『論語 公冶長篇』の書き下し文と現代語訳:2

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の公冶長(こうやちょう)篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の公冶長篇は、以下の3つのページによって解説されています。

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[白文]10.宰予昼寝、子曰、朽木不可彫也、糞土之牆不可朽也、於予与何誅、子曰、始吾於人也、聴其言而信其行、今吾於人也、聴其言而観其行、於予与改是。

[書き下し文]宰予(さいよ)、昼寝(ひるい)ぬ。子曰く、朽木(きゅうぼく)は彫るべからず、糞土(ふんど)の牆(かき)は朽(ぬ)るべからず。予に於(お)いてか何ぞ誅(せ)めん。子曰く、始め吾、人に於けるや、その言を聴きてその行(こう)を信ぜり。今吾、人に於けるや、その言を聴きてその行を観る。予に於いてか是(これ)を改む。

[口語訳]宰予(さいよ)が(学問の途中で)昼寝をした。先生はいわれた。『ボロボロに朽ちた木には彫刻ができない。泥土のかきねに上塗りできない。宰予に対して何を叱ろうぞ。(叱っても無意味である。)』先生はいわれた。『以前は、私は人に対するのに、言葉を聞くだけでその行いまで信用した。今は、私は人に対するのに、言葉を聞くだけでなくその行動まで観察する。(怠惰な)予のことで考えを改めたのである。』

[解説]伝統的な礼を重んじた孔子と、実用的な礼を切り開こうとした宰予(宰我)は、途中から理論的な対立が激しくなっていったという。学問かあるいは仕事の途中につい居眠りしてしまった宰予を見咎めた孔子は、そういった礼制に対する考え方の相違もあって、宰予を厳しく糾弾し批判したとされる。孔子が古代からの礼制を連綿と墨守する「礼」の理想を掲げていたとすれば、宰予は古代からの礼制をより合理的で実用的なものへ段階的に変化させていくのが理想だと考えていた。

[白文]11.子曰、吾未見剛者、或対曰、申長、子曰、長也慾、焉得剛。

[書き下し文]子曰く、吾未だ剛者を見ず。或るひと対えて曰く、申長(しんとう)あり。子曰く、長(とう)は慾あり。焉んぞ剛なるを得ん。(申長の「長(とう)」の正しい漢字は、「きへん(木)」に「長」である。)

[口語訳]先生が言われた。『私は剛健な人物を見たことがない。』或る人が答えて言った。『(あなたの弟子の)申長(しんとう)がいますよ。』先生は言われた。『長(とう)には、欲がある。どうして剛健といえるだろうか?(いや、いえない。)』

[解説]孔子にとっての剛者とは、ただ肉体的な腕力が強いものではなく、精神的な意志も合わせて堅固なものをいう。ある人は、「申長(しんとう)という剛力無双の屈強な勇者がいるじゃありませんか?」と孔子に言った。しかし、孔子にとっては、自分の欲望に打ち勝てない軟弱な精神の持ち主である申長は(いくら膂力に秀でた豪傑であっても)「真の剛者」ではなかったのである。

[白文]12.子貢曰、我不欲人之加諸我也、吾亦欲無加諸人、子曰、賜也非爾所及也。

[書き下し文]子貢曰く、我、人の諸(これ)を我に加えんことを欲せざるは、吾もまた諸(これ)を人に加うることなからんと欲す。子曰く、賜よ、爾(なんじ)の及ぶ所に非ざるなり。

[口語訳]子貢が言った。『私は、他人が自分にしかけて欲しくないことは、私も他人にしかけないようにしたい。』先生は言われた。『賜(子貢)よ、お前にできることではない。』

[解説]頭脳明晰な子貢は、理屈として孔子の説く「忠恕」の徳を深く理解していたので、孔子に向かって「自分がして欲しくないことは、他人にもしないようにしたいものです」と語った。孔子は子貢の「忠恕」の理解が十分に正しいことを認めたが、徳というものは理解するよりも実践することのほうが遥かに遠く難しいことを理論優位の子貢に教えたかったのである。そこで、孔子は「他人を自分と同等に敬う忠恕の徳の実践は、お前に簡単にできることではないぞ」と注意を促した。

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[白文]13.子貢曰、夫子之文章、可得而聞也、夫子之言性与天道、不可得而聞也。

[書き下し文]子貢曰く、夫子の文章は得て聞くべし。夫子の性と天道とを言うは、得て聞くべからざるなり。

[口語訳]子貢が言った。『先生の文化儀礼についての考え方は聞くことができた。しかし、先生が人間の本性と天の道理についておっしゃることは、聞くことが出来なかった。』

