フロイトによる精神分析の創設

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19世紀末から20世紀にかけてシグムンド・フロイト(Freud, 1856-1939)によって創始された『精神分析(psychoanalysis(英), Psychoanalyse(独))』は、精神医学領域にも及んだ20世紀心理学の革命的な潮流でした。ただ、フロイトが体系化した精神分析の中心的な概念の全てをフロイトが考案したわけではなく、その多くにはフロイトに先駆けてその概念について考えた先人たちがいました。その事について、エレンベルガー(Ellenberger)は、1970年の著書の中で次のように言っています。

『フロイトの功績として名前が刻まれているものの多くは、これまでにあちこちに蓄積されてきたものであり、彼の役割はこれらの考えをまとめあげて原型を与える事にあった。』

精神の世界が意識されているものだけで成り立っているのではなく、意識の外部(無意識的なもの)があることについては、ライプニッツ『微小知覚(petites perceptions/仏)』について言及していたり、ヘルバルト『意識閾』の概念を提唱したりしています。ヘルバルトは、意識の閾値に到達しなかった思考や感情は無意識の領域にとどまると考え、“抑圧”という用語も使用しています。ヘルムホルツは、無意識的推論について述べて、エネルギー保存の法則を提唱しました。

フロイトは、そのヘルムホルツのエネルギー保存の法則や暗示療法の始祖として有名なフランツ・アントン・メスメル動物磁気説の影響を受けて、リビドー(心的エネルギー)がその場限りで消滅するのではなく、欲求や願望が満たされない場合には、消滅せずに色いろな症状やイメージ、夢として形を変えるという『リビドーの経済論的な考え』を示しました。

1869年には哲学者ハルトマンの『無意識の哲学』という著書が出ているように、“無意識”という概念そのものは一般に認知されつつありました。また、分かりやすい比喩としてよく用いられる氷山を用いた意識と無意識の比喩はフェヒナーによって初めて用いられました。

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フロイトは、1856年に誕生し、1873年にウィーン大学医学部に入学して、ブリュッケ教授の生理学教室で医学を学びました。しかし、ウィーン大学在学中には、ブレンターノの影響もあって医学以外にも哲学や歴史学、神話学など広範な分野に強い好奇心と意欲を示して、その為、医学の勉強がやや疎かになることもあったようです。結局、フロイトは、8年の歳月を費やしてウィーン大学医学部を卒業します。フロイトは、元々、大学に残って研究を続け教授職に就きたいという希望を持っていたようですが、ユダヤ人であった事から昇進などの面で差別的待遇を受け、教授となる事が非常に難しい状況でした。その為、フロイトは開業医となる決心を固めて大学を去ります。

1885年の秋からは、パリのサルペトリエール病院にフロイトは研修に行きます。そこで、多発性硬化症や筋萎縮性側索硬化症(シャルコー病)の研究などで多くの業績を残すと同時に、催眠療法の権威でもあったヒステリーの専門家・ジャン・マルタン・シャルコーに学びました。シャルコーは当時、ヒステリー治療法としての催眠療法を先進的に行っている医学者で高名な人物として知られていました。シャルコーに催眠療法を学んだフロイトは、ウィーンに帰ってヒステリー患者に催眠療法を試みてみましたが、催眠の効果には個人差があり、満足のいく結果が得られませんでした。

催眠療法の効果に十分納得できなかったフロイトは、シャルコーとは異なる催眠の概念を持った催眠療法学派であるナンシー学派を訪ねて、リエボーベルネームに催眠について更に学びました。ナンシー学派の催眠の概念によると、催眠は特別なヒステリー患者だけがかかるような病的状態ではなく、誰にでもある被暗示性を利用した変性意識状態なのです。フロイトは、催眠誘導によって意識水準が低下していると、今まで容易には思い出せなかった過去の抑圧された記憶や感情を思い出しやすくなったり、他者からの暗示を受け容れやすくなったりしている事を認識して、その後のヒステリー治療研究に役立てました。

