日本の心理学は、欧米の心理学を輸入する形で始まりましたが、心理学そのものの始まりは非科学的なものであれば古代ギリシアのプラトンやアリストテレスの魂(プシュケ)を巡る学問などが心理学としてありました。
しかし、科学的な近代化された心理学は、19世紀半ばになって夜明けを迎えます。心理学の歴史は、思弁的な哲学の領域に包含されるものであれば非常に長い歴史を持っていると言えますが、科学的な検証を伴う心理学の歴史は非常に短いとも言えます。心理学は、長くて短い歴史を持つ不思議な学問といえそうです。
“こころ”というなかなか掴み所のない対象を扱う心理学という学問は、もともと単一の学問分野として確立していたわけではありません。そして、現代の心理学という分野も、非常に多岐にわたって枝分かれしており、専門家と細分化がますます複雑に進行しているといえるでしょう。また、前近代的な心理学としては、とても長い歴史を持つ心理学は、その背景に哲学・医学・生物学をはじめとする様々な分野の影響を受けて発展してきました。
心理学は、英語で“psychology:サイコロジー”といいますが、これは古代ギリシアに単語の起源があります。ギリシア語で魂を意味する“psyche:プシュケ”と、論理・理性を意味する“logos:ロゴス”が組み合わさって出来た言葉が『心理学:psychology』なのです。
もちろん、古代ギリシアの哲学者アリストテレスが研究していた魂について(peri psyche)の学問は、心理学とは違って、思弁的で抽象的な性格が強いものです。現在の心理学史では、“psychology”という言葉がインド・ヨーロッパ語圏で生まれたのは、16世紀初頭とされています。その時代に、クロアチアのマルリッチという人が、“psichiologia”という単語を使ったのがpsychologyにつながる最初だったのではないかと言われています。
マルリッチの後にもカスマンという人が、ラテン語の“psychologia”を使用したりしているのですが、16~17世紀にかけての“psychologia”は、現在の心理学とは全く内容が違っていたようで、霊魂や精霊などについて思索を巡らすといった『心霊学』に近い形の学問だったのではないかと考えられています。
心理学史研究者ダンジガー(Danziger, 1997)が言う様に、18世紀は心理学にとって『大いなる変質』の時代であり、18世紀のヴォルフの著作である『経験的心理学』(1732)と『理性的心理学』(1734)の中で初めて“psychologia”という言葉が現在の“psychology”に近い意味で使用されました。
また、18世紀という時代は、イギリスで産業革命が起こり、劇的に社会構造や経済の仕組みが変化した時代です。人々の労働形態が農業や牧畜中心の定住型生活から工業や商業中心の移住型生活に推移して、人々の間に大きな経済格差が生まれ、階層分化が進んでいくなどの事態も起こってきました。そういった急速に社会の価値観が変化し、人々の生活様式が移り変わる激動の時代の中で、人間精神の性質や本質を徹底的に知りたいという欲求が哲学者などの間に生まれてきました。
そういった時代背景の中で、近代イギリス経験論の完成者とされるデイビッド・ヒューム(1711-1776)が現れて、主著『人間本性論』(1739)を書いて、人間精神の科学的考察と経験的分析を成し遂げようとしたのです。哲学的思考を用いた心理学とも言えるヒュームの思想は実に斬新なものでした。彼が意図したのは、心的現象の世界に科学的な法則性を見出すことでした。その事によって、全ての学問の基盤にある『人間本性(human nature)』を明らかにすることが出来ると考えたのです。
ヒュームの見据える哲学的意図というのは、本当に壮大なもので、人間本性の解明によって『全く新しい、唯一の堅固な基礎の上に建設されるべき諸科学の完全無欠の体系』を目指したのでした。しかし、そういった意図は壮大で高遠であるがために、科学性から離れて観念的な合理性にはまってしまう可能性が高く、あくまでも哲学的な心理学の範疇にあるという事になります。
