『史記 李斯列伝 第二十七』の現代語訳:4

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 李斯列伝 第二十七』の4について現代語訳を紹介する。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 李斯列伝 第二十七』のエピソードの現代語訳:4]

法令・誅罰は日毎(ひごと)にますます深刻になり、群臣はみな自分の身に危険を感じて、謀反しようとする者が多くなった。また二世皇帝は阿房宮(あぼうきゅう)を造営して、直道や(皇帝専用の)高速道を作ったので、租税がいよいよ重くなり、辺境守備の徴発や夫役(労役)は終わることがなかった。こうして、楚の守備兵の陳勝・呉広(ちんしょう・ごこう)らが反乱を起こして、山東に蜂起し、豪傑や英俊の士が並び立って、自ら侯・王と称して秦に叛いた(そむいた)。その反乱軍は鴻門(こうもん)にまで至って退けられるような状態になった。

李斯はしばしば二世皇帝の暇を見つけて諌めようとしたが、二世皇帝は許さず、逆に李斯を責めて言った。「朕には自分の意見があり、韓非子(かんぴし)に聞くところによると、『堯が天下を保有した時、堂の高さは三尺、垂木(たるき)は伐採したままで削らず、屋根は茅葺きで端を切り揃えず、旅宿でさえもこれほど粗末でなかったと言われる。冬には鹿の裘(かわごろも)、夏には葛の衣を着て、稷(きび)・粟(あわ)の飯、藜(あかざ)・まめのはの汁の粗末な食事、それを土製の飯器で食べ、土製の汁器で啜り、門番の生活でさえこれより質素ではなかった。禹(う)は龍門山(河南省)をうがち、大夏(たいか,河の名前)を通じ、九河を疎通し、九曲の堤防をつくり、停滞した水流を切り開いて海に流れを放った。そのために股には小毛がなくなり、脛には毛がなくなり、手足は胼胝(たこ)ができ、顔は黒々と日焼けし、遂には外の出先で死んで会稽山(かいけいざん)に葬られた。奴隷の労苦も禹の労働より烈しいものではなかった』という。

そうだとすると、天下を保有することが貴いのは、身体を痛めつけ精神を疲れさせ、旅宿に身を置いて、門番の食事を口にし、わが手で奴隷の労働をしたいと思うことにあるのだろうか?これらは不肖の愚者の勉めるところであって、賢者の務めるところではない。賢人が天下を保有する場合には、天下を自分に都合の良い適したものにしてしまうのだ。これこそが天下を保有することが貴い所以(ゆえん)である。いわゆる賢人は、必ず天下を安んじて万民を治めることができる。しかし、一身の利益さえ図ることができずに、どうして天下を治めることなどできるだろうか?だから朕は志をほしいままにし、欲を広めて、長く天下を享受し害が無いことを願うのである。どうすればそうできるだろうか?」

李斯の子の李由(りゆう)は三川郡(さんせんぐん)の太守であったが、群盗の呉広らが西に向かって三川郡を攻略した時、それを禁圧することができず、章邯(しょうかん,秦の将軍)が呉広らの軍を逐い(おい)はらった。(罪状を問う)使者が次々に三川郡に往来して、李斯を責め立て言った。「李斯は三公の位にありながら、どうして群盗をここまでのさばらせたのか(群盗に対して何もすることができないのか)。」 李斯は恐懼して、ただ爵禄を守ろうとするばかりで、どうすれば良いか分からなかった。そこで二世皇帝に阿って(おもねって)、許しを求めようとし、(二世皇帝の利己的・快楽的な統治の欲望に対して)返書を出して言った。

「そもそも賢明な君主は、必ずよく道を全うして、督責の術(臣下を監督して罪を犯せば法律で相当の罰を与える術)を行おうとする者であります。そうすれば臣下は能力の限りを尽くして、君主に従わざるを得ません。臣下と君主の分が定まり、上下の義が明らかであれば、天下の賢者も力の限り職務に尽くして、君主に従わない者はないでしょう。だから君主は独り天下を制して他から制せられることはないのです。君主は楽しみ(享楽)の究極を窮めることができるわけですが、賢明な君主はこの道理を察することができるのです。

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申不害(しんふがい)が『天下を保有しながら思うままに振る舞わない者は、天下を桎梏(しっこく=枷・かせ)としている』と言っているのは、他でもありません。督責(とくせき=法に従って監督して賞罰を与える)ができなくて、かえって自分の骨身を削って天下の民のために労苦した堯・禹のごとき者にとっては、天下は桎梏(束縛してくる枷)に過ぎないと言っているのです。申不害・韓非子(かんぴし)の賢明な術を修めて督責の道を行うことができず、それによって天下を自らに適した道具とすることができずに、いたずらに働いて身体を痛め精神を疲労させ、身をもって百姓(万民)に尽くすのでは、民に使役されるだけであり、天下を畜う(やしなう)者(=君主)ではないのです。どうしてそんな者を貴ぶことができるでしょうか。

