『論語 公冶長篇』の書き下し文と現代語訳:1

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孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の公冶長(こうやちょう)篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の公冶長篇は、以下の3つのページによって解説されています。

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[白文]1.子謂公冶長、可妻也、雖在縲紲之中、非其罪也、以其子妻之。

[書き下し文]子、公冶長(こうやちょう)を謂わく(のたまわく)、妻(めあわ)すべし。縲紲(るいせつ)の中(うち)に在りと雖(いえど)も、その罪に非ざるなりと。その子を以てこれに妻す。

[口語訳]先生(孔子)が公冶長を評して言われた。『公冶長は娘を嫁にやってもよいほどの人物である。罪人として牢獄に入れられたこともあったが、実際には無実であった。』そして、自らの娘を公冶長の嫁とした。

[解説]公冶長は鳥の言葉を理解して伝達するという特殊技能を持っていたようだが、その詳細については明らかではない。孔子がその人物と能力を見込んで、自分の娘を嫁がせたほどの人であるが、論語の他の篇に「公冶長」の名前や事績(問答)が残っていないことから、実際には儒家として大成しなかったとも言われる。

[白文]2.子謂南容、邦有道不廃、邦無道免於刑戮、以其兄之子妻之。

[書き下し文]子、南容を謂わく(のたまわく)、邦(くに)に道あれば廃て(すて)られず、邦に道なきときも刑戮に免るべしと。その兄の子(こ)を以てこれに妻(めあわ)す。

[口語訳]先生は南容を評して言われた。『国家に正しい政治が行われている時にはきっと用いられ、正しい政治が行われていない時にも刑罰を科されることはないだろう。』そして、自分の兄の娘を南容の嫁にした。

[解説]氏は南宮、名はトウ、字は子容といい、略して南容と呼ばれていた人物を、孔子は自分の兄の娘の夫とした。南容は、魯の有力貴族であった三家老の一つ孟孫氏の令息であり、身柄のしっかりした人物だったので、孔子は自分の兄の娘の婿にしても問題ないと判断したようである。自分の娘の婿として公冶長を迎えたように、孔子は自分の娘の婿の場合には家柄や身分にこだわらなかった。しかし、兄の娘の婿を推薦する場合には「正義のある国で重臣となり、正義のない国でも刑罰を科されない」ような無難な人物である南容を選んだのであった。

[白文]3.子謂子賤、君子哉若人、魯無君子者、斯焉取斯。

[書き下し文]子、子賤(しせん)を謂わく、君子なるかな、若(かくのごと)き人。魯に君子なかりせば、これ焉にか(いずくにか)斯(これ)を取らんと。

[口語訳]先生(孔子)が子賤を評して言われた。『子賤のような人こそ、正に君子だね。魯国に君子がいないとしたら、この子賤はどこからその徳を求めたのだろうか?』

[解説]孔子は非常に若い子賤を君子として高く評価していたが、当時、衰亡の気運を見せていた魯には徳と実力を兼ね備えた君子がいないという悪評が立っていたらしい。そこで、孔子は自慢の門弟である子賤を指して、「このような立派な君子がいるのだから、魯国に優れた君子がいないなどという話はありえない」と強く反駁したのである。

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[白文]4.子貢問曰、賜也何如、子曰、汝器也、曰、何器也、曰、瑚連也。

[書き下し文]子貢、問うて曰く、賜(し)や何如(いかん)。子曰く、汝(なんじ)は器(うつわ)なり。曰く、何の器ぞや。曰く、瑚連(これん)なり。
(「連」の正しい文字は、「おうへん(王)」に「連」である。)

[口語訳]子貢が先生(孔子)に尋ねて言った。『私はいかがでしょう?』先生は言われた。『お前は器である。』子貢が言った。『何の器でしょうか?』先生が言われた。『宗廟のお供えを盛り付ける瑚連(これん)の器だよ。』

[解説]子貢が先生に「自分はどのような存在か?」と自分の評価について問いかけたところ、孔子から「お前は、先祖をお祭りする宗廟の瑚連(これん)のような器だ」と教えられた。孔子は「為政篇」で「君子は器ならず」と言っているので、自信家で自己過信の傾向のあった子貢をやや戒める気持ちを持って「汝は器なり」といった。しかし、孔子は才気抜群の優秀な子貢の実力を十分に認めていたので、「器は器でも、最高級の瑚連(これん)の器だ」と子貢を評価したのである。

[白文]5.或曰、雍也仁而不佞、子曰、焉用佞、禦人以口給、屡憎於人、不知其仁也、焉用佞。

[書き下し文]或るひと曰く、雍(よう)は仁にして佞(ねい)ならず。子曰く、焉(いずく)んぞ佞を用いん、人を禦(ふせ)ぐに口給(こうきゅう)を以てすれば、しばしば(屡)人に憎まる。その仁を知らず、焉んぞ佞を用いん。

