甘えさせてあげられる事が、より良い対人関係を結んでいく為に大切なことです。

精神分析の病理学から学べる健全な人間の在り方とは、自分自身のありのままの感情を自然に受け容れられる自分であることと言えるでしょう。そういった自分の気持ちに対する誠実な態度があれば、喜びや嬉しさといった幸福な感情を素直に味わう事ができ、苦しみや悲しみといったつらい感情を自分の今後に役立てる形で経験する事が出来るのではないでしょうか。

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