ヴントの実験心理学の成立

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フェヒナーの精神物理学

心理学が哲学から分離して独立した専門分野となる為には、心理学をより自然科学的な客観性のある学問にする必要がありました。しかし、人間の理性による認識を徹底的に批判哲学で考察し、経験論と合理論との対立を調停したインマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)によれば、心は観察可能な対象ではないので、心理学は実験や観察に基づく自然科学として成立しないとされました。

カントといえば、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の3批判書を書いて、人間の認識の仕組みや存在、行為の倫理性などについて極めて詳細に精緻に考え抜いた人で、カントの哲学は非常に難解ですが、その論理性は現代においても相当に優れたものがあります。

そのカントが、心理学は自然科学としては成り立たないだろうと考えたので当時はかなり説得力があったのですが、その問題に果敢に挑戦して活路を見いだしたのが、医学・哲学を修め、物理学や化学にも優れた才能を発揮したフェヒナー(Fechner, 1801-1887)という人です。

フェヒナーは、1824年からライプツィヒ大学で物理学教室の教鞭を取りましたが、人間の感覚や知覚に強い興味を持ち、光と残像の研究を自分の身体を実験台にするほど必死に行いました。その実験は、太陽の光による残像現象を調べるもので、フェヒナーは自分自身の肉眼を用いて昼間の太陽を凝視し続けました。その強烈な太陽光によって目を傷めてしまい、1840年間からの約3年間は完全に視力を失い、暗闇の中の生活で精神的にも大きなダメージを受けて抑うつ状態に陥ったとされます。

フェヒナーが、心理学を独立した自然科学的な学問領域とする為に出した答えは、1850年10月22日にベッドの上で考え込み天啓を得た『精神物理学(psychophysics(英), Psychophysik(独))』の構想でした。感覚・知覚といった心的過程を数量化して測定しようという精神物理学のひらめきには、ヴェーバー『重さの弁別実験』が大きく寄与していると思われます。重さの弁別実験というのは、ある重さを標準刺激として、それとは違う様々な重さの刺激(比較刺激)を与えた場合に、どのくらいの重さの違いがあればその差を感じることが出来るのか、その違いを弁別できるのかという実験です。

違いが認識できる最小の刺激量を『閾値(いきち)』といい、二つの刺激の違いを弁別できる刺激の最小値を『弁別閾』といいます。閾値は簡単にいえば、手のひらに砂糖を極微量ずつ乗せていった場合に、重さを感じ始めた時点の重さであったりというように何かの身体的変化を感覚する最小の物理量の事です。弁別閾というのは、手のひらに乗せた重さ80gの粘土に少しずつ粘土を付け足していった場合に、重さの違いを感じることの出来る時点の重さです。

『閾値(threshold)』という概念そのものは、ドイツの哲学者ヘルバルトが『意識の閾』といった表現で用いていました。しかし、閾値概念は、精神物理学的測定法に必要不可欠な概念なので、フェヒナーによってかなり厳密に定義されました。フェヒナーは、ある刺激が“変化したこと”が分かる為に必要な刺激の最小値(最小強度)を『弁別閾』と呼び、ある刺激が“存在すること”が分かる為に必要な刺激の最小値(最小強度)を『絶対閾』と呼んで、その二つを区別しました。

ヴェーバーは、二つの重さの違いが認識できる最小単位を『丁度可知差異(just noticeable difference)』と呼びました。ヴェーバーの重りを持ち上げる実験によると、丁度可知差異は初めに与えられた標準刺激の重さの“40分の1”です。つまり、120グラムの重りが標準刺激である場合には、123グラムで重さの違いを認識することができるという事です。

このヴェーバーの重さの弁別実験による丁度可知差異の発見は、心理学を自然科学的な分野に近づける為の非常に大きな貢献をしました。つまり、人間の感覚という心的過程は、数量化して関数表記することが可能であることを示し、目に見えない心的過程といえども一定の法則性に従っている可能性がある事を示唆して心理学を哲学から科学に近づけたのです。

丁度可知差異が、絶えず標準刺激に対して一定の割合(40分の1)を取るということから、人間の感覚・知覚の心的過程には法則性があることが示されたといえます。これは、心理学の歴史の中で一番初めに数量化されて記述された法則で、フェヒナーによって“ヴェーバーの法則”と呼ばれる事になりました。

