このウェブページでは、『元良勇次郎・松本亦太郎・福来友吉』の用語解説をしています。
日本最初の心理学者・元良勇次郎
元良の弟子の松本亦太郎・福来友吉
幕末から明治初期にかけて日本の学問の世界は、『漢学』から『洋学』へと急速な近代化・西欧化を遂げていくが、その過程でヨーロッパ社会の学問で用いられていた用語を日本語に翻訳・造語していったのが西周(にしあまね,1829-1897)である。
西周は明治時代に広範多岐にわたる西欧の先進的な学問の世界を、日本に紹介した啓蒙思想家・教育者・官僚であり、日本では特に『哲学・希哲学(philosophy)』という言葉を造語した人物として知られている。西周は表意文字である『漢字の熟語』を造語することで、西欧の学問の諸分野を日本人に分かりやすく紹介しようとした功労者であり、現在では普通の言葉として用いられている『科学・芸術・理性・技術』などの言葉も西周が翻訳語として考案したものである。
文久2年(1862年)、幕命を受けた西周は津田真道・榎本武揚らと一緒にオランダへの留学を果たし、その地で法学・カント哲学・経済学・国際法などの基礎を習得したが、これが明治期に博識な碩学となる西周の『近代的学術にまつわる啓蒙・知識』の出発点になっている。
啓蒙思想家としてさまざまな西欧諸学の知識・概念・価値を紹介した西周は、“philosophy”を訳して『哲学(希哲学)』という言葉を造っただけではなく、“mental philosophy, psychology”を翻訳して日本で初めて『心理学』という言葉を用いた。
日本で最初に『心理学』という言葉が用いられた本は、西周がJ.ヘヴン(1816-1874)の『Mental Philosophy』を翻訳した『奚般氏(ヘヴン氏)著心理学』(1875年,明治8年)であり、それ以降、人間の心理や行動を解明しようとする学問であるpsychologyのことも心理学と翻訳するようになっていった。
1877年(明治10年)に、東京帝国大学(現東京大学)や師範学校(現筑波大学)に『心理学』の科目の講義が開設されたが、この段階では日本人による心理学の研究は行われておらず、西欧諸国の心理学研究の成果や著名な心理学者・精神分析家を紹介するというガイダンスの形の講義であった。
日本に実験法を用いた科学的心理学(=実験心理学)を導入したのは、東京帝国大学文科の教授となった元良勇次郎(もとらゆうじろう,1858-1912)である。西周が『心理学という言葉の創設者』とすれば、元良勇次郎は『日本最初の心理学者』であり、科学的心理学の基本的な方法論である『実験法(調査法・観察法)』を導入して、実際の心理学研究による理論の確立を目指した。
元良は1883年(明治16)にアメリカに渡って、ボストン大学とジョンズ・ホプキンス大学で哲学・心理学などを学び、ジョンズ・ホプキンス大学で明治21年(1888年)にPh.D.(学術博士号)を取得している。元良は日本人として初めて、ジョン・デューイ(1859-1952)やG.S.ホール(1844-1924)の元で学んで、近代的な哲学・心理学を研究する方法論・技術論の先駆けとなった。
元良勇次郎は、実験心理学の祖であるヴィルヘルム・ヴントの教えを受けたG・スタンレー・ホールの元で心理学を学び、在米中の1887年にはホールと連名で『アメリカ心理学雑誌』に触覚・知覚に関する生理心理学的な論文を発表している。翌1888年に日本に帰国した元良は、心理学の指導的な研究者となるが、できたばかりの帝国大学では精神物理学の講義を精力的に行い、『精神物理学』という論文も書いている。
1890年に帝国大学教授に就任した元良は、『心理学概論』という当時の先端的な実験心理学の本を書き、更に精神的エネルギーが物理的エネルギーとの間で交互作用するという独自の『心元説』を提起した。
元良勇次郎は精神物理学を基盤として総合的な心理学を構想しようとしたが、元良の心理学は『フェヒナーの精神物理学,オストワルドのエネルギー一元論(物心一元論),ヴィルヘルム・ヴントの実験心理学,ジョン・デューイとウィリアム・ジェームズのプラグマティズム,スタンレー・ホールのジェネティック心理学』などに広範な影響を受けていた。知的障害(当時の精神遅滞・精神薄弱)を持つ児童の知能や発達を促進させるための心理臨床的なアプローチにも関心を持ち、児童の精神機能の注意力・集中力を高めるための『注意訓練法』を開発・実践したりもした。
