孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の八イツ篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の八イツ篇は、以下の3つのページによって解説されています。
[白文]19.定公問、君使臣、臣事君、如之何、孔子対曰、君使臣以礼、臣事君以忠。
[書き下し文]定公問う、君、臣を使い、臣、君に事うる(つかうる)にこれを如何(いかん)。孔子対えて(こたえて)曰く、君、臣を使うに礼を以てし、臣、君に事うるに忠を以てす。
[口語訳]魯の定公が尋ねられた。『君主が家臣を使い、家臣が君主に仕えるにはどのような心がけを持てばいいだろうか?』孔子は答えて申し上げた。『君主が家臣を使うには礼節をもって臨み、家臣が君主に仕えるには忠実なまごころをもって臨むことです。』
[解説]孔子が昭公の後を継いだ魯の定公に仕えた時に、定公が凋落した君主の権威と家臣の誠実を取り戻すためにはどうしたら良いかを孔子に尋ねた文章である。「君臣の別」を明確にすることを大切にする孔子は、君主が家臣に対する場合には「礼の伝統」に依拠し、家臣が君主に対する場合には「忠のまごころ(誠実)」を発揮すべきだと回答した。
[白文]20.子曰、關雎、樂而不淫、哀而不傷。
[書き下し文]子曰く、關雎(かんしょ)は楽しみて淫せず(いんせず)、哀しみて傷らず(やぶらず)。
[口語訳]先生が言われた。『關雎(かんしょ)の詩は、楽しみながらも過度に楽しみ過ぎず、悲しみながらも過度に心身を痛めることもない。』
[解説]孔子は、礼節と音楽が社会秩序の維持に必要不可欠だと考えたように、『詩経』に出てくる詩を音楽として楽しんだようである。『詩経』の「国風」にある「關雎」という歌は、歓喜と悲哀の調和がとれていて、感情の抑制(節度)が適切で絶妙であると評価している。
[白文]21.哀公問社於宰我、宰我対曰、夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗、曰使民戦栗也、子聞之曰、成事不説、遂事不説、既徃不咎。
[書き下し文]哀公、社を宰我(さいが)に問う。宰我、対えて曰く、夏后(かこう)氏は松を以てし、殷人(いんひと)は柏(はく)を以てし、周人(しゅうひと)は栗(りつ)を以てす。曰く、民をして戦栗(せんりつ)せしむるなり。子これを聞きて曰く、成事(せいじ)は説かず、遂事(すいじ)は諌めず、既往(すぎたる)は咎めず。
[口語訳]哀公が(樹木を神体として祭る)社のことを宰我にお尋ねになった。宰我はお答えして言った。「夏の主君は松を使い、殷の人は柏(ひのき)を用い、周の人は栗を使っています。栗を用いるのには、(栗の神木の下で行われる死刑・刑罰によって)民衆を戦慄させようという意味があります。」先生はそれを聞いておっしゃった。「既に終わったことについて論じてはならない、既に為してしまったことについて諌めてもいけない。過ぎ去った事柄の責任を追及すべきではない。」
[解説]魯国には、君主や貴族の祖霊を祭る周社と、一般庶民の祖霊を祭る殷社(亳社・はくしゃ)とがあったが、社には樹木が神体として置かれ「神木」とされていた。神木の下では民衆の裁判と刑罰が行われたので、周の時代の「栗の木」というのは、神聖な場所を示すと同時に恐怖の場所を示す目印でもあった。孔子の門人であった宰我(さいが)は、周社の威令を掲げて三家老を完全に追放する英断(王政復古のクーデター)を哀公に迫ったという解釈があるが、孔子は暴力的なクーデターによって王政復古を実現してもその政権は安定しないだろうと考え、宰我の性急な諫言を牽制したとされる。
[白文]22.子曰、管仲之器小哉、或曰、管仲倹乎、曰、管氏有三帰、官事不摂、焉得倹乎、曰、然則管仲知礼乎、曰、邦君樹塞門、管氏亦樹塞門、邦君為両君之好、有反貼(てん)、管氏亦有反貼(てん)、管氏而知礼、孰不知礼。