ヴェーバーの法則で明らかになったことは、人間の感覚機能は、外界の刺激の変化を正確に客観的に映す鏡のようなものではないという事であり、感覚刺激(重さ)の違いを判断する際の基準は相対的なものであるという事でした。

フェヒナーが意図した精神物理学は、身体的経験と心的経験をつなげる関係性を科学的に数量化した形で明らかにする事でした。感覚は、意識によってそれを認識するので、外的刺激に対する機械的反応としての“生理学的反応”ではなく、意識(心)が関わる“心的反応”であると考えられるため、科学的な心理学を構築しようとするフェヒナーの関心を集めたのです。感覚とは即ち、外部からの刺激によって起こる身体的反応(生理学的反応)を、“心”で認識することによって起こるものだと考えられたのです。

フェヒナーは、上述した感覚の認識から、精神物理学を『外的精神物理学』(外的刺激と心的感覚の関係を研究する分野)『内的精神物理学』(内部の生理的反応と心的感覚の関係を研究する分野)に分けました。フェヒナーは、閾値を測定する為に3種類の精神物理学的測定法を開発しました。それは、『丁度可知差異法・当否法・平均誤差法』と呼ばれるもので、現在では名称は変更されているものの、その測定方法そのものは継続して使われています。

『丁度可知差異法』は、現在では『極限法』と呼ばれ、2つの刺激の差異が分かる最小の刺激単位を求めるもので、『実践的な点において、丁度可知差異法は3つの測定法のうち、最も簡単で、最も直接的で、目標に達するまでに一番速く、計算方法も一番少なくてすむ』とフェヒナー自身が述べています。(Fechner, 1860)

極限法とは具体的には、実験者が『与える刺激の強度』を一方的に調整して、被験者に与えるものです。だから、実験者が得たいデータを得る為に目的を持って刺激を調整できるので、比較的簡単に閾値を測定する事が出来るのです。

『当否法』は、現在では『恒常法』と呼ばれ、実験者が被験者にランダムに刺激を与えて、被験者に先入観や予想を抱かせることなくその感覚の強弱や大小を判断させることで閾値を探ろうとするものです。しかし、ランダムに刺激を与えるので、まとまったデータを得るまでに非常に多くの刺激を提示しなければならず、フェヒナーも『多くの時間と忍耐が無い時には関わらないほうがよい』と敬遠しています。

『平均誤差法』は、現在では『調整法』と呼ばれ、実験者ではなくて、被験者自身が自分で刺激の強度の調整を行うものですが、これもデータを得るまでに多くの試行数が必要となる測定法です。

フェヒナーの最大の功績は、心的感覚が等差的に変化するためには、物理的刺激を等比的に変化させていかなければならないことを関数表記で示した『ヴェーバー・フェヒナーの法則』を提唱(Fechner, 1860)したことです。フェヒナーの法則とは、(γ=感覚の大きさ、β=刺激閾、k,b=定数)とした時に以下のような関数で表されるものです。

γ=klogβ/b

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ヴントの人生の概略

ここから『実験心理学の父』と呼ばれ、近代心理学の基礎を確立したヴント(Wilhelm Wundt, 1832-1920)の生涯を振り返っていきたいと思います。ヴントは、1832年、ドイツ南西部の小村にプロテスタントの牧師の息子としてこの世に生を受けました。1856年にハイデルベルク大学医学部を卒業します。その翌年1857年に、現在でいう非常勤講師である私講師という役職につきますが、大学からの給与はなく、収入源は講義を受ける学生の受講料のみでした。そういった状況だったので、経済的にはとても困窮した生活を送る事になります。足りない生活費を補う為に、ヴントは精力的に生理学などの教科書の執筆をして収入を得ました。

ヴントは、とても膨大な教科書・論文などの著作を生涯を賭けて執筆しており、その総量は5万3000ページにも及ぶという凄まじいものです。1858年から5年間、ヴントはヘルムホルツの助手を勤めたのですが、その職を辞める時に、辞めた理由について多くの流言が飛び交いました。そういった風評の中でも、アメリカのホールが活字にまでしてしまった噂として、ヴントの数学的能力に難があったためにヘルムホルツから遠ざけられ助手を辞めたという根拠の乏しい噂があります。この中傷めいたホールの文書には、ヴントも憤りを隠せなかったみたいです。