松本亦太郎(まつもとまたたろう,1865-1943)は元良勇次郎の教えを受けた近代日本の初期の心理学者であり、科学的心理学を学ぶためにライプツィヒ大学やイェール大学に留学した経験を持っている。
ドイツのライピツィヒ大学で松本は、実験心理学を創始したヴィルヘルム・ヴント(1832-1920)に師事したが、日本に帰国すると1906年に京都帝国大学教授に就任して『心理学講座』を新設した。京都市立絵画専門学校の校長の職も兼任していた。1913年になると、亡くなった元良勇次郎の後を継いで東京帝大教授に就任し、心理学・倫理学の講義を担当しながら、東京帝大にも京都帝大に続いて『心理学講座』を開設した。
松本亦太郎は1927年に『日本心理学会』を創設して初代会長に就任し、名実共に日本心理学会の創始者のような位置づけを占めるようになり、京都帝大・東京帝大で熱心な後進の指導に当たった。1903年(明治36年)に、日本で初めてとなる心理学実験室が建設され、翌1904年に東京帝国大学に心理学科(心理学専修)が創設されている。
東京帝大の心理学専修の学生たちは、心理学の社会的承認や制度化を求めて、学術誌『心理研究』を発刊したり知能研究(知能アセスメント)や社会適応の実利性を主張したりした。松本亦太郎は本場ドイツ仕込みの実験心理学の方法論と検証法を日本の心理学に持ち込んだ人物であり、日本における実験心理学・教育心理学の基礎作りに非常に大きな貢献をした。人間の知能がどのように規定されるのか、知能の高低を制御する方法はあるのかといった『知能研究』の分野にも関心を示していた。
松本亦太郎と並ぶ元良勇次郎の弟子として知られる福来友吉(ふくらいともきち,)は、精神物理学・実験心理学などの科学的心理学とは異なる『超心理学(超能力研究)』の分野で存在感を示した心理学者である。
1899年(明治32年)に東京帝国大学の哲学科を卒業した福来友吉は、東京帝大の大学院で『変態心理学(催眠心理学)・臨床心理学』といった当時の先端的な応用心理学の研究に当たり、1906年(明治39年)に『催眠術の心理学的研究』の論文で文学博士号を取得している。1908年(明治41年)には東京帝国大学助教授に就任したが、1910年頃から『超能力者の発掘とその能力の検証』に精力的に取り組むようになり、主流の科学的心理学の世界観や方法論から遠ざかり始めた。
日本における超能力研究の先駆者である福来友吉は、『透視・念写の発見者』ともされているが、1910年(明治43年)に『御船千鶴子・長尾郁子・高橋貞子・三田光一』といった各地で噂になっている超能力者を発掘して、透視・念写に関する超心理学的な実験とその学会発表を行った。目に見えない能力や作用があるとする福来の『千里眼事件(1909-1911年)』に代表される超心理学研究は、大衆の興味関心を強く引き付けたが、他の心理学者の追試によって『超能力の実在』が疑われる結果となった。
それでも『透視・念写の仮説』を放棄しなかった福来友吉は、学会や心理学者から激しいバッシングを浴びるようになり、1913年(大正2年)に『透視と念写』の著作を出版すると東京帝国大学で休職を強いられて実質的に大学を追放される形になった。
いわゆる『千里眼事件』では、熊本生まれの御船千鶴子の『千里眼・透視治療』の能力を公開実験で検証しようとする研究が行われたが、科学的に統制された条件ではその千里眼(透視)の能力を確認することができず、明治44年(1911年)1月19日に熊本に帰った千鶴子が自殺するというショッキングな結末を迎えた。
長尾郁子の透視能力に対する実験もさまざまな実験の妨害・不正の疑惑に晒されてしまい、結局、科学的研究において超能力である透視・念写の能力の存在が証明されることは無かったのである。福来友吉は1915年(大正4年)に東京帝国大学を退職せざるを得なくなった。だが、催眠心理学やオカルト心理学だけではなく『臨床心理学』の研究・教育にも力を入れていた福来が退職したことで、日本の臨床心理学の研究は停滞することになったと言われる。
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