そもそも人を己に従わせれば、己は尊貴で人は卑賤(ひせん)、己を人に従わせれば己は卑賤で人は尊貴なのです。ですから、人に従う者は卑賤で、人が従ってくる者が尊貴なのです。昔から今に至るまで、この道理はいまだ変わることがないのです。昔、賢者を尊んだのは、それが尊貴だったからです。愚者を憎んだのは、それが卑賤だったからです。しかし堯・禹は身をもって天下の民に従ったわけで、天下の民に従ったということで堯・禹を尊べば、賢者を尊ぶ所以(理由)が失われてしまいます。これは大きな繆り(あやまり)なのです。堯・禹が天下を桎梏としたのは当然のことで、それは督責ができなかったという過ちなのです。

韓非子は『慈愛のある母には乱暴者の息子があり、厳格な家には主人に逆らう奴隷はいない』といいますが、どうしてなのでしょうか?主人の命令に従わなければ、必ず罰を与えるからです。商鞅(しょうおう,商君)の法では、灰を道路に捨てた者を刑罰に処しました。そもそも灰を捨てるのは微罪であり、刑を被るのは重罰であります。ただ明君だけが微罪を深刻に監督します。微罪の者でさえ深刻に察して罰するので、重罪の者であればなおさらのことです。だから民は敢えて法を犯さないのです。韓非子が『わずか一尋二尋(いちひろ・にひろ)の布帛(ふはく)が落ちていても、普通の人は釈ててはおかない(盗ってしまう)。鑠けて(とけて)熱い百溢(ひゃくいつ)の黄金があっても盗跖(とうせき,昔の大盗賊)はつかもうとしない。』と言っています。

これは普通の人がわずかな利益を重んじているとか、盗跖の欲望が浅いといかいう意味ではありませんし、また盗跖の行為を百溢の黄金を軽んじたと言っているのでもありません。つかめば必ず熱で手を火傷するから、盗跖は百溢の黄金を取らなかったのです。刑罰が必ずしも行われないのであれば、普通の人でもわずか一尋二尋の布を釈てて(すてて)おかないのです。だから城壁の高さがわずか五丈であっても、足の速い樓季(ろうき,魏の文侯の弟)は軽々しく犯そう(越えよう)とはせず、泰山の高さは百仞(ひゃくじん)であっても、足萎え(あしなえ)の羊飼いがその頂上で放畜するのです。そもそも樓季でさえ五丈の限界を難しいと感じるのに、羊飼いが百仞の高さを易しいと感じるのはどうしてでしょうか?ただ切り立っているのと、漸次に高くなるのとでは、その形勢が異なっているのです。

明君や聖王が久しく尊位に留まり、長く重厚な権勢を得て、独り天下の利をほしいままにするのは、特別な道があるわけではありません。独りで決断して審らか(つまびらか)に督責し、必ず深刻に罰を与えているのです。それ故に、天下は敢えて法を犯さないのです。今、人々が法を犯さないように務めずに、慈愛の深い母が子供をダメにするように務めるのは、聖人の道を察しないことなのです。そもそも聖人の術を行うことができないのであれば、それは聖人の術を廃して天下のために使役されるということであります。それは何とも哀れむべきことではありませんか。

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また節倹仁義の人が朝廷に立てば、気ままな楽しみはやむことでしょう。諫言(かんげん)して義理を論じる臣下が君主の側にいれば、放漫な言説は退けられるでしょう。節義のために行う烈士が世に顕彰されれば、淫奔な娯楽は廃れるでしょう。それ故、明君はこの三者を遠ざけて、独り君主の術を操り、聴従する臣下を制御して明法を修めるのです。だから、身は尊くて権勢は重いのです。およそ賢明な君主は、必ずよく世情にもとり俗習を減らし、憎む所を廃して欲する所を立てようとします。それ故、生まれた時には尊くて重い権勢があり、死没すれば賢明を示す諡(おくりな)を送られるのです。

そうして明君は専断の政治を行うので、臣下に権勢はありません。そうした後で、よく仁義の人の途(みち)を滅ぼし、弁舌家の口を掩い(おおい)、烈士の行いを困難にし、耳を塞いで人の言葉を聴かず、目を掩って人の所業を見ず、心の内で独り視て、独り聴くのです。そうすれば、外は仁義烈士の所業も君主の心を傾けることはできず、内は諫争(かんそう)の弁も君主の心を奪うことはできません。君主は独り超然として心のほしいままに振る舞うことができ、敢えてこれに逆らう者もありません。こうした後にはじめて、申不害・韓非子の術を明らかにし、商君(商鞅)の法を修めた者ということができます。