[書き下し文]子曰く、管仲(かんちゅう)の器(うつわ)小なるかな。或るひと曰く、管仲は倹なるか。曰く、管氏に三帰あり、官事摂ねず(かねず)、焉んぞ(いずくんぞ)倹なるを得ん。曰く、然らば則ち管仲は礼を知れるか。曰く、邦君(ほうくん)は樹(じゅ)して門を塞ぐ(ふさぐ)、管氏も亦た(また)樹して門を塞げり。邦君、両君の好(よしみ)を為すに反貼(はんてん)あり、管氏も亦た反貼あり。管氏にして礼を知らば、孰か(たれか)礼を知らざらん。
[口語訳]先生が言われた。「(天下の名宰相と言われる)管仲の器量は小さいね。」ある人が尋ねた。「管仲は倹約だったのですか?」先生は言われた。「管氏には三つの邸宅(三人の夫人)があり、官(政府)の仕事も多くの役人を雇って兼務させずに(それぞれの仕事を)専任させていた。どうして倹約といえようか(いや、いえない。)」ある人が尋ねた。「それでは、管仲は、礼を知っていたのですか。」先生は答えられた。「国君は、目隠しの塀を立てて門の正面をふさぐのが礼ですが、管氏も(家臣の身分でありながら)やはり塀を立てて門の目隠しをしました。国君が二人で修好する時には、献酬の盃を置く特別な台を設けるが、管氏も(家臣の身分でありながら)やはり盃を置く特別な台を設けていました。管氏にして礼を知っているとするならば、誰が礼をわきまえていないというのでしょうか(いや、誰もが礼をわきまえていることになってしまいます。)」
[解説]『管鮑の交わり(かんぽうのまじわり)』の故事成語で知られる斉の名宰相であった管仲だが、孔子は管仲が「家臣としての分をわきまえず、君主・諸侯と同等の権限を振るった」という理由で管仲の器量が小さいと苦言している。才気煥発な管仲は、斉の桓公(紀元前685-643頃)を補佐して、桓公を春秋の覇者にした忠臣であるが、孔子は管仲が臣下の身でありながら諸侯だけが持つ特権を侵していたという意味で、管仲は礼の何たるかをまるで理解していなかったと批判しているのである。諸侯の特権とは、「三国から夫人・夫人の妹・夫人の姪をめとることができ、合計9人の妻(正妻と側室)を持つことが出来ること」「門の中央に目隠しのための塀を立てることが出来ること」「他の諸侯(国君)と酒を酌み交わす場合に、特別な台を置けること」である。斉の覇権確立に対する功績(貢献)が余りに大きい管仲は、特例として、家臣の身分でありながらこれらの特権を許され、その特権を行使していたのである。
[白文]23.子語魯大師楽曰、楽其可知已、始作翕如也、従之純如也、激如也、繹如也、以成。
[書き下し文]子、魯の大師に楽を語りて曰く、楽は其れ知るべきなり。始めて作す(おこす)に翕如(きゅうじょ)たり。これを従(はな)ちて純如(じゅんじょ)たり、激如(きょうじょ)たり、繹如(えきじょ)たり、以て成わる(おわる)。(「激」の正しい漢字は、「さんずい」の部分が「白」である。)
[口語訳]先生が、魯の音楽団の楽長に音楽について語られた。「音楽の仕組みは知っています。音楽の最初は、金属の打楽器である鐘が盛大に鳴り響きます。その鐘の音を放って後に、(色々な管弦楽器の)合奏が静かに調和を保って流れます。更に管弦楽器のそれぞれの音が独奏ではっきりと聞こえ、最後に心地よい余韻を長く残しながら終わるのですね。」
[解説]社会秩序や民心の安定に役立つものとして、礼節を伴う音楽をこよなく愛した孔子が、魯の音楽団の楽長に対して音楽を語った部分である。「翕如(きゅうじょ)」とは、勢いよく盛大に鐘のような打楽器が鳴り響く様子である。「純如(じゅんじょ)」とは、管弦楽の色々な楽器が、静かに調和を保って鳴り響く様子である。「激如(きょうじょ)」とは、管弦楽のそれぞれの楽器が独奏のようにはっきり聞こえる様子である。「繹如(えきじょ)」とは、長い余韻を残しながら音楽が流れている情緒的な状況である。
[白文]24.儀封人請見、曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也、従者見之、出曰、二三子何患者於喪乎、天下之無道也久矣、天将以夫子為木鐸。
