『歎異抄』の第九条と現代語訳

“念仏信仰・他力本願・悪人正機”を中核とする正統な親鸞思想について説明された書物が『歎異抄(たんにしょう)』である。『歎異抄』の著者は晩年の親鸞の弟子である唯円(1222年-1289年)とされているが、日本仏教史における『歎異抄』の思想的価値を再発見したのは、明治期の浄土真宗僧侶(大谷派)の清沢満之(きよざわまんし)である。

『歎異抄(歎異鈔)』という書名は、親鸞の死後に浄土真宗の教団内で増加してきた異義・異端を嘆くという意味であり、親鸞が実子の善鸞を破門・義絶した『善鸞事件』の後に、唯円が親鸞から聞いた正統な教義の話をまとめたものとされている。『先師(親鸞)の口伝の真信に異なることを歎く』ために、この書物は書かれたのである。

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金子大栄『歎異抄』(岩波文庫),梅原猛『歎異抄』(講談社学術文庫),暁烏敏『歎異抄講話』(講談社学術文庫)

[原文]

第九条

一。念仏まふしさふらへども、踊躍歓喜(ゆやくかんき)のこころおろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまひりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらうべきことにてさふらうやらんと、まふしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定(いちじょう)おもひたまふなり。

よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為(しょい)なり。しかるに、仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごとし。われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまひりたきこころのなくて、いささか所労(しょろう)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。

久遠劫(くおんごう)よりいままで流転せる苦悩の旧里(きゅうり)はすてがたく、いまだむまれざる安養浄土(あんようじょうど)はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう)にさふらうにこそ。なごりおしくおもへども、娑婆(しゃば)の縁つきて、ちからなくしておはるときに、かの土(ど)へはまひるべきなり。いそぎまひりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。

これにつけてこそ、いよいよ大悲大願(だいひたいがん)はたのもしく、往生は決定(けつじょう)と存じさふらへ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまひりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんとあしくさふらひなましと云々。

[現代語訳]

念仏を申していても、躍り上がって喜ぶような強い歓喜の気持ちが湧いてきません。また急いで浄土へ行ってみたいといった気持ちも湧いてこないというのは、一体どのように理解したら良いのでしょうかと親鸞に申し入れて質問してみました。親鸞もそれと同じような疑問(踊躍歓喜したり早く極楽に行きたいという気持ちが湧いてこないという不審)があり、唯円房にも同じような疑問の気持ちがあったのでした。よくよく考えてみると、天に踊り地に踊りたくなるほどの喜びを感じるべき時に喜ぶことができないというのは、それによっていよいよ極楽往生することが定まったと思うべきなのです。

喜ぶべき気持ちを抑え込んで、喜ばないというのは煩悩のせいなのです。しかし、仏様はかねてからこのようなことをお知りになっていて、(念仏を喜べない人は)煩悩の欲望に満ち溢れた凡夫だとおっしゃられているので、他力救済の阿弥陀仏の悲願(本願)は煩悩具足の凡夫に向けられているのです。私たちのためにそんな偉大な本願を持ってくださっていることが分かって、仏様の救済がますます頼もしく思われてきます。また極楽浄土へ急いで行きたいという気持ちがなくて、少しでも病気の心配などがあれば、自分がもう死ぬのではないかと心細く思われることも、煩悩の仕業なのです。

遥か遠い昔の時代から今まで、死んで生まれ変わるという流転を繰り返してきた現世の故郷というのも捨てがたいもので、未だ生まれたことのない極楽浄土がそれほど恋しくないというのは、本当に様々な煩悩の欲望が次々と盛んに湧き起っているということなのです。名残惜しいと思っても、現世の娑婆での縁が尽きてしまって、生きる力を失ってその生命(人生)を終わる時には、あの浄土に参らなければなりません。急いで極楽浄土に参りたいという気持ちがない者のことを、阿弥陀仏は殊更に可哀想で憐れだと思われるのです。

こういったことを考えると、いよいよ仏様の偉大な慈悲や本願について頼もしくなり、(煩悩具足の凡夫である私などは)極楽往生できることが既に決定していると思うことができるのです。念仏を唱えている時に躍り上がって喜ぶような気持ちがあり、急いで極楽浄土に行きたいと思うのは、その人に煩悩がないことの現れであって、それは極楽往生しようとする場合には(煩悩具足の凡夫を救済するための阿弥陀仏の悲願の対象から外れてしまうので)かえって悪いことのように思われるのです。

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