境界性パーソナリティー障害(BPD)の『理想化・こきおろし』とM.クラインの妄想-分裂ポジション、境界性パーソナリティー障害の人とどのように接すれば良いか?:共感・寄り添いの調整と自他の境界線

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境界性パーソナリティー障害の人とどのように接すれば良いか?:共感・寄り添いの調整と自他の境界線


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境界性パーソナリティー障害(BPD)の『理想化・こきおろし』とM.クラインの妄想-分裂ポジション

仕事状況や学校生活、対人関係に適応しづらい性格行動パターンは、回避性パーソナリティー障害(Avoidant Personality Disorder:APD)の特徴が関係していることも多い。クラスターC(C群)に分類される回避性パーソナリティー障害は『不安感の強さ・積極性の乏しさ・意欲の弱さ』の特徴があるが、その中心にあるのが『人から拒絶(否定)されるかもしれない不安感』『責任・負担の重さに耐え切れないかもしれない不安感』である。

評価される仕事(勉強)をして人から否定されるかもしれない、あるいは自分の実力・体力以上の大変な仕事を引き受けてその責任の重さに耐え切れないかもしれないという不安感に押し負かされる形で、やってみないと上手くいくか分からない社会的活動や対人関係の伴う行動を回避してやめてしまうことになる。現代人には現実生活における不利益や支障が生じない程度の『広義の回避性パーソナリティー』は増えているとされ、精神発達プロセスの停滞や心理社会的な成熟の困難が原因として想定されている。心理社会的な自立の達成も、成熟した自己アイデンティティーの確立も、結婚・出産育児を通した通過儀礼的なライフステージの移動も、過去の時代に比べて格段に難しくなっている。

大人になりたくない『ピーターパン症候群(永遠の子供症候群)』というシンドロームが話題になったこともあったが、大人になっても子供っぽい気分や行動を多く残している『成熟の回避(いつまでも若い時のままの心理状態や行動基準で大きくは変わらない)』は半ば一般化してきている。子供を持つ親でも、自然に心理社会的な成熟に向かうとは限らなくなったのである。現代人は多くの人が、何らかの『責任・負担・面倒・厄介』が生じるかもしれないと感じる社会的活動から距離をできるだけ置きたいと考えるようになり、自分にとってよほどの必要性やメリットがない限りは、(相手から自分に何かを求められる形の)対人関係や仕事状況を好ましくないストレスと感じやすくなっているのである。

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学校を卒業して正規雇用の社会人となり自立すること、異性のパートナーと愛し合って結婚・出産育児をすることというのは、1980年代くらいまでの日本社会ではほとんど全ての人が挑戦して達成しなければならない『成熟した大人になるための通過儀礼(イニシエーション)』であった。その成熟した大人になるための通過儀礼は大抵の場合、世間体や見栄・常識、同調圧力によって拒否しきれないものだった。1970~1980年代までの30歳時点における男性の正規雇用率・男女の婚姻率は今とは比較にならないほど高く(9割以上が就職・結婚をしていて)、就職・結婚・子供に躓くことの劣等コンプレックスや偏見・差別にさらされて世間体が立たない自己嫌悪(みんなからなぜしないのかと聞かれ続けて職場にも行きづらくなる)は極めて強かったのである。

しかし2000年代に入ってから現在に至るまで、『非正規雇用率の増加(選択的な人も非選択的な人もいる)』『未婚率・出生率の低下(晩婚化・晩産化の傾向,生涯未婚率の上昇)』が続いており、昭和期と比較すれば正規雇用の就職をしない人(できない人)、結婚・出産育児をしない人(できない人)の数はかなり多くなっている。男性の正規雇用と家族扶養、男女の結婚と子供を持つことが、9割以上の同世代の人がクリアする同調圧力が十分に効いた通過儀礼だった時代には、『大人として成熟すること(経済的・人口的な再生産に他のことを捨てて全力で取り組むこと)』は努力したり選択したりしてやり遂げることというよりも、一定の年齢になればやるしかない社会的義務(みんながやること)であった。

