古典的行動主義

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20世紀の心理学の3つの主流

19世紀までの心理学は哲学の影響を色濃く受けていて、意識と主観を内観法によって要素還元主義的に研究するものでした。20世紀の心理学の主流は、『意識・主観・要素』へのアンチテーゼ(否定)として確立されました。

即ち、意識に対する無意識の概念を心的現象・心的病理の説明原理として考えた『フロイトの精神分析』、主観的な内観法を否定して客観的な外部からの行動観察によって行動原理を考えようとしたワトソンを父とする『行動主義』、そして、要素還元主義的な心の分析ではなく心の全体性(ゲシュタルト)の把握を目指した『ゲシュタルト心理学』です。この3つの大きな重要な流れが、20世紀の心理学の3大潮流となるのです。

ワトソンの行動主義

20世紀初頭のアメリカには、“構成心理学”“機能心理学”の対立構図があったものの、研究の対象はどちらも意識ないしは意識的経験であり、意識の調査方法も多くを“言語的報告”に頼っていました。言語的報告によるデータの収集の弱点は、言語機能が未発達な乳幼児、言語障害者、知的障害者の研究に適用できないという事です。更に、動物などの言語を持たない対象の研究にも適用する事が出来ないという弱点があります。健常者の一定以上の年齢の人間にしか適用できない従来の言語的報告を用いた意識研究は、発達心理学の研究や人間の環境や社会への適応の研究をする上で非常に使い勝手の悪いものです。

特に、人間の心理を進化論的見地から解明したいと考えていた機能心理学派にとって、乳幼児の心を調べられない意識研究は不満足なものでした。そこで、機能心理学の本拠シカゴ大学で心理学の研究をしていたワトソンが、“意識”の研究を“行動”の研究に変革して、主観的言語の報告によって心を調べるのではなく、客観的観察の記述によって行動を調べる心理学を提唱しました。

このように、客観的に観察可能な“行動”を中心にして研究する心理学の立場を『行動主義(behaviorism)』といいます。ワトソンの『行動主義者のみた心理学』(1913年)という論文の冒頭では、以下のような明瞭な行動主義の理念が述べられています。

『行動主義者が心理学を眺める時、それは自然科学の純粋に客観的で実験的な一分野である。その理論的目標は、行動の予測と統制にある。この方法において内観法は重要なものではなく、意識という観点から解釈する用意が既に出来ているデータにも科学的価値はない。――(中略)――行動主義者は動物の反応に関する統一的図式を得ようとする努力の中で、人と動物との間に境界線がないことを認識している。』
(Watson, 1913, p.158 ; 高砂美樹訳)

この高らかなワトソンの行動主義心理学の方法に関する声明は、1910年代には、それほど珍しいものという訳ではなく、19世紀的な内観法と主観的な言語報告による心理学への批判という形で多くの心理学者によって行動主義が主張されてきました。ワトソン以前にも、J.M.キャッテルなどが行動主義的な内容の講演を1904年に行っており、行動主義の祖父と解釈されることもあります。

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古典的行動主義

ワトソンの『古典的行動主義』には、上記の客観的な行動の観察による研究以外にも、S-R理論、末梢主義、環境主義といったものがあります。“S-R理論”というのは、“S”(Stimulus:刺激)に対する“R”(Response:反応)の結びつきで人間の行動のメカニズムを考えようとする立場で、ロシアのパヴロフの条件づけの研究などによってS-R理論の根拠づけが進められました。

ワトソンは、本能(instinct)さえも後天的な経験によって条件づけされた反応であると考え、11ヶ月のアルバート坊やの恐怖反応の条件づけの実験などを通してそれを証明しようとしました。アルバート坊やの実験を簡単に説明します。初めに、アルバート坊やの目の前に白ネズミを差し出しました。アルバート坊やは特別、白ネズミが怖いわけでも嫌いなわけでもないので、白ネズミに近づいて触ろうとします。その白ネズミに触れようとした瞬間に、アルバート坊やの後ろで、ガンガンと鉄の棒を金槌で叩いて大きな音を出すとアルバート坊やは突然の大きな音にびっくりしてしまいます。音が鳴り止んで、再び白ネズミに触ろうとするアルバート坊やにまた大きな音を聞かせてびっくりさせます。

これを何度も繰り返すと、『白ネズミ=怖い大きな音』という観念が結合してしまい、本来は嫌いではなかった白ネズミを見ただけでアルバート坊やは泣き出してハイハイをして逃げ回るようになってしまいました。ワトソンは、この実験を通して恐怖反応を人工的に条件づけする事に成功しました。恐怖は先天的な本能としてあるのではなく、後天的な学習によって条件づけされるというのがワトソンの行動主義の考え方なのです。

更に、アルバート坊やは白いネズミだけではなく、白いウサギや白いアゴヒゲのサンタクロースなども怖がるようになってしまいました。このように一つの刺激に対する反応が、それとは別の類似した刺激に対しても起こってくる事を、学習心理学の用語で『般化』と呼びます。このアルバート坊やの実験は、人間の刺激に対する反応の条件付けや恐怖条件づけが形成される行動のメカニズムをとても良く説明していますが、現在ではこういった実験は子どもに心的な外傷(トラウマ)を残したりする危険性があるので倫理的な問題があると考えられ行われていません。

