ゲシュタルト心理学

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グラーツ学派

ブレンターノから教えを受けたオーストリアのグラーツ大学の哲学教授マイノングは、知覚現象をその構成要素に分解するだけでは理解できないとして、全体的に把握しなければならないと主張しました。その全体的性質を“総体”と呼び、総体は意識から生み出されると考えました。マイノングの弟子のエーレンフェルスは、メロディーは各構成音の単なる集まりではなく、全体的性質によって意味のあるメロディーになると考えました。エーレンフェルスは、ブレンターノの影響で心の作用を研究の対象としていましたが、作曲家ブルックナーの下で音楽を学んだことがあったので、メロディーの研究に興味をもち、1890年に『ゲシュタルト質について』という論文を発表しています。

エーレンフェルスは、『我々はゲシュタルト質によって、それはそれで互いに分離可能な要素から成り、意識の中で現前している表象の複合体に、結合している積極的な意識内容を考えているのである』(Ehrenfels, 1890)という文章を書いて、実際に知覚されるバラバラの音の構成要素と、まとまりあるメロディーの中にある音とに異なる価値を与えているのです。エーレンフェルスは、初めゲシュタルト質を知るためには、意識が生み出す作用の関与が必要であると考えましたが、後年はベルリン学派に同調し、ゲシュタルト質の把握は、実際の感覚データから切り離せないという方向に変わりました。

グラーツ学派には、その他にベヌッシやバランス理論(帰属理論)で有名なハイダーがいます。ハイダーは、マイノングに学んで学位を取得し、ハンブルグ大学からナチスの弾圧によってアメリカへ亡命しました。そこで、独自の対人認知理論であるバランス理論(帰属理論)を提唱することになりました。バランス理論というのは、自分が初めから良い認知をしている人の行動は良いように評価し、初めから悪い認知をしている人の行動は悪いように評価するというようにして、対人認知のバランスを取っているという事を表す理論です。

ベルリン学派(フランクフルト・ベルリン学派)

初めにプラハ大学で法学を学び、卒業後にベルリン大学とヴュルツブルグ大学で心理学研究を始めたヴェルトハイマーは、ワトソンの行動主義宣言の前年に、運動の知覚に関する画期的論文『運動視に関する実験的研究』(Wertheimer, 1912)を書きました。ヴェルトハイマーは、プラハ大学でエーレンフェルスの講義を受け、ベルリン大学ではシュトゥンプから教えを受けました。

1912年の記念碑的論文『運動視に関する実験的研究』の冒頭は以下の通りです。この論文の着想は、ウィーンからライン地方に向かって列車に乗っている時に得たとされ、フランクフルトで途中下車して子供用のストロボスコープを買ってホテルで実験を行ったとされています。

『人はある運動を、ある物体が1つの場所から他の場所へと動くのを見る。物理的状況を記述すると、この物体は時点“Z1”において“L1”の場所(地点“O1”)に、時点“Zn”のときに“Ln”の場所(地点“On”)にあって、“Z1”と“Zn”の間の時間にこの物体は時間連続的および空間連続的に“L1”と“Ln”の中間の場所にあり、そこを通って“Ln”に達する。人にはその運動が見えるのだ。その物体が、前は他のところにあって、それが動いてしまったことを知っているに過ぎないというのではない(動いたことが分かるという事では、ゆっくり動く時計の針に似ている)。そうではなくて、この運動を見たのである。このとき心理的には、何が起こっているのだろうか。』

コフカは、ベルリン大学のシュトゥンプの下で学位を取得してから、ヴュルツブルグ大学とフランクフルト大学の助手になりました。ケーラーもベルリン大学のシュトゥンプの下で学位を取って、フランクフルト大学で教える事になりました。ヴェルトハイマーは、当時フランクフルト大学の助手であったケーラーとコフカ、コフカ夫人の3人を被験者として実験を行い、細い線と太い線を使って線が拡張するように見えたり、水平な線と45度の斜線を連続して提示すると線が角運動するように見えたりしましたが、いずれも実際に物理的には存在しない動きが見えるのでこれを『仮現運動』あるいは『φ(ファイ)現象』といいました。

1895年にリュミエール兄弟が、シネマトグラフを発明していて、映画はゲシュタルト心理学とは独立に発展しているのですが、この仮現運動は映画の原理ともなるものです。ヴェルトハイマーは、真ん中の刺激が、左右に同時に分かれる刺激図形を用いて、眼球運動が仮現運動の必要条件ではないことを実証しました。また、ゲシュタルト質が知覚の感覚データによって与えられるのではなく、最初から感覚の中にゲシュタルトが組み込まれていると考えていました。

