『論語 八イツ篇』の書き下し文と現代語訳:1

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の八イツ篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の八イツ篇は、以下の3つのページによって解説されています。

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[白文]1.孔子謂季氏、八イツ舞於庭、是可忍也、孰不可忍也。

[書き下し文]孔子季氏(きし)を謂わく(のたまわく)、八イツを庭(てい)に舞わしむ。是をしも忍ぶべくんば、敦れ(いずれ)をか忍ぶべからざらん。

[口語訳]孔子が季氏のことをこう言われた。『八列六十四人を家の廟の庭で舞わせたという。これをさえ忍べるとすると、天下に忍べないことなど何もないではないか。』

[解説]季氏とは、魯(ろ)の家老の家柄・季孫氏のことであり、具体的には五代当主の季平子のことを指す。魯の政治は、孟孫・叔孫・季孫の三家老に専横されて、魯の君主である昭公は政権を取り戻そうとして失敗し、紀元前517年に斉に亡命することになる。八イツの「イツ」とは、一列八人で八列に並んだ六十四人の舞人(舞士)の列のことであり、国家を統治する正統な天子(君主)だけが八イツの舞踏の儀礼を司ることができた。
孔子の祖国・魯において、絶大な政治権力を恣(ほしいまま)にした三孫氏(孟孫・叔孫・季孫)は、君主である昭公を国外に追放して「八イツの儀礼」を自分の祖霊を祭る庭で執り行ったので、礼節と忠義の徳を重視する孔子が激怒したのである。三家老が執り行った八イツの儀式は君臣の道(忠節)に外れており、これを我慢して忍べるのであれば他に忍べないことなど何もないではないかと孔子は憤慨したのである。

[白文]2.三家者以雍徹、子曰、相維辟公、天子穆穆、奚取於三家之堂。

[書き下し文]三家者(さんかしゃ)、雍(よう)を以て徹す。子曰く、相くる(たすくる)は維れ(これ)辟公(へきこう)、天子穆穆(ぼくぼく)たりと。奚ぞ(なんぞ)三家の堂に取らん。

[口語訳]孟孫・叔孫・季孫の三家老は、雍の楽に合わせて祭りを執り行った。先生がおっしゃった。「その雍の歌の文句に、『祭助けまいらす諸侯、天の下おわします天子の気色うるわしく』という文句がある。どうして(王位を簒奪した)三家老の堂に用いることができようか」

[解説]魯の三孫氏(三家老)は君主である昭公を追放して、自分たちが国政の権力を握っているが、三家老は『詩経』の周頌(しゅうしょう)の雍の楽を歌いながら祖霊を祭っている。しかし、周頌の雍という楽では、天命によって国家を統治する天子の祭が歌われ、天子に付き従う忠実な諸侯の様子が示されている。三家老は自分たちが天子(君主)を追い落とした賊臣でありながら、よくも平然として『詩経』の周頌などを演奏させられるものだという、統治の正統性にこだわる孔子の憤慨を示している。

[白文]3.子曰、人而不仁、如礼何、人而不仁、如楽何。

[書き下し文]子曰く(いわく)、人にして仁ならずんば、礼を如何せん(いかんせん)。人にして仁ならずんば、楽(がく)を如何せん。

[口語訳]先生(孔子)がこうおっしゃった。『人として思いやり(仁)のないものが、礼を習得してどうなるのだろう(いや、何にもならない)。人として思いやり(仁)のないものが、楽を歌って何になるのだろう(いや、何にもならない)。』

[解説]孔子にとって最大の徳は飽くまで「仁」であり、仁とは、他者に対する人間としての情愛、家族に対して湧くような自然な思いやりのことである。他者を大切にして思いやるという「仁」に欠けたものが、幾ら形式的な礼節を学んでも何にもならないし、儀礼に必要な楽(歌)を上達させても何にもならないのである。徳治政治に必要不可欠な「礼楽の道」というのは、親愛の情を寄せる他者に対して、秩序や礼儀を効率良く伝える為の方法に過ぎず、他者を大切にする「仁」のない者がいくら見せかけだけの礼楽を習得しても無意味ということである。

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[白文]4.林放問礼之本、子曰、大哉問、礼与其奢也寧倹、喪与其易也寧戚。