心理学史研究者リチャーズ(Richards, 2002)が19世紀以前の心理学を『反省的言説(reflexive discourse)』いうように、哲学的な心理学というのは、自分自身の精神世界を静かに省みて分析するといった自己言及的な性格を持ちます。そういった反省的言説によって組み立てられる心理学は、他人の内面と自分の内面が同じものであるかのような前提を持っていたり、自分の思考や感覚、刺激への反応などを過剰に一般的なものと見なしてしまう傾向がある為に、科学的な心理学であるとは言い難いのです。
この事からも、19世紀半ば以前には、まだ心理学は独立した個別の学問分野としては存在していませんでした。古代ギリシアやローマで行われていたような心理学は、現代でいう心ではなくて魂を考察する学問であり、永遠不滅の魂と肉体の関係性を考えたり、魂の理想的なあり方や魂が指し示す善の実践などを探求するといった観念的な学問でした。
また、『我思う、故に我あり』で有名な17世紀の哲学者ルネ・デカルトも精神についての哲学をしましたが、彼の考える精神と物質の区別や情念などの分類は、現在の心理学の心と身体の区別や感情・情動の考え方とは全く異なるもので、認識論という哲学の分野に属するものだと考えられます。
17世紀から19世紀初頭までの哲学の主要な理論は、ヨーロッパ大陸(ドイツ・フランス中心)の『合理主義・理性主義(rationalism)』とイギリスの『経験主義(empiricism)』の対立構図を通して発展し洗練されてきました。ドイツやフランスなどのヨーロッパ大陸で発展した“合理主義”というのは、一切の経験的事物に先行する生得的な観念(イデア)や理性(ロゴス)の存在を認めて、理性があるからこそ合理的な事物の認識が可能であるとする形而上学的な立場です。
合理主義では、感覚器官(目や耳、鼻など)で見たり、聴いたりできるという経験的な事柄を軽視して、思考や論理などの理性的なものが経験よりも重要で本質的なものだと考える観念論の傾向があります。合理主義は、どちらかというと科学的な方法論とは対立するものですが、科学的な学問の中でも論理や計算などの理性が必要であることは言うまでもないでしょう。
イギリスで発展した“経験主義”というのは、合理主義の観念的な形而上学に反対して生まれた思想的立場で、目や耳などの感覚器官によって事物を知覚する『経験』によって観念や論理が得られ、世界の事象を認識できるのであり、経験に先駆けて生得的な観念(イデア)などというものは存在しないという立場です。経験主義者にとっては、自分の目で見たり、耳で聴いたり、手で触ったりする“経験”こそが、認識の起源であり本質的なものなのです。
合理主義が、数や量に関する論理的な推論など『理性によって獲得できる知識』こそが本質的な認識であり、実際の経験よりも頭の中で論理的に考えられるものこそが重要と考えるのに対し、経験主義は、実験や観察など、実際に自分の目や耳で知覚して確認できる知識こそが本質的な認識であり、頭の中で論理や計算によって得られる純粋に理性的なものよりも、自分の感覚器官を使って経験できる感性的なものが重要であると考えます。
ここまで見てきた『大陸合理主義とイギリス経験主義』の対立をまとめてみます。合理主義は経験よりも理性を重んじ、感覚的経験を軽んじるという意味で観念的な哲学に向いた考え方です。
一方、経験主義は理性よりも経験を重んじ、理性だけに頼った頭の中だけの推論を否定します。経験主義の立場で、事実と存在について知るには『実験や観察といった感覚的経験』を通して確証しなければならないのです。その事から、経験主義は、科学的思考法の基盤である“実証主義”を支えるもので、現代の学問諸分野にとって欠かすことの出来ない考え方である事が分かると思います。
経験論の基本命題にはアリストテレスの言う『あらかじめ感性の中になかったものは、知性の中にあることはできない』という事があり、自然科学の実証性、非思弁性、反形而上学的な性格を持ちます。そして、こういった性格こそが経験論の哲学の特性を表しているのです。以上のことから、経験主義は、近代的人間の思想であり、科学的実証精神の成果だといえるでしょう。
経験主義の代表者として、ジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)がいます。ロックは自由主義思想の啓蒙思想家として、『統治二論』などの著作で社会契約説や政治権力の分立を唱えたことで有名ですが、人間の心の機能に関わる認識論の先進的な研究も進めました。ロックは、感覚的経験に先立つ生得的な理性『本有観念』(idea innata)によって世界を認識できるというデカルトの合理主義に反対し、生まれながらに自然に備わっている観念・理性は存在せず、人間の認識や知識の獲得は、『感覚的経験』によって成り立つという経験論を主張しました。