法が修まり術が明らかであるのに、天下が乱れたというのはいまだ聞いたことがありません。『王者の道は簡約で行いやすいが、ただ明君だけがこれを行うことができる』といいますが、これは督責の術の誠を言ったものなのです。督責が誠であれば、臣下に邪心はありません。臣下に邪心がなければ、天下は安泰であり、天下が安泰であれば君主は尊厳を保てます。君主が尊厳を保てば、督責は必ず行われます。督責が必ず行われれば、求める所は得られます。求める所が得られれば、国家は富みます。国家が富めば、君主は逸楽して豊かになれます。ですから、督責の術が実行されれば、欲する所のもので得られないものはありません。群臣や百姓(万民)は罪過を免れようとして暇がないので、どうして変事を図ることなどできましょうか?こうなれば、帝道は成り立ったということができ、君臣の術を明らかにすることができたといえます。申不害・韓非子が再び生まれてきたといえども、これ以上のことを加えることはできません。」

この書面が上奏されると、二世皇帝は悦んだ。こうして、督責を行うことますます厳しく、厳しく民から徴税した者が素晴らしい官吏(役人)だとされた。二世皇帝は言った。「このような官吏こそが、よく督責した者だと言える。」 通行人の半分は刑罰を受けたものであり、死者は日毎に市に堆積され、人を多く殺した官吏が忠臣だとされた。二世皇帝は言った。「このような官吏こそが、よく督責した者だと言える。」

初め趙高が郎中令(ろうちゅうれい)になった頃、殺したり私怨を報いたりした者が多かったので、大臣が朝廷に参内して事を奏する時、自分を誹謗するのではないかと恐れて、二世皇帝に説いて言った。「天子が貴い所以は、群臣はただお声を聞くだけで、お顔を見ることができないところにあります。だから天子は『朕(ちん,まだ現れていないきざし)』と号するのです。かつ陛下は年少で必ずしも諸事に通じてはおられません。今、朝廷に座られていて、臣下に対する譴責(けんせき)・挙用が不当であれば、大臣に短所を見せてしまうことになってしまいます。これは陛下の神明の徳を天下に示すことではございません。ですから、陛下は暫く禁裏の中で手をこまねいてゆったりとされてください。私と法に習熟した侍中(じちゅう)とで奏事を待って、奏事が来ればこちらで対処することに致します。これで大臣は敢えて疑わしい事を奏上しようとせず、天下は陛下を聖主と称えるでしょう。」

二世皇帝はこの計画を取り上げて、朝廷に坐して大臣を謁見することをやめ、禁裏の中に居るようになった(皇帝が政治の聴政を担わなくなった)。趙高は常に宮中にあって皇帝に侍り政事を処理したので、政事はすべて趙高が決定するところとなった。

趙高は李斯が言上しようとしていると聞くと、丞相に会って言った。「函谷関(かんこくかん)の東に群盗が多いが、今、陛下は夫役(労役)を増発して阿房宮を造営し、犬や馬など無用のものを集めております。私は諌めたいのですが、位が低いためにできません。このような問題は、君侯がなされる事です。あなたはなぜお諌めにならないのですか?」 李斯は言った。「当然のことではある。私は長らく申し上げたいと思っていた。しかし今、陛下は朝廷に出御されず、いつも宮中の奥におられる。私が言いたくても、それができないのである。お会いしたいのだがその機会がないのだ。」 趙高は言った。「あなたが本当にお諌めになられるならば、あなたぼ為に陛下の暇を見つけてお伝えしましょう。」 こうして趙高は二世皇帝が酒宴を開いて、婦女を前にして楽しんでいる時に、使いをやって丞相に告げさせた。

「陛下は今お時間があります。奏上することができます。」 丞相は宮門までやって来て謁見を請うた。こういった請願が三度続くと、二世皇帝は怒って言った。「私はいつも暇な日が多いのに、丞相はやって来ない。しかし酒宴を開いて楽しんでいると、丞相がその都度やってきて色々と請うてくる。丞相は私を年少の子供だと思っているのか?あるいは軽く見ているのか?」 趙高はこれに合わせて言った。「こういった状況は危険です。そもそも沙丘の謀議に、丞相も関係しています。今、陛下は既に皇帝として立っておられますが、丞相の地位はますます貴くなっているわけではありません。内心では領土を獲得して王になりたがっていることでしょう。また陛下がご下問になられないので、私も敢えて申し上げませんでしたが、丞相の長男・李由(りゆう)は三川郡の太守です。楚の盗賊の陳勝らはみな丞相の郷里の近県出身の輩で、そのために楚の盗賊は公然と横行し、三川郡を通過しても太守は城を守るばかりで攻撃しませんでした。私は太守と盗賊との間に文書が往来されたと聞いておりますが、まだ詳しくは存じませんので、敢えて陛下のお耳にはお聞かせしなかったのです。また丞相は朝廷の外にあっては、権勢は陛下よりも重いものとなっております。」

二世皇帝はその通りだと思った。丞相の罪を調べたいと思ったが、詳細には分からないのではないかと恐れて、人に命じて三川郡の太守が盗賊と通じていたかどうかを調べさせた。李斯はこのことを聞いた。

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