[書き下し文]林放(りんぽう)、礼の本(もと)を問う。子曰く、大なるかな問いや。礼は其の奢らん(おごらん)よりは寧ろ(むしろ)倹やか(つつましやか)にせよ。喪は其の易か(おろそか)ならんよりは寧ろ戚ましく(いたましく)せよ。

[口語訳]林放が礼の根本を問うた。先生が言われた。『その問いは大きなものである。礼は物事を贅沢にして驕るのではなく、質素にして倹約せよ。喪(葬式)は滞りなく淡々と行うのではなく、(多少整っていない部分があっても)哀悼の感情を捧げるようにせよ。』

[解説]孔子が魯人の林放に礼の根本について語ったものである。礼の本質は、華美や贅沢ではなく慎ましやかな謙譲と倹約にあり、葬式(喪)の本質は、準備万端整えたスムーズな葬式にあるのではなく、故人を静かに忍び本心からの悲哀の念を捧げることにあるとした。

[白文]5.子曰、夷狄之有君、不如諸夏之亡也。

[書き下し文]子曰く、夷狄(いてき)の君あるは、諸夏(しょか)の亡きにも如かざる(しかざる)なり。

[口語訳]先生が言われた。『(中国の外部にある)夷狄の蛮族が君主を戴いても、君主のいない夏(か)のような中国(先進的な文明国)には遠く及ばない。』

[解説]中国の伝統的な世界観である「華夷秩序」を典型的に表現した文章である。古代の中国では、漢民族(中国人)の国々を文明の中心地を意味する「中華」と称し、文化や技術の遅れた周辺の諸国(蛮族の国)を「北狄・東夷・西戎・南蛮」と称して差別意識を持っていた。古代のギリシア人も、自分たちをギリシア神話に登場するオリンポスの神々の子孫である「ヘレネス」と称し、周辺の後進国を「バルバロイ(意味不明の言語を話す民族=野蛮人)」と別称していた。

中国最古の王朝「夏」の子孫を自認する古代の中国人もそういった民族的な優越感(矜持)を強く持っていたのである。諸夏の「夏」とは、伝説の聖王・禹(う)が建設した夏王朝のことであり、諸夏とは夏を継ぐ中国の王朝といった意味で、中国の漢民族の国々のことを指している。

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[白文]6.季氏旅於泰山、子謂冉有曰、女不能救与、対曰、不能、子曰、嗚呼、曾謂泰山不如林放乎。

[書き下し文]季氏、泰山(たいざん)に旅す(りょす)。子、冉有(ぜんゆう)に謂いて曰く、汝救うこと能わざるか(あたわざるか)。対えて(こたえて)曰く、能わず(あたわず)。子曰く、嗚呼(ああ)、曾ち(すなわち)泰山を林放(りんぽう)にすら如かずと謂えるか(おもえるか)。

[口語訳]季氏が泰山で、大きな祭儀を執り行った。先生が冉有を招いておっしゃった。『お前はその大祭を止めることが出来なかったのか。』冉有はそれに答えて言った。『出来ませんでした』先生は言われた。『ああ、何と言うことだ。泰山の神々の祭礼への思いが、先日私に礼について問うた林放にも及ばないと思っているのか。』

[解説]西周時代における中国一の名峰が泰山であり、周王朝の天子は諸侯を集めた泰山において「旅」と呼ばれる大祭を執り行い、自分が天下の正統な君主であることを示したという。そういった天子にしか許されていない大切な儀礼を、季氏(七代目当主の季康子)が不遜にも泰山で行ったので、それを黙ってみていた弟子の冉有に「なぜ、そういった礼楽に背く行いを止めなかったのだ」と孔子が慨嘆している文章である。

孔子は前段で登場した(正式な弟子でもない)林放でさえ、礼について一定の理解を示しているのに、林放よりも礼に詳しくて当たり前の(正式な弟子である)冉有が季氏の泰山の「旅(祭儀)」を止めなかったことに対して嘆いているのである。