ロックの経験主義の著作である『人間悟性論』(1690)では、生まれたばかりの人間の心は、何も刻まれていない真っ白な板『タブラ・ラサ(tabula rasa)』であり、人間は見たり、聞いたり、触ったり、味わったり、嗅いだりといった感覚器官を使った“経験”をすることで観念や知識をその板に書き付けていくと考えました。つまり、ロックの経験主義では、身体を使った経験こそが人間の知識の源泉であり、認識の方法であるという事になります。
もちろん、意識はただ外部世界の事物を受動的に認識するだけのものではなく、感覚によって得られた単純な観念について思考したり、信じたり、疑ったりしてその観念を加工します。ロックはそういった心的観念を作り上げる経験を2つに分類しました。1つは、感覚的経験を通じて外界から直接得られる観念としての『感覚(sensation)』であり、もう1つはこの感覚を元に行う内的な観念の思考や解釈の経験としての『反省(reflection)』です。
更に、観念を、感覚的経験によって得られる個別のバラバラの観念である『単純観念』と、それらが結合して1つのまとまりある概念的なものとなった『複合観念』とに分けました。1700年にだされた『人間悟性論』の第4版では、例を挙げながら、観念が普通とは違う不自然な結合をすることに言及して、それを『観念の連合(association)』と呼びました。
このロックのいう観念の連合は、心理学分野の連合の概念へとつながっていくのです。ロックの経験主義的立場は、バークリー(George Berkeley, 1685-1753)へと引き継がれて、『知覚されるものが存在するものである』という唯心論(知覚一元論)へと行き着きました。バークリーの有名な例に、『誰も見ていない森の奥で倒れた木は存在しているといえるのか?』という命題がありますが、バークリーの唯心論に依拠すれば“知覚が全ての存在の根拠”なのですから、その倒れた木は存在していないという事になってしまうのです。
バークリーに続くデイビッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)は、懐疑論者といわれますが、イギリス経験論の完成者でもあります。ヒュームは、その主著『人間本性論』の中で、ロックやバークリーが『観念』と呼んでいた意識内容を『知覚(perception)』という語に置き換え、この知覚を『印象(impression)』と『観念(idea)』に分けました。印象とは、現在の感覚であり、知覚の過程のことです。当時は感覚と外部刺激を区別していなかったので、印象はこの両方を含む言葉でした。観念とは、記憶によって想起される意識内容・イメージのことです。
また、ヒュームは、印象の中で弱々しい複製ともいうべき観念は、連合の過程によって新しい複合観念を生じると論じています。この複合観念の成立には、類似性の法則と時空間の近接性の法則が関係しているといいます。ヒュームは、原因と結果の相互関係、因果関係について徹底的に考え抜いた哲学者でもあります。彼は、因果性の究極的な分析をすると、原因と結果の観念の間には、客観的な必然性がないと主張し、その事から懐疑論者であると言われます。しかし、懐疑主義者であるヒュームですが、客観的明証性へのこだわりから、19世紀のコントらの実証主義(positivism)の確立へ一定の貢献をしたとも考えられます。
医学は、現在でも心理学に強い影響を与える学問分野のひとつですが、心理学の成立期に特に大きな影響を与えたのは身体の構造や機能を調べる“生理学”の分野でした。身体の構造を調べる人体解剖学は、16世紀からかなり進歩していたのですが、実験機器・観察機器の性能の限界から神経解剖学の研究はやや停滞していました。そこに、19世紀の顕微鏡技術の劇的な発達が起こり、解剖学研究は解剖学的な身体の構造だけではなくて、身体の仕組みや機能も考える生理学へと飛躍的な進歩を遂げることになりました。
