ヒューマニスティック心理学は、人間性心理学ともいわれ、1960年代に発展してきた分野です。ヒューマニスティック心理学を主唱したのは、マズローで、マズローはヒューマニスティック心理学を心理学領域の『第三勢力』として位置付けました。心理学の第一勢力とは『行動主義』のことであり、第二勢力とは『精神分析』のことで、その中にはヴェルトハイマー、コフカ、ケーラーらのゲシュタルト心理学は含まれていませんでした。
ゲシュタルト心理学は20世紀前半期における非常に重要な心理学派ですが、英語に不慣れな移民たちによってアメリカで研究された事もあって、アメリカにおいてはあまり勢力が拡大せず振るいませんでした。そういった背景もあり、マズローは主要な勢力として認知していなかったようです。ヒューマニスティック心理学が誕生した背景には、行動主義のような唯物論的価値観に根ざした科学的な心理学への抵抗といった時代精神がありました。つまり、人間の心を機械論的なシステムと見なしたり、自然法則の解明と同じ方法で実験や観察を通して心を理解するという事に反対する立場がヒューマニスティック(人間性)心理学であると言えます。
ヒューマニスティック心理学の精神分析に対する批判というのは、無意識の欲求の充足と不満による心的決定論に対する反対で、もっと意識の領域の内容を理解する為に心理学は研究を進めていかなければならないと主張しました。
人間に固有の存在様式とは何なのか、人間が生きる事の本質とは何なのかを探求する分野は、古くから哲学や心理学、倫理学の中にありました。しかし、20世紀に入って、二度の悲惨で苛酷な世界大戦を私達は経験し、更に深刻な『人間の本性』の問題に直面し、戦争の中で非人道的な虐殺や人間の理性や尊厳を否定するような殺戮によって人間の未来に対する絶望感や無力感を抱くに至りました。
そういった暗黒の歴史的過程を踏まえて、20世紀半ば頃から『実存主義(existentialism)』と称される個性的で主体的な人間独自の存在や人間性の本質について深く内省的に考察する哲学の流れがヨーロッパに生まれました。実存主義の萌芽は、神の死を宣告したニーチェにあり、キルケゴール、ハイデッガー、ヤスパース、サルトルといった哲学者たちが実存主義者としては著名です。
また、哲学的な実存主義を心理学や精神医学の分野に導入した人たちには、現存在分析のビンスワンガーやメダルト・ボス、ロゴセラピーのフランクル、実存心理学のメイなどがいます。実存主義的な心理学とヒューマニスティック心理学のもっとも顕著な類似点としては、一人一人に異なった個性や特質を認め、独自の存在であるとするところが挙げられます。つまり、両者とも人間を集団的に分類したり、共通した特徴を集めて幾つかのタイプに分けたりといったことはせずに、人間を集団やタイプから独立した個人とみなして、その唯一無二の存在としての個人だけに現れる個性や特質を理解しようとする点に特徴があります。
次に、実存主義的心理学とヒューマニスティック心理学の違いについて考えてみます。まず、ヒューマニスティック心理学には、人間は生まれながらに良い特性を持っているとする性善説を基盤にしているという特徴があります。ヒューマニスティック心理学的な性善説の内容の概略に触れると、人間には自然に心身の健康を回復する力や問題を解決する能力、更には道徳的な善を実現したりする能力が先天的にあるとするものです。人間は本来的に性善説的な存在であり、ありのままの自分らしい人生を生きようとする『自己実現の遂行』を目指す本性があるとヒューマニスティック心理学では考えるのです。こういった人間の本性を信頼する傾向は、自己実現を達成しようとする人の活動を支援する心理療法やカウンセリングの分野にも大きな影響を与えました。
一方、実存主義では、人間の本性を善だとか悪だとか決め付けずに、人間の特性は中立的なものだという視点を持ちます。そういった生まれながらには人生や存在の意味及び価値は与えられていない、本性にも決まった方向はないという前提の中で、実存主義は人間の存在や心について深く考察をしていきます。実存主義の研究対象となるのは、『人間の生の意味』であり『人間の死の本質』でもあります。
ヒューマニスティック心理学の創始者ともいえるマズローの基本的人間観は、前述のように性善説的なものであり、人間への愛情と信頼に満ち溢れています。マズローは人間には誰でも、生得的なものとして『自己実現(self-actualization)』を目指そうとする内的傾向があると考えました。『自己実現』という言葉は、現代の人生のスローガンのように至るところで使用されていますが、元々は神経学者のゴルトシュタインが提唱した概念でした。マズローのいう自己実現とは、神経学者の述べる自己実現よりも限定的な意味として用いられたもので、『自分のなりえるものにならねばならないという人間固有の高次な欲求・自我を超えた高次の次元の目標や理想を実現しようとする志向的欲求』(Maslow, 1970)を意味しています。
自己実現を達成したと主観的にも客観的にもみなされる人たちを調査したところでは、現実性・受容性・自発性などの側面に共通した肯定的な特徴が見られました。マズローは、このような“自己実現的な人間”を“心理学的に健康な人たち”と認識して、心の異常や障害についての精神病理学とは反対の研究、即ち、心理学的に健康な人たちを研究するヒューマニスティック心理学を推進しなければならないと考えました。第三勢力としてのヒューマニスティック心理学を唱導したマズローには従来の心理学に対する深い懸念がありました。