『大人になること・成熟すること』を受け容れて順応するか拒否して自由にやるかという選択肢が、個人の意識・生活に現実のものとして浮かび上がることも少なかったということがあるが、現代では個人主義・自由主義が中心的な思想になったことで過半の人が『自分は自分・他人は他人』と割り切るようになり、大人としての成熟に必要とされた定型の通過儀礼が絶対的な影響力を振るえる基礎が失われたのである。『大人になること・成熟すること』が喜びや生きがい(幸福の始まり)につながるのか、束縛や不自由(幸福の終わり)につながるのかは人それぞれであるが、現代では成熟した大人になりきらないほうが(自分の時間・行動・役割の自由度を残して遊びの要素も残したほうが)喜びや楽しみが多いと感じる人の比率が多様性の下で高まっていることも、現代の成熟の主観的価値を落としてしまってる面がある。

現代で回避されがちな大人になって成熟することによって、自分は何を成し遂げたいのか、何が得られるのか、誰にどんな影響を与えたいのかという根本的な部分を振り返って、『回避しない・義務や責任を果たす・対人関係(後続の若い世代)と向き合う』といった大人としての役割のある生き方の価値を改めて考えてみる必要があるようにも思われる。回避性パーソナリティーは、不登校・ニート(就業困難)・ひきこもりなどの非社会的問題行動の背景にあることも多い。特別に記憶に残っているいじめ・虐待・排除(強い非難)・トラウマなどがなくても、『他者からの否定的評価に対する過敏反応』や『自分の能力のキャパシティを超えたと感じる他者からの期待の負担(重圧)』によって、社会生活や対人関係に上手く適応することができなくなってしまうケースが目立つ。

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他人に対してはっきりものを言うことができない自己主張の弱さ、特に自分よりも強くて有能だ(自分よりも堂々としていて押しが強くて饒舌だ)と感じるような他人に対しては心理的にも身体的にも萎縮・緊張してしまいやすい。回避性パーソナリティーの人でも『自分の思っていること・言いたいこと』を率直に言いやすいような柔らかい物腰をした共感的・受容的な相手であれば、過敏に反応する不安感を抑えて何とか人間関係を築いていける。しかし、相手の自己主張・存在感が強くて『要求・期待・役割』を押し付けられそうな人には強い不安感や煩わしさを覚えやすく、『初めから近寄らず回避して逃げる行動パターン』『反発・抵抗を諦めて従順になる行動パターン』かに分かれやすいのである。

回避性パーソナリティー障害の人は逃避的か受動的かに分かれやすいということだが、これは対人関係に苦手意識を持ってなかなか他人と親しくなろうとしない理由にもなっている。常に他人とは一定の距離感を保っていて、いつでも回避(離脱)できる構えを取っているのは、迂闊に自己主張や押しの強い相手につかまって関係を作られると『反発・抵抗を諦めて従順になる行動パターン』にならざるを得ないからである。

回避性パーソナリティー障害の主体性の喪失はなぜ起こるのか?:親子関係と子への期待・要求

他人に対して抵抗・反発・批判をして、自分の意見を通すこと(相手の非を改めさせること)などとても無理だと感じている回避性パーソナリティーの人は、自分だけが受動的に相手に従うしかないような心理状態に追い込まれやすい。自己主張が強くて要求の多い相手と無理に付き合って、『理不尽な人間関係』にはめ込まれてしまいやすい嫌な経験を重ねているから、他者と距離感を縮めて親しくなることをかなり警戒していて不安に感じることにもなる。

回避性パーソナリティー障害(APD)と『大人としての成熟』が拒否されやすくなった現代

回避性パーソナリティーの人は『他者との戦い・競争』というのが非常に苦手であるか、他者と本気で利害を対立させてぶつかり合うことを考えただけで強い不安感・恐怖感に襲われるので、不安を弱めていって『付き合える相手(親しくなれる相手)』の範囲が非常に狭くなりがちということになる。本人の能力・技術・知識は相当に優れていて、対立する相手と本気でやり合えば『善悪の是非(理非)・知識の正誤・技術の巧拙の基準』では勝てることも多いのだが、回避性パーソナリティーの人は自己主張の強い他人の存在・意思と真正面から向き合うこと自体に強い不安・恐れがある。そのため、競争的・対立的なやり取りをするくらいなら初めから諦めて従うか、戦いの舞台からすっと去ってしまうのである。