19世紀には、特殊神経エネルギー説を提唱したベルリン大学のJ.ミュラーが中心となって感覚生理学が活発となりました。特殊神経“エネルギー”説というように、ミュラーは、科学的な生理学的実験を行いつつも、生物には、生命活動を行うための目に見えないエネルギーのようなものが身体内に流れているとする『生気論(vitalism)』の立場をとっていました。
また、ミュラーの特殊神経エネルギー説は、五感にそれぞれ対応する個別の感覚神経が存在するという前提をとったので、これ以降の感覚・知覚研究は、視覚、触覚などのように感覚別に行うことになりました。ミュラーは、身体に不可視の生体エネルギーが流れていて、そのエネルギーによって生命現象が起こるという生気論者だったので、『身体の生理学的変化などをはじめとする生命現象一般は物理化学的過程として理解できる』とする唯物論(materialism)の立場にたつ4人の弟子たち(デュ・ボワ=レイモン,ヘルムホルツ,ルートヴィッヒ,ブリュッケ)はミュラーと離別してある種の研究クラブを結成します。
デュ・ボワ=レイモンは、ヴントから教えを受けたこともあるのですが、J.ミュラーの後を継いでベルリン大学生理学教室の教授となりました。1858年からハイデルベルク大学の生理学教室の教授だったヘルムホルツは、視覚・聴覚研究や神経伝達速度の研究で有名で、色の知覚の3原色説(ヤング―ヘルムホルツの理論:Young-Helmholtz theory)を提唱して、『生理光学ハンドブック』(1856-1866)を書きました。また、ヘルムホルツは、物理学・数学分野に優れた才能を持ち、生理学・化学にも深い造詣を持っていて、ベルリン大学の物理学教室の教授にもなりました。
更に、ヘルムホルツは、R.マイヤーとは異なるエネルギー保存の法則を考案して、生命現象におけるエネルギー原理の導入に貢献しました。カイモグラフ(波動状の曲線を記録する装置)を発明したルートヴィッヒは、条件反射(古典的条件づけ)で有名なパヴロフの師でもあります。ブリュッケも、精神分析の創始者であるシグムンド・フロイトを指導していました。生命現象を物理化学的過程に還元する感覚生理学のような唯物論的で機械論的な科学の方向は、実験心理学の誕生に大きな影響を与え、心理学の還元主義的な基礎付けをもしました。
18世紀の終わり頃には、頭蓋骨の形によって性格傾向や能力特性を知ろうとする『骨相学(phrenology)』がガルによって創始されました。骨相学には、科学的根拠はありませんが、ガルは心的能力を27個に分類して経験的に実証しようとしたり、大脳皮質の発達している部分が頭蓋骨の隆起パターンで分かるとする大脳の機能的局在の考え方を示したりして、19世紀後半になって発展する大脳生理学の先駆者的な仕事をしたともいえます。
19世紀後半になると、大脳生理学は目覚しい発展を見せ、ブローカやウェルニッケによって聴覚性言語中枢が発見され、フリッチュとヒッツィヒの運動皮質の研究の進展によって大脳の部分局在的な機能が少しずつ明らかになっていきました。現在も脳に関しては、脳科学分野において、意欲的で先進的な研究が進められています。
ダーウィンが1859年に著した『種の起源』(正式名『自然選択、すなわち生存闘争において有利な競争が存続することによる、種の起源について』)によって提示された進化論は、それまでのキリスト教に依拠した人間観や自然観を打ち破る画期的な生物学の理論でした。『種の起源』は、よく一般に言われているような類人猿から人間への進化を中心に論じた書物ではなく、自然界の植物や動物の何世代にもわたる世代交代の中の変化を『自然選択(natural selection)と突然変異(mutation)』によって説明しているものです。
進化(evolution)という言葉そのものも、初めは付録の中で使用されていただけで、進化の代わりに『変化を伴う由来(descent with modification)』という言葉が使われていました。ダーウィンは生物種の変化(進化)は、『生存闘争(struggle for life)』と『自然選択(natural selection)』によって起こるという考えを持っていました。
この生物のある種が違う種に変化するという考えは、当時、生物学的な分野でも支配的だったキリスト教の『神によって、生物種はそれぞれ個別に創造された』という教義と対立するものだったので、宗教的世界観を持つ多くの人たちから強烈な反論と否定が寄せられました。
