マーシャル・マクルーハンの熱いメディアと冷たいメディア:公共圏とグローバル・ビレッジ

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マーシャル・マクルーハンの熱いメディアと冷たいメディア

コーヒーハウス・公共圏・公民の誕生:グローバル・ビレッジへ変容するナショナリズム


マーシャル・マクルーハンの熱いメディアと冷たいメディア

カナダの英文学者・文明評論家のマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan, 1911-1980)は、メディアを『人間の身体の拡張』『メッセージ(意味の伝達)』として解釈するメディア論を展開した。マーシャル・マクルーハンのメディア分類として良く知られている独創的な図式に、『熱いメディア(ホットなメディア)』『冷たいメディア(クールなメディア)』の区別があるが、現代のメディアに対する認識ではこの区別の基準は少し分かりにくい。

『熱いメディア(ホットなメディア)』と『冷たいメディア(クールなメディア)』の特徴を上げると、それぞれ以下のようなものになる。

熱いメディア(ホットなメディア)……単一の感覚を『高精細度(high definition)』で拡張する情報量(データ量)の大きいメディアで、メディアの受容者が情報を補完したり情報交換に参加することが少ない。M.マクルーハンは、熱いメディアの例として『写真・ラジオ・映画』を上げている。

冷たいメディア(クールなメディア)……単一の感覚を『低精細度(low definition)』で拡張する情報量(データ量)の小さなメディアで、メディアの受容者が情報を補完したり情報交換に参加することが多い。M.マクルーハンは、冷たいメディアの例として『漫画・電話・テレビ・会話(話し言葉)』を上げている。

現代のメディア認識では、映画とテレビの違いや写真と漫画の違い、ラジオと電話(会話)の違いは明確ではない印象を受けるが、熱いメディアというのは『情報の受容者による解釈・補完(推測)をあまり必要としない、そのメディアの持つメッセージや情報そのものの完成度(自己完結度)が高いメディア』と言えるのではないかと思う。

熱いメディアについて、M.マクルーハンは『高精細度なメディア』と定義しているが、このことは映像・画像の解像度が高くて情報量が多いといった現代的な精細度の意味合いよりも、『情報のパッケージ性・メディアの自己完結性を要因とする高精細度(補完的な情報や相手の反応が不要なメディア)』といった意味合いのほうが恐らく強い。だから、マクルーハンの時代のモノクロテレビや解像度の低いテレビは『低精細度の冷たいメディア』だったが、現代の液晶ハイビジョンや有機ELディスプレイをはじめとする解像度が高くて色鮮やかなテレビであれば『高精細度の熱いメディア』になるというような話にはならないのではないかと考えられる。

つまり、マクルーハンの認識していたテレビ=複数の人間が一緒に見て番組・報道について意見を交わしあうことで内容を補完する冷たいメディアであり、そこには『自分一人でワンセグのテレビ放送を見ている(誰ともテレビ内容について話し合ったり、推測で情報を補完したりしない)』といった携帯電話の技術革新の想定や影響は含まれていないのである。

現代においては、テレビも映画もそもそも配信される映像作品を見るという点では一緒ではないか、テレビでも『映画』は放送されるじゃないかといった感想がでてくることで、熱いメディアと冷たいメディアの差異は分かりにくくなるのだが、当時の映画は暗い映画館の中で静かに見るものであり(メディアへの観衆の関与性が弱くただの情報の受け手になる)、映画は『一つの完成された物語・映画単体で始まりと終わりを持つ自己完結的な作品』という風に解釈されていた。映画は受容者である観衆の関与性や情報の補完性が低いために『熱いメディア』となり、テレビは複数の人が一緒にニュースなどを見て意見・感想を交わす関与性や情報の補完性が高いために『冷たいメディア』と見なされたわけである。

ラジオはリスナーが一方的に流されてくるニュースや天気予報を聴くので、関与性と情報の補完性が低いために『熱いメディア』となる。電話は電話をしている相手と双方向的な情報のやり取りをするので、自分も話すという関与性や相手の話を解釈する補完性があるので『冷たいメディア』になるのである。会話(話し言葉)が冷たいメディアと見なされる理由も、電話が冷たいメディアに分類される理由とほぼ同じである。

M.マクルーハンは『電子メディアの時代』におけるテレビについて、視覚を他の感覚から切り離して人間を孤立させた文字(書き言葉)の弊害を改善するメディアであると持ち上げ、未来においてテレビが『人間の諸感覚の再統合・共同体的な関係性の再生』を果たす可能性があると賞賛したが、マクルーハン自身は孫娘にテレビを見せずテレビの麻薬的な依存性を恐れる“テレビ嫌い”の矛盾した一面(理論と実生活の対立)も持っていた。

