『中庸』の書き下し文と現代語訳:11

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儒教(儒学)の基本思想を示した経典に、『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書(ししょ)がありますが、ここでは極端な判断を避けてその状況における最適な判断を目指す中庸(ちゅうよう)の大切さ・有利さを説いた『中庸』の解説をしています。『中庸』も『大学』と同じく、元々は大著『礼記』の中にある一篇ですが、『史記』の作者である司馬遷(しばせん)は『中庸』の作者を子思(しし)としています。

中庸の徳とは『大きく偏らない考えや判断に宿っている徳』という意味であるが、必ずしも全体を足して割った平均値や過不足のない真ん中のことを指しているわけではない。中庸の“中”は『偏らないこと』、“庸”は『普通・凡庸であること』を意味するが、儒教の倫理規範の最高概念である中庸には『その場における最善の選択』という意味も込められている。『中庸』の白文・書き下し文・現代語訳を書いていきます。

参考文献
金谷治『大学・中庸』(岩波文庫),宇野哲人『中庸』(講談社学術文庫),伊與田覺『『中庸』に学ぶ』(致知出版社)

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[白文]

君子之道、費而隠。夫婦之愚、可以与知焉。及其至也、雖聖人、亦有所不知焉。夫婦之不肖、可以能行焉。及其至也、雖聖人、亦有所不能焉。天地之大也、人猶有所憾。故君子語大、天下莫能載焉、語小、天下莫能破焉。詩云、鳶飛戻天、魚躍于淵。言其上下察也。君子之道、造端乎夫婦。及其至也、察乎天地。

右第十二章。子思之言。蓋以申明首章道不可離之意也。其下八章。雑引孔子之言、以明之。

[書き下し文]

君子の道は費(ひ)にして隠(いん)なり。夫婦の愚も与かり知るべし。その至れるに及んでは、聖人と雖もまた知らざる所あり。夫婦の不肖ももって能く(よく)行うべし。その至れるに及んでは、聖人と雖もまた能くせざる所あり。天地の大なるも、人なお憾むる(うらむる)所あり。故に君子大を語れば、天下能く載するなく、小を語れば、天下能く破るなし。詩に云はく、鳶(とび)飛んで天に戻り(いたり)、魚(うお)淵(ふち)に踊ると。その上下に察るる(あらわるる)を言うなり。君子の道は端を夫婦に造す(なす)。その至れるに及んでは天地に察る(あらわる)。

右第十二章。子思の言なり。蓋しもって首章の道は離るべからざるの意を申明するなり。その下八章は孔子の言を雑引(ざついん)してもってこれを明らかにす。

[現代語訳]

君子の道は、範囲が広くて誰にも当てはまるが、微妙な難しさを併せ持ったものである。愚かな夫婦でも道が何であるかは預かり知っている。しかし、究極の道については、聖人であってもまだ分からない所があるものである。不肖の夫婦でも道を実践できる部分は確かにある。しかし、究極の道については、聖人であっても十分に実践することはできないのである。広大な天地に対しても、人はなお(思い通りにならない寒暖の差・天変地異・不作などを)恨みに思うことがある。そのため、君子が道の大なることを語れば、天下にそれが載らないほどに大きなものとなり、その小さなことを語れば、天下にそれよりも小さなものは無いほどだ。大雅旱麓(たいがかんろく)篇に言わく、『鳶飛んで天に戻り、魚淵に踊る』と。道の上下が鳶と魚それぞれの活動に現れているのである。君子の道といえども、その端緒は不肖の夫婦から始まるものである。この君子の道が究極にまで極まれば、天地の森羅万象の出来事となって現れるほどになるのだ。

[補足]

孔子は『君子の道』について誰にでも理解して実践できる『門戸の広い道』だと考えていたが、『究極の道』にまでなるとその理解や実践は君子であっても相当に難しいとも言っている。その道の大きさや深遠さは、『自然界の森羅万象の活動・現象』まで司っているほどのものであり、その広くて深遠な道を真に理解して行うことができれば、天下・人心を平穏に治める『徳治の理想』へと辿り着くことになるのである。

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[白文]

右第十三章

子曰、道不遠人。人之為道而遠人、不可以為道。詩云、伐可伐可(正しい漢字は木篇に可)、其則不遠。執可以伐可、睨而視之、猶以為遠。故君子以人治人、改而止。忠恕違道不遠、施諸己而不願、亦勿施於人。