進化論というとダーウィンの研究によるものというイメージが強いですが、実際にはダーウィン以前にも遺伝に関する漠然とした知識はありましたし、植物や動物の品種改良を行って親から子へ形態や機能が受け継がれることは経験的には知られていました。例えば、農家の人はダーウィン以前の遥か昔から、良い肉や良い健康状態を持つウシや豚などを掛け合わせて家畜を改良したりする中で、世代間に身体の特徴が伝わる遺伝に関して経験的に知っていました。
ダーウィン以前の生物学者のラマルクは、1809年に『キリンは高いところにある食物を食べようとして努力した結果、首が伸びた』と解釈するような、産まれてから後の後天的に獲得した形質(特徴)が遺伝するという“ラマルキズム(獲得形質の遺伝)”を提唱しました。
ダーウィンは、後天的な獲得形質の遺伝には懐疑的で、キリンの首の場合でも元々先天的に首の長かったキリンが生存闘争に有利であった為に、より首の長い種のキリンが自然選択されて生き残った結果、首が長くなったという解釈をしています。更に、自然選択だけでは余りに長い時間がかかりすぎるので、進化には偶発的な『突然変異(mutation)』が関与していると考えました。
ダーウィン自身は繊細な神経の持ち主で押し出しの弱い性格であったといわれ、伝統的なキリスト教の自然観を覆す進化論をそれほど強硬に主張したわけではないのですが、周囲のダーウィン支持者たちは進化論の正当性を証明する為に精力的に活動しました。
その中でも、生理解剖学者で優れた論客でもあったハクスリーは、『ダーウィンのブルドッグ』と渾名(あだな)されたように、ダーウィンの進化論を強く支持し、その主張を代弁してキリスト教神学者との論争に参加したりしました。その有名なキリスト教神学者との論争に、1860年のウィルバーフォース主教との議論があります。
その時に述べたハクスリーの有名な言葉に、『自分の祖先がサルであることを恥ずかしいとは思わないが、真実を歪めるためにその偉大な能力を使うような人間とつながりがあったとしたら恥ずかしく思うだろう』という激烈な皮肉めいた言葉があります。また、ハクスリーは、『自然における人間の位置について』(1863)という著書で、人間と動物の生物学的な位置づけを相対化し、人間が特別な起源を持つ特権的な生物ではないことを示す事に貢献しました。ハクスリーは、人間の生物学的特殊性を主張するオーウェンと議論して、人間と他の霊長類との脳の間には、量的な差異があるだけで、質的な差異はないという見解を述べました。
後期のダーウィンは、『人間の由来(1871)』『人間と動物における情動の表現(1872)』などを著して人間の進化についても言及しました。進化論の発展と関連して現れた心理学に、進化論的視点を人間と動物の心にあてはめて考える『比較心理学(comparative psychology)』という分野があります。比較心理学の創始者は、ダーウィンの友人の比較解剖学者ロマーニズでした。
ロマーニズは、『動物の知能(1882)』という書物の中で、数多くの動物の普段は見られない知的能力について様々な逸話を元に分析して、人間と動物の知的能力には“質的差異がない”と結論しました。また、ロマーニズが民間に残されているような逸話を分析して研究する逸話法を用いた事に、モーガンは反対し、『試行錯誤学習のような低次の心的過程で説明できる事と推理や総合のような高次の心的過程で説明できる事は厳密に区別しなければならない』とするモーガンの公準(節約律)を示しました。
モーガンの公準は、比較心理学の実験における解釈を厳密にするという役割を果たし、実験を用いた心理学の発展に貢献しました。モーガンのイヌのトニーの例によれば、イヌが自分の頭で玄関の門のカギを押し上げて開けたとしても、それは門のカギの開け方の原理を理解したわけではなくて、ある日、偶然に頭があたってカギが開くという経験をしたという試行錯誤の結果に過ぎないという事になります。つまり、同じカギを開けるという行動を人間もイヌも出来ますが、人間が高次の心的過程によってカギの開け閉めという原理を知性で理解しているのに対して、イヌは低次の心的過程である試行錯誤によって偶発的にカギが開き、外に出られる経験をしたのでそれを反射的に行うようになっただけであるという違いがあるという事です。
この低次の心的過程を『知能(intelligence)』といい、高次の心的過程を『知性(intellect)』と呼ぶこともあります。