精神分析的研究の始まりとなったのは、ブロイアーと共同作業で書いた『ヒステリー研究』(1895)の発刊によってです。『ヒステリー研究』では、有名な『O・アンナ嬢の症例』などについて触れていて、ヒステリーの原因は『抑圧された苦痛な記憶と感情、特に抑圧された性的な願望』にあるとフロイトは考えましたが、共著者のブロイアーはその意見をナンセンスだと言い、賛同しませんでした。

『ヒステリー研究』の中では、O・アンナ嬢が『煙突掃除・談話療法』と呼んだヒステリーの治療法について書かれています。その治療法は、“抑圧された性的願望や激しい感情、道徳観に背く考え”を言語化(言葉にする)ことで、病気を改善することが出来るという『カタルシス(除反応・浄化)療法』を意味していました。ヒステリーの原因を巡ってブロイアーと意見が対立したフロイトは、1896年の『ヒステリーの病因について』という論文の中でブロイアーの催眠を用いた分析を批判して、その論文中で初めて『精神分析』という言葉を用いました。

フロイトが、不確実で効果にばらつきのある催眠療法を捨てて、辿り着いた治療法は、心に思い浮かぶ事を何でも遠慮なく話してもらうという『自由連想法』と夢の無意識的な意味を分析することで抑圧されている願望を明らかにする『夢分析』でした。フロイトは、『夢の解釈(夢判断)』(1900)という著書の中で、夢は基本的に無意識的願望の充足であるが、刺激的な不快な願望が睡眠を妨げないようにする為に、『夢の仕事=象徴化・置き換え・圧縮など』を伴うとして、自己の夢を中心に夢の潜在的な内容を分析しています。

1914年頃までのフロイトは、意識の構造について『無意識・前意識・意識』の心的構造論を述べていましたが、後期のフロイトは、自我の機能的構造に着目して『超自我・自我・エス』の自我構造論のモデルを打ちたて、自我防衛機制(ego defense mechanisms)の働きを考えて、力動的な自我論を展開しました。それと関連した後期フロイトの代表的論文として『自我とエス』(1923)があります。

1909年にフロイトはクラーク大学のホールから招待を受けて、他の精神分析学者と一緒にアメリカへ講演旅行に赴きました。その時は、クラーク大学の開学20周年記念を兼ねていた事もあり、ウィリアム・ジェームズ、J.M.キャッテル、シュテルン、精神科医のA.マイヤーなど有名な学者がクラーク大学に集まっていました。フロイトは5回の講演をして、ユングやフェレンツィもそれぞれ招待講演をしました。この時のクラーク大学へのホールの招待によって、アメリカの心理学に精神分析が正式に導入されたと言えるでしょう。

1933年、ドイツで反ユダヤであるヒットラーのナチスが政権を掌握すると、ユダヤ人のフロイトの著作は禁書となってドイツ国内で発見されると焼却処分されるようになりました。1938年には、フロイトのいたオーストリアもナチスドイツに軍事的に併合されました。身の危険を感じたフロイトは、マリー・ボナパルト、ジョーンズなど周囲の援助もあって、家族でオーストリアを脱出し、パリを経由してイギリスのロンドンに亡命しました。

しかし、1920年頃から既に顎部の悪性腫瘍(ガン)に冒されていたフロイトは、亡命した翌年の1939年にロンドンで安楽死により死去しました。フロイトの末娘アンナ・フロイトは、自分自身も優れた精神分析家で、父親の死を看取ってから後、精力的な自我と防衛機制、児童分析を中心にした精神分析の研究を行い、亡くなるまでロンドンの家に住み続けました。また、フロイトが親交を深めた弟子達の多くは、フロイトから離反していきましたが、その中でもアドラーとユングはそれぞれ独自の心理学(個人心理学と分析心理学)を確立していきました。

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