[書き下し文]

右第十三章

子曰く、道は人に遠からず。人の道を為して人に遠きは、もって道と為すべからず。詩に云く、可(か)を伐り(きり)可を伐る、その則(のり)遠からずと。可を執ってもって可を伐り、睨して(げいして)これを視て、猶もって遠しと為す。故に君子は人をもって人を治め、改めて止む(やむ)。忠恕(ちゅうじょ)道を違える(たがえる)こと遠からず、諸(これ)を己に施して願わざれば、また人に施すなかれ。

[現代語訳]

先生がおっしゃった。道は日々実践するものだから、人から遠く離れたものではない。人の道を為すにあたって人から遠くて高尚過ぎるようであれば、それは(殆どの人が理解も実践もできないのだから)道となることはできない。『詩経』のひん風(ひんぷう)・伐可(ばっか)篇に言わく、『斧の柄を切り斧の柄を切るには、その法則となるものは遠くにあるものではない』と。斧をもって斧の柄となる木を切り出すには、見本となる斧の柄をまず見なければならないが、斧の柄と木(斧の柄の材料)との違いからその法則が遠いもののように感じる。故に、君子はその人に合った道をもって人を治め、その人が道に従って振る舞いを改めればそれ以上のことはしないのだ。人への思いやりは道そのものではないが道に近いものであり、自分がして欲しいと願わないようなことは、また他人にそれをすべきではないのである。

[補足]

人が実践すべき『道』とは高邁・深遠なものではなく、日常的で身近なものでもあると孔子は語る。斧の柄を木から切り出すにあたっては、自分が手に持っている『斧の柄の部分』をまずはしっかりと見なければならないが、斧の柄と切り出す木の違いを見極めることが『道』の始まりにもなっている。この章では、『論語』にもある倫理規範として有名な『己の欲せざるところ、人に施すことなかれ』が述べられており、『他者に対する思いやりの大切さ』も道に通じるものとして重視されている。

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[白文]

右第十三章

君子之道四。丘未能一焉。所求乎子、以事父、未能也。所求乎臣、以事君、未能也。所求乎弟、以事兄、未能也。所求乎朋友、先施之、未能也。庸徳之行、庸言之謹、有所不足、不敢不勉、有余不敢尽、言顧行、行顧言、君子胡不造造爾。

[書き下し文]

右第十三章

君子の道四。丘(きゅう)未だ一を能くせず。子に求むる所、もって父に事うる(つかうる)は、未だ能くせざるなり。臣に求むる所、もって君に事うるは、未だ能くせざるなり。弟(てい)に求むる所、もって兄に事うるは、未だ能くせざるなり。朋友に求むる所、先ずこれを施すは、未だ能くせざるなり。庸徳(ようとく)をこれ行い、庸言(ようげん)をこれ謹み、足らざる所あれば、敢えて勉めずんばあらず、余りあれば敢えて尽くさず、言は行いを顧み(かえりみ)、行いは言を顧みる、君子胡ぞ(なんぞ)造造爾(ぞうぞうじ)たらざらん。

[現代語訳]

君子の道は四つある。丘(孔子)はまだその一つさえ上手くすることができない。我が子に求める所をもって、自分自身が父に仕えるということが、良くすることができない。家臣に求めている所をもって、自分自身が君主に仕えるということが、上手くできない。弟に求めている所をもって、自分自身が兄に仕えるということが、上手くできない。友達に求めている所はあるが、それを自分から先にして上げるということが上手くできない。君子とは日常的な徳を実践して、日常的な言葉を謹み、徳に及ばない所があれば、それを補おうとして必ず努力するものである。言葉が過剰であれば敢えて言い尽くさず、言葉は自分の行いを振り返ってから話し、行動は自分の言葉を振り返ってから行う、そのような君子がどうして篤実・誠実ではないなどと言えるだろうか。

[補足]

君子の踏み行うべき『道』を4つ挙げて、孔子はその僅か一つさえも満足に実践することができていないのだと慨嘆している。『子・臣・弟・朋友としての徳』について、まず相手の立場に立ってから実践しなければならないと説いており、これは自分にできていないことを他人に強制することの愚かさ・無意味さを戒めているとも解釈できる。君子は『道』に対して慢心や油断をすることがあってはならないのであり、絶えず我が身を振り返っての努力や自省を続けていかなければならないのである。

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