末梢主義というのは、脳を中心とした中枢神経系よりも末梢神経系の反応に注目するもので、ワトソンは特に筋運動感覚を重視しました。ワトソンが、何故、末梢主義に立ったかというと、ラットの迷路学習成立の実験(1907)で、ラットの感覚器官を1つずつ損傷していっても、運動感覚機能だけで迷路学習を成功させることが出来たからです。

また、徹底的な客観主義を標榜するワトソンは、主観的な思考を認めず、『思考=咽頭の動揺』と考えて、友人のカーヘ宛の手紙の中でも、『いつもあなたのことを考えるでしょう』と書かずに『いつもあなたのことで咽頭が動揺するでしょう』という独特な表現を用いています。また、アルバート坊やの実験で、先天的な本能つまり遺伝的な本能よりも環境的影響のほうが重要であるとして、ワトソンは環境主義の立場を取りました。ワトソンの環境主義を示す有名な言葉として以下のようなものがあります。

『私に健康で五体満足な乳児を12人と、彼らを育てる為に私自身が詳細を決める世界とを与えてくれるならば、私はその内の任意の1人を取り出し、才能や好みや傾向や能力や天職や先祖の人種とは無関係に、私が選んだどんな専門家にでも―医者、弁護士、芸術家、商店主、それに乞食や泥棒にでさえも―育ててみせることを約束しよう』
(Watson, 1926)

パヴロフの古典的条件づけ

19世紀後半のロシアでは、セチェノフ、パヴロフ、ベヒテレフらによって、意識的経験を対象とする従来の心理学に対して批判的な客観的心理学という生理学を基軸とした心理学が発展してきました。客観的心理学では、反射の現象を用いて、心的現象を説明しようとする研究が盛んに進められました。客観的心理学の学者で、もっとも有名で心理学に対してもっとも強い影響を与えたパヴロフについて見ていきましょう。

パヴロフは、ロシアのサンクト・ペテルブルク軍医学校で自然科学と医学を修め、生理学を学ぶ為にドイツに留学しました。1890年にドイツから帰国したパヴロフは消化管の研究を行い、被験体のイヌを生かしたまま研究できる画期的な手法を開発しました。その方法を利用して胃液の分泌に関する研究を精力的に行い、1904年にノーベル医学生理学賞を受賞しました。

パヴロフは、消化管に関する一連の生理学的研究の中から、イヌが口に入った食物以外の刺激でも反応して、胃液を分泌することを発見しました。その後、研究方法の進展で、胃液の分泌だけでなく唾液の分泌も食物以外の刺激によって起こることが分かってきました。その事を発見した当初、パヴロフは食物以外の刺激による唾液の分泌を『心的分泌』と呼んでいました。パヴロフの行った最も有名な実験は、『パヴロフの犬の実験』です。これは、実験的にベルの音によって、唾液が自然に分泌されるように“古典的条件づけ(レスポンデント条件づけ)”を犬に施したものです。

犬は、餌を食べる時には自然に唾液が出ます。この餌によって唾液が出る反応を、『反射行動(無条件反射)』といい、餌を『無条件刺激』といいます。パヴロフは、無条件刺激である餌以外の刺激で唾液を分泌させようと考えて、餌を上げる前に必ずベルの音を鳴らすようにしたのです。初めのうちは、ベルは中性刺激であり、食欲を刺激するわけではありませんから、ベルの音を聞いても唾液は分泌されません。

しかし、何度も何度も食餌の前にベルを鳴らしていると『ベルが鳴れば餌が食べられる』という事が経験的にわかってきて、身体が自然に反応して、ベルの音だけで唾液を分泌するようになります。こういった本来、反射行動(唾液分泌)とは無関係の刺激(ベル)によって、反射行動を成立させることを『古典的条件づけ(レスポンデント条件づけ)』と言い、成立した反射行動を『条件反射』といいます。

“古典的条件づけ(レスポンデント条件づけ)”を定式化すると、“特定の反射行動(えさ→唾液)”を生じさせない“中性刺激(ベルの音)”を、時間的に接近させて何度も反復し、餌(無条件刺激)と一緒に対呈示すると、“中性刺激”が“条件刺激”としての働きを獲得して、“条件反射”が成立してきます。パヴロフの研究は、ワトソンからは長い間、関心が払われる事がなく、初めはハーヴァード大学で比較心理学を研究していたヤーキーズらによってアメリカに紹介されました。

しかし、ワトソンは1915年のアメリカ心理学会の会長講演『心理学における条件反射の位置』で、パヴロフの条件反射理論に言及してその普及に貢献しました。パヴロフの主著『条件反射』はなかなか英訳されませんでしたが、1927年にようやく英訳されて紹介されました。しかし、その英訳の中で、条件反射を意味する"conditional reflex"が、間違って"conditioned reflex"と訳されてしまい、以後ずっとその間違った訳語が用いられ、そちらの方が英訳では正式な語となってしまいました。

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