ゲシュタルトは、ドイツ語で“形態”を意味しますが、コフカはゲシュタルトとは体制化の事であると1935年に述べています。ヴェルトハイマーは、人間には、刺激を単純で明快な方向へと知覚しようとする傾向があるといい、この傾向を『プレグナンツの法則』と呼びました。

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ケーラーのチンパンジーの実験

ゲシュタルト心理学は、知覚の要素主義的解釈に対抗するだけではなく、経験主義的で連合主義的な学習理論に対しても異を唱えました。ケーラーは、1913年からアフリカの北西に位置するカナリア諸島のテネリフェ島に派遣され、そこに作られた類人猿研究所でチンパンジーを用いた実験を行っていました。

その実験の中でチンパンジーがそれまで試行錯誤していない全く新しい方法で、天井から吊り下がったバナナを取る事を観察して、試行錯誤学習に対して『洞察学習』と呼びました。この研究は、『類人猿の知能検査』(1917/1921)にまとめられ、広く知られるところとなりました。

ケーラーは、現象としてのプレグナンツの法則などの背景には、それと類似した脳の中枢過程があると考えましたが、これは『心理物理同型説(psychophysical isomorphism)』と呼ばれています。ある空間的構造がそう体験され知覚されるのは、脳内の基盤となる過程が機能的に対応しているからであるとケーラーは考えたのです。 しかし、ケーラーの考えた脳のモデルは現在とは大きく異なり、物理場を応用したシンプルなものでした。

レヴィンとトポロギー心理学

レヴィンは、体験を通じて構造化される空間というものに興味を持ち、それを後に『生活空間』と呼びました。物理学から場理論の考え方を導入し、境界、障壁、通路などの概念を使って、人間の行動を表そうとしましたが、ケーラーの心理物理的な場理論とは対照的に、レヴィンは純粋に心理的な場理論を考えており、『トポロギー心理学(Topologie Psychology:トポロジーとは位相幾何学のことです)』を提唱しました。

レヴィンはまたゲシュタルト心理学を人間の集団行動にも応用しました。集団内における個人の行動は、その集団のエネルギー場によって、即ち集団の持つ性質やどんな成員がいるのかなどによって影響を受けると考え、グループ・ダイナミクス(集団力学)を生み出しました。グループ・ダイナミクスは後に感受性訓練などに応用され、臨床的分野へと広がっていきました。また、アメリカに渡ってからのレヴィンは、政治的・社会的問題にも関心を寄せ、実践的方法としてアクション・リサーチを提唱し、社会心理学ほか多くの分野に影響を与えました。

ベルリン学派の主要な4人の心理学者は、いずれもアメリカで亡くなっています。コフカは1924年にアメリカのスミス大学の教授となり、亡くなるまでアメリカでゲシュタルト心理学の普及に努めました。特に、1935年に英語で発表された『ゲシュタルト心理学の原理』は網羅的なもので、ゲシュタルト心理学が知覚の理論にとどまらないことを広くアピールしました。1933年にドイツでナチスが政権を掌握すると、公務員法が改正され、ユダヤ人の学者は教壇から追放されることになりました。

当時、ドイツの心理学の教授は、全部で15人だったのですが、失職した5人の心理学者の中にはヴェルトハイマーも含まれており、1933年に彼は一家でニューヨークに移住しました。ケーラーは、ユダヤ人ではなく、ナチスに対する批判も行っていたものの、教授をしていたベルリン大学に対する政府の介入を嫌って1935年にアメリカに亡命しました。レヴィンは、1933年にはアメリカやアジアで講義を行う旅行に出ていましたが、日本を経由してロシアを旅行中にナチス政権のことを聞き、結局ドイツに戻る事なくアメリカへ亡命しました。

アメリカにおいてゲシュタルト心理学はドイツや日本ほど大きな潮流になりませんでした。その背景には、このような移住が半ば仕方なく行われ、ケーラー以外の3人の主唱者がいずれも比較的若くして亡くなってしまったこと、彼らが勤めた大学はいずれも比較的小規模なもので、ゲシュタルト心理学を盛んにさせるには至らなかったこと、英語という外国語では多くの概念がうまく表せなかったために曖昧なものと考えられたことなどが挙げられます。しかし、自らをゲシュタルト心理学者と呼ぶものが少ないからといって、アメリカ心理学に影響がなかったとは言えず、トルーマンがその後の認知心理学に与えた影響などを考慮すると、むしろゲシュタルト心理学がアメリカの主流な心理学の流れを変えたのだともいえそうです(Sokal, 1984)。

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