[白文]7.子曰、君子無所争、必也射乎、揖譲而升下、而飲、其争也君子。

[書き下し文]子曰く、君子は争うところなし。必ずや射るか。揖譲(ゆうじょう)して升り(のぼり)下り(くだり)、而して(しこうして)飲ましむ。その争いは君子なり。

[口語訳]先生が言われた。『君子は何事においても争うことがない。例外として弓術の競争(射礼)がある。(射礼の際に)堂上に上って主君に挨拶し、堂上から降りて弓を射るが、その時には、お互いに会釈して譲り合う。(射礼の競技が終われば勝者に)酒を飲ませる。その弓争いの様子は君子である。』

[解説]貴族として国家を治める君子(士大夫)は、一切の争いごとを好まないものだが、唯一の例外として弓の競技(射礼)があるという。君子が射礼に臨む場合には、招待して下さった主人に挨拶する為に堂上に升り(のぼり)、それから弓を射る為に堂上を降りるというが、その際に君子は、両手を前に組み合わせて丁寧にお辞儀をする「揖譲(ゆうじょう)」をしなければならないと孔子は言う。現代的に言えば、スポーツ競技に臨む場合の正々堂々としたスポーツマンシップや勝負の敗者への労わりを見せるジェントルマンな振る舞いを意味しているといえる。

[白文]8.子夏問曰、巧笑倩兮、美目盻兮、素以為絢兮、何謂也、子曰、絵事後乎、子曰、起予者商也、始可与言詩已矣。

[書き下し文]子夏問うて曰く、巧笑倩(こうしょうせん)たり、美目盻(ハン)たり、素(そ)以て絢(あや)と為す。何の謂い(いい)ぞや。子曰く、絵の事は素き(しろき)を後(のち)にす。曰く、礼は後なるか。子曰く、予(われ)を起こす者は商なり。始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。

盻(ハン)の正しい漢字は、目偏に「分」の字である。

[口語訳]子夏が尋ねた。『笑窪(えくぼ)あらわに、可愛い口元。白目にくっきりとした美しい黒い瞳。白さに対して際立つ彩りの絢(あや)。という詩は何を意味しているのでしょうか?』先生が言われた。『絵を書く時に、胡粉を後で加えるということだ』子夏が言った。『(仁が先にあり)礼が最後の仕上げになるのですか?』先生が言われた。『私を啓蒙して気づかせてくれるのは子夏(商)である。これでようやくお前と一緒に詩を談ずることが出来るな。』

[解説]子夏が孔子に対して、「巧笑倩兮、美目盻兮、素以為絢兮」という『詩経』にある衛風の碩人篇中の句について質問した文章である。孔子はこの『詩経』の詩の解説を通して、子夏に他者に対する思いやりとしての「仁」がまず先にあり、最後に徳の完成として「礼」があることを気づかせたのである。

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[白文]9.子曰、夏礼吾能言之、杞不足徴也、殷礼吾能言之、宋不足徴也、文献不足故也、足則吾能徴之矣。

[書き下し文]子曰く、夏礼(かれい)は吾(われ)能く(よく)これを言えども、杞(き)は徴(しるし)とするに足らざるなり。殷礼(いんれい)は吾能くこれを言えども、宋は徴とするに足らざるなり。文献、足らざるが故なり。足らば則ち(すなわち)吾能くこれを徴とせん。

[口語訳]先生がこうおっしゃった。『夏王朝の礼制(制度)を私は十分に説明することができるが、夏王朝の子孫である杞の国には(自説を証明するための)夏の礼制の証拠が足りない。殷王朝の礼制を私は十分に説明することができるが、殷王朝の子孫である宋の国には(自説を証明するための)殷の礼制の証拠が足りない。何故なら、杞の国と宋の国には(過去の制度を知る為の)史料文献と博学な賢人が残っていないからである。それらが十分であれば、私の礼制にまつわる自説の証拠とできるのだが。』

[解説]現在の河南省にある「杞」とは、夏王朝の諸侯が封ぜられた国で、「宋」とは、殷王朝の諸侯が封ぜられた国である。「徴(しるし)」は「徴す(なす)」と書き下す場合もあるが、孔子の礼にまつわる自説を実証する「根拠・証拠」といった意味である。「文献」は現代では一つの単語であるが、古代中国では「文」は木簡や竹簡に書かれた史料文献を意味し、「献」はその土地に住む古老など物知りな賢者のことを意味していた。

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