[解説]孔子の側近くで長く仕えた子貢は、先生の礼や仁に根ざした行動様式については色々と聞く機会があったが、孔子の語る「人間の本性論」や「天道の原理(道理)」については詳しく聞く機会を得られなかった。儒教では、仁に根ざした道徳的な政治体制と文化形式が重視されるので、孔子は天の道(道理)や人間の本性のようなことについて門弟に丁寧に教えることは余りなかった。しかし、孔子自身は、天の道理(法則)と人間の本性(性質)について正確な理解を持っていたと考えられている。天命に従事して人生を生き、人間の善き本性を発揮して教育を行ったのが孔子なのである。

[白文]14.子路有聞、未之能行、唯恐有聞。

[書き下し文]子路、聞くこと有りて、未だこれを行うこと能わざれば、唯(ただ)、聞く有らんことを恐る。

[口語訳]子路は、先生から何か(教訓)を聞いてそれをまだ行えないうちは、更に何かを聞くことをひたすら恐れた。

[解説]儒教では「正しい道(やり方)」を言葉で考えるよりも実際に実践しているか否かが重視されるので、子路は先生(孔子)から「このようにするのが良い」と教えられた時に、それを実際に実践できないことを強く恥じた。以前、先生から教えられた仁の徳を実践できていないのに、更に先生から新しい道(教訓)について教えられてもそれを実際の行動に移せないのではないかと恐れたのである。理論よりも実践を優先し、弁論よりも行動で正しさを証明するというのが儒教の基本的なあり方である。

[白文]15.子貢問曰、孔文子何以謂之文也、子曰、敏而好学、不恥下問、是以謂之文也。

[書き下し文]子貢問うて曰く、孔文子、何を以てこれを文と謂うか(いうか)。子曰く、敏にして学を好み、下問(かもん)を恥じず、是(ここ)を以てこれを文と謂うなり。

[口語訳]子貢がお尋ねして言った。『孔文子は、何故、文という諡(おくりな)をされたのでしょうか?』先生は言われた。『孔文子は、頭の回転が良くて学問を好み、目下の者に問うことを恥じなかった。だから、彼は文と諡されたのだよ。』

[解説]孔文子は衛の名門の出身で、姓を孔、名を圉(ぎょ)というが、諡として最高の価値を持つ「文」という諡を与えられていた。子貢は孔子に、「なぜ孔文子のような人徳(態度)に問題のある大夫(貴族)が、名誉ある「文」の諡を与えられたのか」と問いかけた。孔子は、即座に孔文子の美点である「頭脳明晰」と「向学心(学問への趣味)」を取り上げて、「文」の諡の理由を説明し、生前の孔文子の醜聞や悪評には一切触れなかった。

既にこの世を去った死者の悪口を言ったり、価値を貶めたりすることを孔子は好まず、敢えて数少ない「美点・長所」に目を向けて称賛したのである。孔文子の悪評とは、衛の君主である霊公の娘と結婚したのをいいことに、衛の国政を恣意的に専横して支配していたことであり、孔文子の生前には孔子も彼を余り快く思っていなかったのである。そのことを知っていた子貢は、「なぜ、君臣の義を踏み外した孔文子が「文」などという立派な諡を送られたのか?」という不満があったのかもしれない。しかし、孔子は子貢の不満に同意して一緒になって悪口を言うことを好まず、「孔文子にも評価されるべき良い面があったのだよ」と語ったのである。

[白文]16.子謂子産、有君子之道四焉、其行己也恭、其事上也敬、其養民也惠、其使民也義。

[書き下し文]子、子産(しさん)を謂わく(のたまわく)、君子の道四つあり。その己を行うや恭(きょう)、その上(かみ)に事うる(つかうる)や敬(けい)、その民を養うや恵(けい)、その民を使うや義。

[口語訳]先生が子産のことを評して言われた。『子産は、君子の道を四つ実践していた。己の身を持すること厳格、君主(目上)に仕えること敬虔、人民を養うには情け深く、人民を使役するには公正であった。』

[解説]鄭(てい)の子産は、公孫僑の字(あざな)である。頭脳明晰で実用的な政治戦略に優れた子産は、春秋期の名門の小国として知られた鄭の独立自尊を守った名宰相として知られる。孔子は鄭の子産を敬愛し、子産には『恭・敬・恵・義』の四つの大きな徳(道)の実践があると評価した。

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[白文]17.子曰、晏平仲善与人交、久而人敬之。

[書き下し文]子曰く、晏平仲(あんぺいちゅう)、善く人と交わり、久しくして人これを敬う。

[口語訳]先生がいわれた。『晏平仲(あんぺいちゅう)という人は、誰とでも良く交流するが、暫くすると皆から敬意を抱かれる。』

[解説]晏平仲とは、晏子(あんし)として知られる晏嬰(あんえい)のことであり、父親の晏弱と共に大国・斉(せい)の名宰相として知られた。徹底した質素倹約と謙虚な挙措に努めて国を栄えさせた聖人君子として、同時代の君子(為政者)から大きな尊敬を集めていた。晏嬰の字が「仲」、諡が「平」であることから晏平仲と呼ばれた。処世にも優れた晏子は、誰からも好かれ尊敬される儒学の理想に近い人格者であり、国内の権力闘争にあっても多くの敵を作ることがなかった。為政者としての完成を目指す君子の道においても、多くの人と交流して、多くの有益な関係を築き上げることが大切なのである。