今まで科学的な心理学として主流にあった第一勢力の行動主義では、人間を機械論的なシステムとして捉えすぎる傾向があり、人間と他の動物を区別せずに比較心理学的な研究姿勢を持っている事で、人間独自の心理機能や特性が軽視され、人間固有の存在様式(実存)が見落とされてしまうという点にマズローは反対していました。精神医学にも大きな影響を与えた心理学の第二勢力・精神分析では、その創始者が神経科医のフロイトであったこともあり、神経症や精神の発達障害など人間の病的で異常な側面ばかりが研究対象となってしまいました。精神分析は、正常で健康な人間の精神や発達には全く関心を払ってこなかったという点が偏り過ぎていて問題だとマズローは憂慮しました。
マズローの目指すヒューマニスティック心理学とは、機械論的な自然法則に従う人間の行動を研究して行動を予測・制御するものでもなく、精神の疾患や障害を研究して治療を目指す精神医学的な心理学でもありません。マズローは、社会で生活する大部分の心理学的に健康な人たちに適用できる、自己実現の本性を持つ人間の心の個性や特質を研究しようとしたのです。
また、従来の心理学では、行動の原因としての動機(動因)を空腹、異性への性衝動、外敵に対する自己防衛など特定の欲求を受動的に満たすような『欠乏動機(deficiency motivation)』に重点を置いてきましたが、マズローはそれだけで人間の行動の動機は説明できないとして自発的な成長や充実を目指す能動的な欲求を想定して『存在動機(being motivation)』と呼びました。
存在動機となりえる欲求とは、『生理的本能的欲求・安全安定の欲求といった低次の欲求』ではない『社会や組織への帰属欲求・他者からの承認欲求・自己実現欲求といった高次の価値志向的な欲求』で、マズローはそういった高次の欲求に基づく存在動機の研究に強い興味を持ち、意欲的に研究を推し進めました(Maslow, 1962)。上記のような欲求をその特徴によって幾つかの段階に分けるマズローの『欲求階層説』は、現在では非常によく知られています。
ヒューマニスティック心理学を提唱したマズローは、元々、行動主義の強い影響の下で動物行動学のような研究をしていましたが、カウンセリング分野の創始者といえるカール・ロジャーズは臨床心理学の見地からヒューマニスティック心理学を築こうとしました。ロジャーズは最初の頃は、農学や神学といった分野を研究していましたが、1930年代の精神分析が隆盛を誇っている時代に心理療法を学び、不適応的な行動や心理の問題を持つ児童の心理臨床場面を多く経験しました。ロジャーズはそういった臨床経験を通じて、精神の病気ではない心理的な悩みや問題を抱える“普通の人々”に施す心理療法についての洞察を得ました。
ロジャーズは、1942年に『カウンセリングと心理療法』を著して、それまで心理療法を受ける被治療者の呼び方であった“患者(patient)”を“クライエント(client)”と呼び変えて、精神医学の対象である病気の人たちとカウンセリングの対象である心の悩みの相談者たちを区別することにしました。更にそれまでのカウンセリング的療法の名称であった『非指示的カウンセリング』を『クライエント中心療法』という名前で呼ぶようになり、クライエントの持つ自然回復力や自己実現傾向を強調するようになりました(Rogers, 1951)。ロジャーズは、心理的な問題を解決する為に健康なパーソナリティを促進する1つの方法として、『無条件の肯定的配慮』というものを考えました。
心理学における第三勢力を精力的に目指したヒューマニスティック心理学は、1960年代に開花して、1970年代に普及段階に入りましたが、現在ではそれほど有力な心理学の流れではありません。心理学のテキストにでてくるヒューマニスティック心理学の内容といえば、前述したマズローの欲求階層説やロジャーズのクライエント中心療法とカウンセリングくらいで、それ以外の理論・学説や研究者についてはほとんど一般に知られていません。
ロジャーズ自身もヒューマニスティック心理学が主流の心理学には大きな影響を与えられなかったと自覚しています。ヒューマニスティック心理学が振るわなかった理由として考えられるのは、マズローたちが出現した1960年代~1970年代という時期が、心理学の分野が多様化し細分化する時期で、彼らが取って代わろうとした第一勢力の行動主義(特に徹底的行動主義)、第二勢力の精神分析ともにそれほど主流で強力な勢力を誇っていたわけではないという事が考えられます。
マズローは、第三勢力としてのヒューマニスティック心理学の隆盛は必然的な運命であると考え、やがてそれらを乗り越える第四勢力としてのトランスパーソナル(transpersonal)心理学が誕生するとまで考えていました。しかし、ヒューマニスティック心理学は第三勢力とはなりきれず、人間や個人を超えた普遍的な精神内容を研究するトランスパーソナル心理学は、その範囲が超越的で心理学から外れる部分もあり、オカルティズムに近接する面もあるのでアメリカ心理学会の中において正式な分野・部門としては認められるに至っていません。ただ、人間個人の生きる意味や人それぞれの人生の価値を個別的に真摯に探求しようとするヒューマニスティック心理学の精神は、臨床心理学やカウンセリングの分野に、今なお根強く息づいているといえます。