実際には、ヘルムホルツがヴントの学問上の能力に対して不満を持ち、嫌って遠ざけたというような事実はなく、就職推薦状などから推測するとヘルムホルツとの個人的な軋轢などが助手を辞めた原因なのではなく、“ヴントとヘルムホルツの研究内容の志向性の違い”が最大の理由であるように思えます。ヘルムホルツは、感覚(視覚・聴覚など)や無意識的推論などの分野を純粋に生理学的な方法で研究したのに対して、ヴントはあくまで心理学としての生理学に興味を持ち、生理学的技術を用いながらも人間の心や意識の体験を解明するための研究を進めたいと考えていたために、心理学に対する目的意識の違いが大きかったのだと思います。ヴントは医学や生理学ではなく、実験的な心理学をやりたかったのです。

ヘルムホルツの元を去った1862年からは、再び私講師として、ヘルバルトの『科学としての心理学』(1824-25)などをテキストに使用しながら、『自然科学から見た心理学』『生理学的心理学』『心理学』などの講義を行いました。ヘルバルトの『科学としての心理学』は、副題が「経験と形而上学と数学に新たに基づいて」であり、数学や力学といった自然科学的手法と経験主義を意識した著作で、ヴントの目指そうとする心理学の方向性に合ったものでした。

続く1873年にはヴントの最高傑作といわれる『生理学的心理学綱要』の前半部を出版して、高い評価を得て、1874年にはスイスのチューリッヒ大学の哲学講座・正教授の地位に就きました。チューリッヒ大学の正教授職には1年という短い期間しかいませんでしたが、1875年には、ライプツィヒ大学の哲学部教授として招聘されて、88歳で生涯を終えるまで過ごす事になるライプツィヒに向かいます。

哲学や生理学から心理学という学問分野が独立した年であり、ヴントの心理学実験室の使用で知られる1879年という年は、心理学実験室が完成した年ではなくて、この年の秋にヴント指導のゼミナール(演習)がカリキュラムに組み込まれて、ヴントのそれまで使っていた実験室が正式に授業で使用されるようになったと解釈するのが妥当なようです。(Bringmann et al, 1980;高橋, 1999)更に、1881年にヴントは、自らの心理学研究室の成果を掲載する為に、後に『心理学研究』になる『哲学研究』という専門的学術雑誌を発刊しました。

ヴントの目指した心理学は、代表的著作『生理学的心理学綱要』から推測できるように、生理学的手法を心理学に取り入れて、生理学と心理学の優れた面をそれぞれ実験心理学的な研究に活用しようとするものです。そういったヴントの心理学を『生理学的心理学(physiological psychology)』と言います。現在には、生理心理学という分野と英語表記では同じなのですが、ヴントの生理学的心理学の時代には、まだ脳波の測定や脳そのものの研究はなかったので、日本語では“生理学的心理学”と“生理心理学”を訳し分ける慣習があります。

ヴントの心理学で用いられる方法は、外部から刺激を与えて、“外部の反応”“内部の経験”を色々な実験器具を用いたり、自分自身の心理的経験を反省して観察する(自分の心を自分で自己観察する)『内観法(introspection)』です。

内観法は、自分で自分の意識内容(経験)を言葉にして報告するものですが、ヴントは、自分だけにしか感覚できないような主観的で哲学的な自己観察については否定していました。ヴントの内観法は、生理学的な内観法であり、同じ刺激に対してはいつも同じ反応と報告ができるように、被験者が一定の訓練を必要とするようなものでした。

ヴントの心理学研究室には実験室が備えつけられ、自ら『実験心理学』を名乗るようになり、海外では従来の哲学的心理学と区別して『新心理学(new psychology)』とも呼ばれるようになりました。実験心理学は、大型の金属製装置を使うので、ヴントの心理学をアメリカで継いだティチナーの時代頃から『鉄と真鍮の心理学』と言われる事もあります。

ヴントは、オランダの生理学者ドンデルスの減算法による反応時間の研究を発展させたり、視覚の認知体系(認知→弁別→反応)を構想したりしました。また、ドイツの哲学者ライプニッツやヘルバルトも使用していた『統覚(apperception)』を、心理学の認知体系をとりまとめる心的過程として定義しようとしました。