M.マクルーハンの見たテレビは、放送が始まったばかりの1950年代のテレビだったが、マクルーハンのメディア理論では『テレビ(電子メディア)の時代』は視覚・聴覚・触覚・運動感覚を電子情報(光の点のモザイク)によって統合する人間性の回復の時代とされた。

更に、文字を読む孤独な個人を共同体から切り離した『文字の時代の弊害(一人での読書時間に没頭する個人増加による共同体の衰退)』が、みんなで一緒に見て語り合うテレビの普及で解消できるという理想論に傾いていた。ここでは、まだ経済が発展していなかった戦後日本で街頭・商店に置かれていた白黒テレビ(一般庶民ではとても買えない高額商品)を取り囲んで、大勢の人が野球やプロレス、ニュースを一緒に見ながら、あれこれ感想を言っているような姿が前提とされている。

マクルーハンはテレビの登場と普及を、『文字(書き言葉)の文化から声(話し言葉)の文化への再転換』として捉えており、テレビは独りで情報を読み書きするような孤立しがちな文字中心の社会(本・新聞・雑誌のメディア)を終わらせ、複数・大勢の人間がテレビから情報を得ながら語り合う声中心の社会(話し言葉・対話のメディア)を復権させると期待したのである。

コーヒーハウス・公共圏・公民の誕生:グローバル・ビレッジへ変容するナショナリズム

ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマス(Jurgen Habermas, 1929-)は、コミュニケーション論において“了解”を志向する自由なコミュニケーションが成立する相互主観的な社会空間を『公共圏』と読んだが、ハーバーマスは公衆(市民)が自由な討論を戦わせた公共圏の始まりを17世紀後半のイギリスに現れた『コーヒーハウス(カフェの原型)』に求めている。

J.ハーバーマスの公共圏の概念は、M.マクルーハンのいう『パブリック(公衆)』ともつながっている。文字(書き言葉)の時代における印刷された書物・新聞は、公権力から教育されて統治される『ネーション(国民)』だけではなくて、自由に公的な議論をして政治参加しようとする『パブリック(公衆・市民・公民)』を生み出すのである。パブリック(公衆・市民・公民)というのは、『本・新聞・雑誌』を日常的に読んで社会・政治(公共の問題・思想や理論)にまつわる知識・情報を得続けている人たち、それらの知識・情報をベースにして社会公共・政治に関する議論を行い、その議論や主張を実際の政治に反映させようとする人たちのことである。

パブリックである公衆(市民)に求められるものは、『文字の読み書き能力(リテラシー)』『公共的な議論の土台となる基本的な知識・教養』『他者と公共的な問題について積極的に議論・討論しようとする意志と問題意識』であり、17~20世紀初頭にかけてのパブリックの中心は、一定の私有財産や職業的地位を持つブルジョアジー(新興中流階層)であった。近代社会で『公共圏(コーヒーハウス)における討論』による政治参加を始めたパブリック(公衆)は、公共的な議論をするための最新の知識や状況認識を得るために本・新聞・雑誌を読み続けた人たちであり、いわゆる開放的な読書人階級であると同時に論客・弁士を志向する者たちであった。

近代啓蒙精神や民主主義の体現者とも言えるパブリック(公衆)は、『身分・職業・血統(家柄)・権力・階層の区別』をせずに対等な立場で議論を交わそうとする人たちである。17~18世紀にかけて爆発的に増加したコーヒーハウスは男性しか入れないという女性締め出しの限界はあったが、『異なる社会階層・職業・身分の人たち』が集まってきて、自由に本・新聞・雑誌を読んで討論することができる公共圏として機能していた。

イギリスやフランスのコーヒーハウス(カフェ)には公共的な問題について考えるリソースとなる新聞・雑誌・本が置かれていて、それを読んだパブリック(公衆)が盛んに議論を戦わせたが、そのパブリックの意見や議論が新聞・雑誌にフィードバックされて掲載される(あるいはパブリックが積極的に新聞・雑誌に投書投稿をする)という循環的なシステムが成り立っていた。

公共圏におけるパブリック(公衆)の激しく熱い討論・議論、あるいは新聞・雑誌がパブリックの討論や意見を反映しようとする姿勢によって、近代初期のヨーロッパにおける『パブリック・オピニオン(公共的な意見)+一般民衆の政治参加(世論の政治への影響力行使)』の可能性が急速に高まっていったのである。パブリック(公衆)は、文字メディアと読書に基づく『個人性』と会話メディア(声のメディア)と討論に基づく『公共性』を融合する役割を果たすようになり、個人性と公共性(相互性)が循環するエキサイティングな公共圏の場として『コーヒーハウス(カフェ)』は位置づけられた。

