このウェブページでは、『無視症候群(neglect syndrome):神経心理学的な脳機能障害』の用語解説をしています。
無視症候群とはどんな疾患か?
無視症候群の症状形成機序(病態のメカニズム)
無視症候群(neglect syndrome)とは、右半球損傷あるいは左半球損傷によって起こる脳機能障害であり、損傷が生じた半球とは反対側の『空間・身体感覚』に対して事象・事物の存在を認識できなくなる(認識できずに無視してしまう)という神経心理学的な疾患である。
右半球損傷なら左側、左半球損傷なら右側というように損傷のある脳半球とは反対側の『空間・身体感覚』に関して、『知覚・認知・運動・行為の障害(反対側の事象・存在を無視してしまう障害)』が起こってくるが、本人には自分の知覚や行為がおかしいという病識はなく混乱することもある。
もっとも代表的な無視症候群は、外部空間の片側(一側)だけを知覚・認識できなくなるという『一側性空間無視(unilateral spatial neglect)』である。右半球損傷による一側性空間無視では、紙に書かれている文章の左側半分だけが認識できず読めない、数式の左側半分だけが認識できないので筆算ができないというような症状が起こる。
街の道路を歩いていても左側半分の一側だけを認識できないので、自分の左側を歩いてくる通行人とぶつかったり、左側半分から走ってくる車が知覚できなかったりするので危険である。左側の身体感覚にも無視の症状が起こっている時には、洋服の左の袖を通さなかったり、自分の顔の左半分のヒゲだけを剃り残したり、自分の左半分の身体をお風呂で洗わなかったりといった俄には信じられないような症状が見られることもある。
こういった半側無視とも呼ばれる一側性空間無視は、明らかに異常な症状・不便な事態であるにも関わらず、本人には自分が左側半分の空間や身体感覚を無視してしまっているという自覚がなく病識が持ちづらいという特徴がある。こういった病識の欠如を精神科医のM.J.バビンスキーは『病態失認(anosognosia)』と呼んだが、病気について説明されてもその事実を強く否定する状態のことを『疾病否認(denial of illness)』ということもある。
聴覚機能においても『左側(右側)の耳』に入ってくる音声が殆ど聞こえないといった症状が出ることもあり、過去に記憶した脳内のイメージにおいても左右どちらかの半分が無視されていることがある。『左右どちらかの半分の無視』だけではなくて『上下どちらかの半分の無視』の症状が発症することもあり、こういった上下空間の無視症状を『水平性無視(altitudinal neglect)』と呼んでいる。
一側性空間無視(unilateral spatial neglect)であるか否かを確認するための医学的検査としては、複数の記号・線分・文字を紙一面に書き込んだ用紙を見せて、その全てにチェック(印)をつけさせる『末梢テスト』、いろいろな長さの線分の真ん中に中点を記入させる『線分二等分テスト』などが良く用いられる。
その患者(クライエント)が一側性空間無視であれば、末梢テストで左半分にある記号や線分にチェックを入れることはなく、線分二等分テストでは左右どちらかに大きく偏った場所に中点を記入することになるだろう。イラストや図形を描かせてみるような検査でも、『左側半分(右側半分)が欠落したイラスト・図形』を描いてしまうことになる。
無視症候群には『消去現象(extinction phenomenon)』と呼ばれる視覚・聴覚・体性感覚の異常現象が起こることもある。消去現象では左右どちらかの空間を完全に知覚できなくなるわけではなく、『左側の刺激』と『右側の刺激』の両方をそれぞれ別個に知覚することができるのだが、左右の刺激を同時に呈示されるとどちらか一方を知覚することができなくなる。左側の空間と右側の空間の『対称的な空間・場所』に同時に刺激を呈示されると、脳の損傷部位とは反対側の空間に呈示された刺激だけが消えてしまうのである。左右の刺激を時間をずらしてから別々に呈示すれば、どちらの刺激も知覚できるので、一側性空間無視と比較すれば症状・不便の程度は軽いと言えるだろう。
『運動無視(motor neglect)』も無視症候群の一種である。運動無視は損傷半球と反対側の『手・腕・脚(上下肢)』の自発的・意識的な運動が見られなくなる症状であり、手・腕・脚には運動障害や麻痺が残っていないのに、自然と動かすことが殆ど無くなってしまうのである。運動無視の患者(クライエント)は、歩行する時に左手(右手)だけを全く振らなかったり、拍手をする時に左手(右手)を動かさないか僅かに動かすだけだったりする。
両手を握らせて胸の前でぐるぐると回転させるように指示しても、片方のどちらかの手はずっと止まったままで、その止まった手の周りをもう一方の手だけがぐるぐると回るような形となる。非常に強く繰り返し動かすように指示すれば、健常者と同等に両手を使った運動が普通にできるようになる。そのため、『神経学的な運動障害・手足の麻痺』があるというわけではなく、脳損傷によって自分の片側の体性感覚が無視されやすくなっているのである。この運動無視は、一側性空間無視と合併して出現することも多い。
無視症候群の症状形成機序(病態のメカニズム)を説明する理論としては、『注意障害説・運動障害説・表象障害説』の3つが知られているが、片側の空間や知覚、運動、体性感覚の無視が発生するメカニズムについて完全に解明されているわけではない。現状ではリハビリテーションによる僅かな改善以上のレベルで、無視症候群を医学的に治療することもできない。
『注意障害説』では、左右の脳半球の注意メカニズムが対称的(同質的)ではないということが前提であり、左半球の注意メカニズムは右半側空間に対する注意だけを司っているが、右半球の注意メカニズムは左右両方の空間に対する注意を司っているとした。そのため、左半球損傷が起こっても右半球の左右両方に適用される注意メカニズムで補償できるので『無視症候群』は発症しにくいが、右半球損傷が起こると右側空間だけを担当する左半球では補償できず『無視症候群』が起こりやすくなるのである。
M.M.メズラムの『皮質回路モデル』は、脳の機能局在説を前提としたものであり、頭頂葉下部皮質は外界の感覚表象を司り、前頭眼野には外部空間探索の運動を方向づける地図があり、帯状回は外部空間に対する期待・意味づけを司っているとした。メズラムはこの3つの脳内器官は相互に密接に連絡しており、視覚(網様体賦活系)とも関係するこの皮質回路モデルのどこに損傷が起こっても、『無視症候群』の無視症状が発症する恐れがあるとした。
『運動障害説』では、無視症候群の原因を『視知覚の異常を起こす脳機能障害』に求めるのではなく、『無視している空間に向かって適切に動かせない単純な手・脚の運動機能障害』に求めている。上記した無視症候群の検査である『線分二等分テスト』では、線分の左端(右端)を視覚で認識できている人でも、『正しい中点(真ん中の点)』を記述できないというケースが少なからずあり、その原因として視知覚異常ではない運動障害の可能性が疑われたのである。
『表象障害説』というのは、過去に記憶した風景・事物・建物などのイメージの『左半分(右半分)』だけが欠落してしまう無視症状を説明する仮説であり、外部空間についての蓄積された表象(イメージ)が局在するとされる『頭頂葉後部皮質』が損傷することによって『記憶したイメージの一側性無視』が起こるのだとした。現時点の脳科学では、心の中に思い浮かべることができる表象(イメージ)が、脳内の頭頂葉後部皮質だけに局在的に格納されているという直接の根拠はないが、この部分が損傷すると『イメージに関する半側無視(左右どちらかの無視)』が起こりやすくなるのは確かである。
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