『平家物語』の原文・現代語訳34:治承元年五月五日の日~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『治承元年五月五日の日~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

座主流の事

治承元年五月五日の日、天台座主明雲大僧正、公請(くじょう)を停止(ちょうじ)せらるる上、蔵人を御使にて如意輪(にょいりん)の御本尊を召し返いて、護持僧(ごじそう)を改易せらる。即ち使聴(しちょう)の使を付けて、今度神輿(しんよ)内裏へ振り奉つし衆徒の張本を召されけり。加賀国に座主の御坊領あり、国司師高これを停廃(ちょうはい)の間、その宿意によつて、大衆を語らい訴訟を致さる、すでに朝家の御大事に及ぶべき由、西光法師父子が讒奏(ざんそう)によつて、法皇大きに逆鱗ありけり。

殊に重科(じゅうか)に行はるべしと聞ゆ。明雲は、院の御気色悪しかりければ、印ヤクを返し奉つて、座主を辞し申されけり。同じき十一日、鳥羽の院の七の宮、覚快法親王(かくかいほうしんのう)、天台座主にならせ給ふ。これは青蓮院の大僧正行玄(ぎょうげん)の御弟子なり。明くる十二日、先座主、所職を没収せらるる上、検非違使二人を付けて井に蓋をし、火に水をかけて、水火の責に行はるべき由聞ゆ。これによつて大衆なほ参洛すと聞えしかば、京中又騒ぎあへり。

同じき十八日、太政大臣以下の公卿十三人参内(さんだい)して陣の座に着き、先の座主罪科の事議定あり。八条の中納言長方の卿、その時は未だ左大弁の宰相にて、末座に候はれけるが、進み出でて申されけるは、「法家の勘状に任せて、死罪一等を減じて遠流(おんる)せらるべしとは見えて候へども、先座主明雲大僧正は、顕密兼学して、浄行持律(じょうぎょうじりつ)の上、大乗妙経を公家に授け奉り、菩薩浄戒を法皇に保たせ奉る御経の師・御戒の師。重科に行はれん事は、冥(みょう)の照覧量り難し。還俗遠流を宥めらるべきか」と、憚る処もなう申されたりければ、当座の公卿みな、「長方の議に同ず」と、申しあはれけれども、法皇御憤(おんいきどおり)深かりければ、なほ遠流に定めらる。太政の入道もこの事申さんとて、院参(いんざん)せられたりけれども、法皇御風(おんかぜ)の気(け)とて、御前へも召され給はねば、本意なげにて退出せらる。僧を罪する習ひとて、度縁を召し返し、還俗せさせ奉り、大納言の大輔(たいふ)藤井松枝(ふじいのまつえだ)という俗名をこそ付けられけれ。

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[現代語訳・意訳]

座主流の事

治承元年五月五日、天台座主の明雲大僧正が宮中で法会や講義を行える資格を剥奪された上、蔵人を遣わされて如意輪観音の護持役を返上させられて、天皇を護持する高僧の役割も奪われました。検非違使が遣わされて、今回、内裏に神輿を入れたり強訴を計画した張本人を差し出せという命令が明雲に下されました。加賀国に座主の坊領(私領)があり、国司の師高がこれを廃止したことを明雲が前から恨みに思っていて、延暦寺の大衆に語って強訴を起こしたという罪状です。これは朝家の一大事になるということで、西光法師父子からの讒奏を受けた法皇が激怒したのです。

そのため、今回は特別に重罪に処すべきという流れになったのだといいます。明雲は院のご機嫌が悪いので、天台座主の印鑑と宝物蔵の鍵となる印鑰(いんやく)を宮中に返還して、座主を辞任しました。五月十一日には、鳥羽上皇の第七皇子である覚快法親王が天台座主の地位に就かれました。この方は、青蓮院門跡の大僧正行玄の御弟子に当たる方でした。翌十二日に、明雲の役職や地位を剥奪した上、検非違使二人によって井戸に蓋がされて、かまどの火には水が掛けられて使えなくされる水火の刑が実施されると言われていました。これを聞いた山門の大衆が再び京都に上洛すると噂されたので、京中はまた大騒ぎになりました。

五月十八日に、太政大臣以下の十三人の公卿が参内して、公卿が列座するために準備された陣の座に座って、明雲の罪に対する懲罰について議論しました。その時に、八条中納言の藤原長方の卿が、当時はまだ左大弁の宰相の官位で末座に控えていたのですが、進み出てきて、「法律を専門とする方たちの判断で、死罪から一等を減じて流罪にするというのは分かりますが、前座主の明雲大僧正は顕教と密教を同時に学んだ碩学で、戒律もきちんと守っており、更に大乗妙経を公家に指導されていて、後白河法皇に対する菩薩浄戒の師、また御経・御戒の師でもあります。その明雲を重罪に処するということになると、諸仏・菩薩がどうお考えになるか分かりません。還俗と遠流の刑については、もう少し寛大な処置をなされたほうがいいのではないでしょうか」と申し上げた。

忌憚のない意見を述べられたので、その場にいた公卿たちは皆、「藤原長方の意見に同意する」とおっしゃられましたが、法皇の憤激が尋常ではないので、結局、流刑にすることに決まりました。太政大臣入道の清盛もこの事について減刑を申し上げようと、院御所に参内しましたが、法皇は風邪気味だと言うことで、御前に参ることは出来ず、不本意ながらお帰りになられました。僧を処罰する時の習慣として、明雲も度縁という僧籍の証明書を没収されることになり、大納言・大輔藤井松枝という俗名を与えられたのです(還俗させられたのです)。

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