[書き下し文]儀の封人(ふうじん)、見えん(まみえん)ことを請いて曰く、君子の斯(ここ)に至れるもの、吾(われ)未だ嘗て(かつて)見ることを得ずんばあらずと。従者これを見えしむ。出でて曰く、二三子、何ぞ喪する(そうする)ことを患えん(うれえん)や。天下の道なきこと久し。天は将に夫子(ふうし)を以て木鐸(ぼくたく)と為さんとす。
[口語訳]衛の儀の国境役人が(孔子に)面会したいと願って言った。「ここを通過した人で立派な君子である人と、私はまだお会いしたことがないのです。」そこで、孔子の従者が、国境役人を孔子と会わせてあげた。孔子の元を退出してから国境役人は言った。「諸君、亡命して流浪しているからといって、どうして心配することがあるだろうか(いや、心配する必要などない。)天下に道義が行われなくなって久しい。天(天上の神)は、今にもあの先生(孔子)を、天下に正しい道義を打ち立てるように諸侯にふれ回る木鐸にしようとしているのだから。」
[解説]「封人」とは国境線の防衛に当たっている役人のことであり、忠恕と礼節を備えた真の君主である孔子に見えた(まみえた)国境役人の感動と興奮を表した部分である。国境役人は故郷の魯を追われて亡命している孔子の弟子たちを励ますように、孔子の稀有な才能と天下を支える人徳について賞賛する。故国を失ったことは悲しむべきことだが、天下の逸材である先生(孔子)に従っている以上、あなた達は何も心配することなどないという訳である。「木鐸」とは、現代でもマスメディアの良心と賢慮に期待して「社会の木鐸」という言い方があるが、古代中国では政府が民衆に何かを周知するときに鳴らした「木の鈴」のことを木鐸と言っていた。政治の先行きや社会の問題を客観的に見通すことの出来る知識人や文化人を指して、「社会の木鐸」ということもあるが、情報革命(IT普及)の進展によって、マスメディアや知識人への素朴な信頼が崩れかけており、社会の木鐸として完全に信用できる権威は成り立たない状況にある。
[白文]25.子謂韶、尽美矣、又尽善也、謂武、尽美矣、未尽善也。
[書き下し文]子、韶(しょう)を謂わく(のたまわく)、美を尽くし、又た善を尽くせり。武を謂わく、美を尽せり、未だ善を尽くさず。
[口語訳]先生が、伝説の聖王舜(しゅん)の制作した楽曲である韶(しょう)を評して言われた。『美しさが完全であり、また、善さ(道徳性)においても完全である。』更に、周の武王が作った楽曲である武を評して言われた。『美しさは完全であるが、まだ善(道徳性)において完全とはいえない。』
[解説]古代の聖王の系譜は、尭・舜・禹と続いていくが、舜は尭と戦火を交えることなく禅譲によって帝位を譲られたので、舜の作った韶(しょう)の音楽は「善と美」が完全に調和している。一方、周の武王は殷周革命で武力を用いて、殷(商)の紂王を放伐して帝位を奪取したので、武王の作った武の音楽は「美的」ではあるが、「道義における正しさ(善)」において舜の音楽に劣っているのである。
[白文]26.子曰、居上不寛、為礼不敬、臨喪不哀、吾何以観之哉。
[書き下し文]子曰く、上(かみ)に居て寛(かん)ならず、礼を為して敬まず(つつしまず)、喪に臨みて哀しまずんば、吾何を以てかこれを観んや。
[口語訳]先生が、言われた。『高位高官にありながら、寛容の徳を持たず、礼制の実践をして敬虔な気持ちがなく、葬式に臨席して悲しまないのであれば、どのようにしてその人を評価すればよいのだろうか(いや、どこにも見るべきところなどない。)』
[解説]人臣の位を極めて栄耀栄華をほしいままにしている人たちが、人民に対する寛容の精神を持たず、まごころからの思いを込めずに形式だけの礼を実践し、葬式に赴いても哀悼の感情を表現しない現状を孔子が嘆いている部分である。大きな権力や裁量を持てば持つほど、人は謙虚に寛容に振る舞い、自分の政治に従っている民衆の幸福を願って行動しなければならないという儒教の徳治の理想がよく表れている。
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