[白文]18.子曰、臧文仲居蔡、山節藻税(せつ)、何如其知也。

[書き下し文]子曰く、臧文仲(ぞうぶんちゅう)、蔡(さい)を居え(たくわえ)、節(せつ)を山にし税(せつ)を藻(も)にす。何如(いかん)ぞそれ知ならん。
(税(せつ)の正しい漢字は、「のぎへん(禾)」ではなく「きへん(木)」である。)

[口語訳]先生が言われた。『臧文仲は、国君が使う占い用の大亀の甲羅をしまっていたし、天子のように柱の上のますがたに山がたをほり、梁(はり)の上の短い柱に藻を描いた。どうして、それで智者だといえるだろうか?(いや、いえない。)』

[解説]臧文仲は魯国で語り継がれた著名な賢者であったが、臧文仲は明らかに天子(君主)にしか許されていない礼制の制約を破って、自分を天子になぞらえるような越権の振る舞いをしていた。安定した社会秩序を実現する政治にとって、礼制の遵守が一番大切だと考えていた孔子は、幾ら学問に精通した碩学(賢者)だといっても、「礼」を無視するようでは本当の智者とはいえないと批判したのである。

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[白文]19.子張問曰、令尹子文三仕為令尹、無喜色、三已之、無慍色、旧令尹之政、必以告新令尹、何如、子曰、忠矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉得仁、崔子弑斉君、陳文子有馬十乗、棄而違之、至於他邦、則曰、猶吾大夫崔子也、違之、至一邦、則又曰、猶吾大夫崔子也、違之、何如、子曰、清矣、曰、仁矣乎、曰、未知、焉得仁。

[書き下し文]子張問うて曰わく、令尹子文(れいいんしぶん)、三たび仕えて令尹と為れるも、喜ぶ色なし。三たびこれを已(や)めらるるも、慍(いか)れる色なし。旧き令尹の政、必ず以て新しき令尹に告ぐ。何如(いかん)。子曰く、忠なり。曰く、仁なりや。曰く、いまだ知らず、焉んぞ(いずくんぞ)仁なるを得ん。崔子(さいし)、斉君(せいくん)を弑(しい)す。陳文子、馬十乗あり、棄ててこれを違る(さる)。他邦(たほう)に至りて則ち曰く、猶(なお)吾が大夫(たいふ)崔子がごときなりと。これを違る(さる)。一邦(いっぽう)に至りて、則ちまた曰く、猶吾が大夫崔子がごときなりと。これを違る。何如。子曰く、清し。曰く、仁なりや。曰く、未だ知らず、焉んぞ仁なるを得ん。

[口語訳]子張がお尋ねした。『楚の令尹(れいいん)の子文は、三度令尹に就任したが嬉しそうな顔もせず、三度令尹をやめさせられても怨みがましい顔をせず、前の令尹の政治を必ず新しい令尹へと引き継ぎました。いかがでしょうか?』先生はいわれた。『それは誠実(忠実)だ。』子張はまたお尋ねした。『仁でしょうか?』先生が答えられた。『彼は智者ではない。どうして、仁であるといえるだろうか?(いや、いえない。)』

更に、子張がお尋ねした。『(斉の家老の)崔子が斉の君主(荘公)を殺した時、(斉の家老の)陳文子は4頭立ての10台の戦車を持っていましたが、それを捨てて(斉を)立ち去りました。よその国に行き着くと、『やはり、ここにも斉の家老の崔子と同じような人物がいる。』といってそこを去り、別の国に行くと、また『ここにも斉の家老の崔子と同じような人物がいる。』といってそこを去りました。これは、いかがなものでしょうか?』先生はいわれた。『清潔だね。』子張が尋ねた。『仁といえるでしょうか?』先生がお答えした。『彼は智者ではない。どうして仁ということが出来るだろうか?(いや、出来ない。)』

[解説]門弟の子張は、「仁」の徳を高潔な人格を持って体現した人物として、楚の名宰相であった子文と、斉の重臣であった陳文子を挙げて、孔子に「彼らは仁であるといえるでしょうか?」と尋ねてみた。孔子は、当時の首相に当たる令尹の重責にありながら、その権力に頓着せず粛々と伝統に従って職務をこなす子文を「誠実である」と高く評価したが、知力が十分ではないのでまだ「仁」ということはできないとした。斉の主君に忠実な家老である陳文子についても、「清潔である」と高く評価しながらも、知力が不足しているのでまだ「仁」ではないとした。孔子の理想とする「仁者」とは、「忠義・清浄」といった人格的な高潔さを備えた人を単純に指すのではなく、時勢を見極めて社会(天下)に貢献するだけの知力を備えた「智者」を包摂するものなのである。

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