また、ヴントは、内観法が適用できない分野があるという実験心理学の限界も理解していて、実験心理学とは異なる文化心理学ともいうべき『民族心理学(VOlkerpsychologie:独)』を体系的に作り上げようとしました。民族心理学の概念を初めて考えたのは、フンボルトだと言われていますが、フンボルトは、サピア―ウォーフの仮説(Sapir-Whorf hypothesis)という仮説を支持していました。その仮説は、異なる言語圏に属する民族は、異なる世界観を持っているとする文化を相対的なものとして見るような仮説です。実際の民族心理学の研究は、『民族心理学・言語学雑誌』(1860年)を創刊したラツァールスとシュタインタールによって始められました。

民族心理学に関する著作には、ヴントが晩年に書いた全10巻の大著『民族心理学』(1900-1920)があります。これは社会科学の領域に含まれるような広範な内容を含んでいて、言語、法律、社会、歴史、文化慣習、宗教、神話といった分野について深く触れられています。

ヴントの心理学は、アメリカを中心とした心理学の発展によって、後年『要素主義心理学』『構成心理学』と呼ばれるようにもなりましたが、ヴント自身は必ずしも生涯を通して心が要素から構成されていると考えていたわけではなく、上記のように認知をとりまとめる統覚のようなものを想定して全体的に機能するシステムとして捉えようとしていた面もあります。科学的な近代心理学の確立者・ヴントの研究は、心理学史研究者の間では今でも活発に進められているようです。

ライプツィヒ学派

ヴントがライプツィヒ大学において創始した実験心理学を継承した学派をライプツィヒ学派と呼び、多くの優秀な研究者を輩出しています。 ヴントの元で研究をした人で、アメリカの心理学研究の基盤をつくった人たちには、J.M.キャッテル、スクリプチャー、チィチナーなどがいます。アメリカ臨床心理学の父ともされるウィトマー、応用心理学のミュンスターベルクも、ヴントの教育を受け学位を取得しました。

精神医学領域でも、近代精神医学の疾病分類を確立したとされるクレペリンが、ライプツィヒ大学で働いていた時期にヴントの実験室を利用していたと言われます。ヴントの後任の教授となった弟子のクリューガーは、『全体性心理学(Ganzheit Psychologie:独)を創始して、ゲシュタルトや構造を下位概念とし、その上部に心的全体という概念を置きました。

全体性心理学の人間の発達観は、幼少期には、全体的で未分化だっ心的全体が、発達と共に機能が分化していき、様々な形に分節化されていくというものです。しかし、後のヒトラーを総統とするナチス・ドイツ政権下で、全体主義体制を正当化するために全体性心理学が利用されてしまったという暗い過去も持っています。それとは反対に、ゲシュタルト心理学は、ナチス政権下で弾圧されたので、優秀な研究者の多くが海外に亡命を余儀なくされました。

また、ヴントの実験心理学への批判的スタンスから『作用心理学(act psychology)』を確立したブレンターノという心理学者もいます。ブレンターノは、心理の内容よりも心理の過程に強い関心を持ち、心的作用と心的内容を明確に区別したところが特徴的です。ブレンターノは、ウィーン大学の哲学講座で教鞭を取っていた時に、精神分析の創始者フロイトが講義を受けていたというエピソードでも有名です。

ブレンターノに影響を受けた心理学者には、聴覚研究をして『聴覚心理学』を著したシュトゥンプや、記憶や色彩の知覚に関する研究をしたG.E.ミュラーがいます。シュトゥンプは、ゲシュタルト心理学の創設に大きな影響を与えた心理学者でもあり、ケーラーやヴェルトハイマーを教育しました。

また、哲学の現象学の分野を開拓したエドムント・フッサールも、ブレンターノから教えを受けて、現象学的な思考を持つにあたって多くの示唆を得たと考えられています。ヴントの弟子で、思考過程に実験的設定を持ち込んで、被験者への質問方法を工夫したキュルペという研究者もいます。キュルペは自分への賛同者と共にヴュルツブルグ学派を組織しました。

19世紀から20世紀初頭のドイツ心理学会で重要な人物としては、ベルリン大学で記憶に関する実験的研究を推進し、『記憶について(1885)』を著したエビングハウスもいます。短期記憶が時間経過に沿ってどのように失われていくかをグラフ化した“エビングハウスの忘却曲線”は、非常によく知られています。

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