大量に印刷された新聞・書物を読むという文字メディアの経験は、画一的・規格的な情報を受け取って自己アイデンティティを固めていく想像の共同体としての『国民(ネーション)』を作り上げたが、それと同時に公共圏であるコーヒーハウスで公共的な議論・討論を行って政治参加(体制批判)をしようとする『公民(パブリック)』を生み出したのである。M.マクルーハンは、電子メディアの時代やテレビの文化について、地球上のすべての人間を画一的な情報環境に巻き込んでいく電気回路技術(テレビに象徴される電子メディア)によって、『旧来的なネーション(国民)』は次第に衰退して生き延びることが困難になると予言した。

M.マクルーハンは、電子メディア(テレビ)によって私たちはあらゆる場所で、ごく小さな村にでもいるような一対一の親密な人間関係を取り戻していくと述べて、このグローバルに拡大する小さな村のことを『グローバル・ビレッジ(global viledge)』と名付けた。一方的に世の中や出来事についての情報を伝達する冷たいメディア(クールなメディア)である『テレビ』は、ナショナリズム(国家主義・民族主義)やネーション(国民)を強めるのか弱めるのかについて、マクルーハンは『テレビの情報の伝え方・国民の参与度の大小』によってナショナリズムの強度は変わるという両義的な意見を述べている。

テレビ放送の開始から半世紀以上が経った現代では、テレビのマスメディアの影響力は、『グローバル・ビレッジ』という国際性・世界市民性を強化するというよりは、国民の大多数が関心・注意を向けるべきものという前提が確立させた『メディア・イベントの放送及び報道』によって喚起されるナショナリズム(国家主義・民族意識)を強化する働きのほうが強いと言えるだろう。

メディア・イベントというのは、ほぼ全てのテレビ局や新聞社が取り上げる『国民共通の関心事(注目すべき行事)』とされる出来事のことであり、オリンピックやサッカーのワールドカップ、スポーツの世界大会、国家元首(国王・天皇)の崩御や即位、政局・政変などが代表的なメディア・イベントである。オリンピックが開催されている時には、複数のチャンネルがオリンピック競技の生中継を行い、ほぼすべてのチャンネルがオリンピックや自国の選手についての特別番組・ニュースを放送することで、『オリンピックについて全く無関心な国民』を大幅に減らす効果を発揮する。

本音ではオリンピックやスポーツに殆ど興味がない人であっても、周囲の同僚や取引先の人、家族、友達、知人などがみんなオリンピックについての話題・感想を語ることが予想されるので、ニュース番組などを視聴することによって『最低限度のオリンピック(メディア・イベント)についての知識,代表的な日本選手の成績結果』を得ようとするのである。

日本で最大級のメディア・イベントとしてすべてのチャンネルで集中的に放送された出来事(昭和天皇の大喪の礼では晴れの祝いやお祭り騒ぎなどの多くが自粛されたりもした)には、昭和天皇が崩御した時の『大喪の礼』、皇太子が結婚した時の『成婚パレード・結婚式』などがあるが、これらは『情報・知識としての重要度』というよりも『日本人としての歴史的アイデンティティの再確認(天皇の国民統合の機能の可視化)』といった意味合いが強い。

ナショナリズムの強化や国民統合の契機として作用するメディア・イベントを研究した社会学者のD.ダヤーン(D.Dayan)E.カッツ(E.Katz)は、マスメディアが伝達するメディア・イベントはそれを見る人々に『社会共通の基本的価値観(国民的な自己アイデンティティ)』を再確認させ、同じ国家(放送圏)に所属する人々の『連帯感・一体感・参加意欲』を強める働きをすると述べている。このD.ダヤーンとE.カッツの語るメディア・イベントがもたらすネーションの連帯感や一体感、国民意識の強化については、サッカーのワールドカップで日本が得点を上げた時に興奮する国民、オリンピックで有名な日本人選手(今年のソチ冬季五輪ならばフィギュアスケートの浅田真央選手や羽生結弦選手など)を応援している国民の数の多さを想像すれば十分だろう。

テレビ放送の多チャンネル化、パーソナルメディア化、オンライン化、あるいはスマートフォンなどのモバイル端末での動画視聴の増加、国籍を超えて視聴される人気コンテンツ(動画)の増加、ウェブの定額動画配信サービスの登場などを考えれば、ウェブ社会化が進む現代では『広義の電子メディア』“ナショナリズム(右派のネーションな価値観)”を強化するのか、“グローバル・ビレッジ(左派のリベラルな価値観)”を形成するのかの予測は困難になっている。インターネットやモバイル環境という新しいメディアが、『公共圏の範囲や活力・パブリック(公民)の議論や政治への参加意識』をどのように変化させていくかは、現代社会のコミュニケーション論や政治問題を考える上で非常に重要になってきている。

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