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自己評価の低さからくる自己卑下と野心・欲求の乏しさ、諦め・従順の態度といった回避性パーソナリティーの特徴には、自分の人生を自分で責任を持って決めたり選んだりして前に進めていくことができないという『主体性・自己決定の喪失』が関係している。主体性・自己決定の喪失の原因としては、遺伝要因やトラウマ要因、幼少期からの養育環境(親子環境)を想定することができる。幼少期から思春期にかけての子育てで『子供自身の人生の選択・好み・責任』を無視して、すべて親が子の代わりに『こうするほうが絶対良い・私が正しい決定をしてあげる・親に任せておけば大きな間違いはない』とばかりに勝手に決めつけて物事(重要な進路選択)を強引に進めていくような『過保護・過干渉』が主体性の喪失に影響していることは少なくない。

子供の人生の進路や生き方をガチガチに親が固めてしまうような過保護・過干渉の子育ては、『表面的な愛情・心配』『実質的な支配・強制』を混同してしまうことで、子供の主体性・自己主張・自己決定を奪い取ってしまうリスクが少なからずあるのである。親がもっとも正しくてもっとも稼げると思うような人生の進路・生き方の強い勧め(実質の支配・強制)というのは、子供にとって『親に嫌われたくない(親に見捨てられたくない)という思い』を逆手に取られたかなり高いハードルとして受け取られやすい。

おまけに自分が好きで選んだ進路や分野、生き方でもないから、『親が期待する人生と自分が生きたい人生の混乱』も起こりやすく、自分の能力・適性が親の期待する進路の基準を満たせない場合には、親子関係が急速に険悪になって親が子に無関心になったり、子供は自分の人生の主体性・意思決定を奪われて何をしていいかも分からなくなることが多い。親の期待や要求が過剰だったり子供にとって的外れであれば、それを子が主体的に拒絶する権利はあるはずなのだが、幼少期から『親の期待・要求を満たせば愛される褒められる関係』が当たり前のように築かれていると、『親の期待・要求に応えられないダメな自分』のほうに不甲斐なさや罪悪感を感じてしまいやすくなるのである。

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特に親自身が社会的に立派な肩書き・権威的な職業を持つ人物であったり、経済的に成功している人物である場合には、親の強い期待とそれに応えなければならないというプレッシャーは人一倍強くなりやすいものである。子供に本当の愛情や手間暇をかけて子供の意思決定も尊重しながら、許容範囲内の期待をかけるのであればまだいいのだが、『自分の価値観・職業観の一方的な押し付け(その学校・仕事以外はほとんど価値がないなど)』や『親が強い期待をかけたりお金を出すことが真の愛情であるという勘違い』がある場合には、子供は主体性を奪われて無気力になったり自己アイデンティティーが拡散したりしてしまいやすい。

親に嫌われたくない(親に見捨てられたくない)から大半の子供は必死に頑張ろうとするのだが、『親の大きすぎる期待・多すぎる要求・理想や好み(見栄)の押し付け』にどうしても応えきれなくなると、挫折感・自己嫌悪・絶望感・親への怒りを感じて“非社会的行動パターン”“反社会的行動パターン”のいずれかに傾きやすい。反社会的行動パターンとなって現れれば『非行・家庭内暴力・薬物依存・性的逸脱』などになり、非社会的行動パターンとなって現れれば回避性パーソナリティーを前提とする『不登校・ひきこもり・就労困難・社会的孤立』などになってくる。

養育環境や親子関係を原因とする回避性パーソナリティー形成の問題を改善するためには、子供自身が自発的に抱く興味関心を尊重して、『主体的に何かをやろう・これに決めようとする自己決定の機会』を持たせて上げることが大切であり、『一方的な期待・要求の押し付け』には人格形成や適応行動に対する悪影響が多いのである。子供本人がまったく望んでいないことが明らかな進路、ほとんど適性がないことが分かってきたジャンルにおいて、『不本意な強制的なチャレンジ』をさせることは子供の主観的な達成感・満足度を高めることがない。さらに『適性欠如(不向きな分野)などで努力の結果もついてこない状態』で期待に応えろという流れで無理強いすると、人生の主体性だけでなく自尊心・意欲・前向きさまで奪われてしまうリスクが出てくる。

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『他者(親)に与えられた人生の押し付け』で主体性の欠如が起こると、回避性パーソナリティー障害の特徴として指摘される『他者への受動的な従属・他者の自衛的な回避・自己評価の低さ・自己無力感・自己アイデンティティー拡散』なども強まりやすくなる。その結果、学校・仕事・対人関係などの社会生活状況でストレスに弱くなって、『煩わしくて面倒そうなこと・人から自分を判断されること』を事前に回避することで不安を和らげる行動パターンが固定されやすい。

元記事の執筆日:2017/09/05

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