[口語訳]ある人が言われた。『雍(よう)という人物は仁の徳をもっているが、弁舌が上手くない。』先生が言われた。『どうして弁舌が達者である必要があるのか?口先の弁論で人を言い負かしても、人から恨まれやすくなるだけだ。雍が仁者であるか分からないが、どうして弁舌が達者である必要があるのか?(いや、ない。)』

[解説]孔子は、巧言令色の弁士を好まなかったように、弁舌爽やかな修辞(表現技法)を用いて巧みに人を言いくるめようとする人間を信用しなかったようである。ある人が、自分の家臣である雍(よう)の口下手なところを嘆いて孔子に相談すると、孔子は『弁舌が過度に達者であると人から恨まれやすくなるだけだから、仁者となるのに必ずしも雄弁である必要はない』と諭したのである。

[白文]6.子使漆雕開仕、対曰、吾斯之未能信、子説。

[書き下し文]子、漆雕開(しつちょうかい)をして仕えしむ。対えて曰く、吾は斯(これ)をこれ未だ信ずること能わず。子説ぶ(よろこぶ)。

[口語訳]先生が漆雕開(しつちょうかい)を仕官させようとした。漆雕開は答えて言った。『私は、仕官に未だ自信が持てません。』先生はこれを聞いて喜ばれた。

[解説]孔子が門弟の漆雕開を官吏に推薦した時、漆雕開は官吏になるのにまだ十分な人徳と実力を蓄えていない(仁を実現する優秀な官吏になる自信がない)ということでこれを辞去した。孔子は、その謙虚さと理想の高さを聞いて満足し、仁者としての門弟の予想以上の成長ぶりを喜ばれたのである。

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[白文]7.子曰、道不行、乗桴浮於海、従我者其由也与、子路聞之喜、子曰、由也好勇過我、無所取材。

[書き下し文]子曰く、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、それ由(ゆう)か。子路(しろ)これを聞きて喜ぶ。子曰く、由は勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所なからん。

[口語訳]先生が言われた。『(中国では)正しき道が行われない。筏(いかだ)に乗って海に浮かぼう(海の向こうの遥か遠くの国に行こうか)。私についてくる者は、由であろうか。』子路がそれを聞いて喜んだ。先生は言われた。『由は、武勇(勇敢)を好むことは私以上である。しかし、筏の材料は得るところがないな。』

[解説]晩年の孔子は、諸侯にその献言を用いられることもなく、徳治政治の実現に対してやや悲観的になっていた。そこで、愛弟子の一人である子路に向かい、『筏にでも乗って、海の向こうの東夷の国にでも行き、そこで仁や礼の徳を普及するかな』とシニカルに問いかけたのである。孔子は、勇敢で剛毅な子路の性質を深く愛して期待していたが、同時に、子路の後先を省みない無鉄砲なまでの直情径行ぶりを危惧していた部分もあったという。

[白文]8.孟武伯問、子路仁乎、子曰、不知也、又問、子曰、由也、千乗之国、可使治其賦也、不知其仁也、求也何如、子曰、求也、千室之邑、百乗之家、可使為之宰也、不知其仁也、赤也何如、子曰、赤也、束帯立於朝、可使与賓客言也、不知其仁也。

[書き下し文]孟武伯(もうぶはく)問う、子路仁なるか。子曰く、知らざるなり。また問う。子曰く、由や、千乗の国、その賦(ふ)を治めしむべし、その仁を知らざるなり。求や何如(いかん)。子曰く、求や、千室の邑(ゆう)、百乗の家、これが宰(さい)たらしむべし、その仁を知らざるなり。赤(せき)や何如。子曰く、赤や、束帯して朝(ちょう)に立ち、賓客と言わしむべし、その仁を知らざるなり。

[口語訳]孟武伯が尋ねて聞いた。『子路は仁ですか?』先生は言われた。『分かりません。』更に尋ねたので、先生は言われた。『由(子路)は、(千台の戦車を備えた)諸侯の大国でその軍政を担当させることが出来ますが、仁であるかどうかは分かりません。』『求はどうでしょうか?』先生は言われた。『求(冉有)は、千戸の町や(百台の戦車を備えた)家老の家でその執政を務めさせることは出来ますが、仁であるかどうかは分かりません。』『赤(公西華)はどうでしょうか?』先生は言われた。『赤(公西華)は、衣冠束帯の礼服をつけて朝廷で官位に就き、客人と応対させることは出来ますが、仁であるかどうかは分かりません。』

[解説]魯に帰国した孔子と魯の有力貴族である孟孫氏(三家老の一つ)の若い令息との対話である。孟孫氏の孟武伯とは孟懿子(もういし)のことである。孔子は孟武伯に自分の門弟に「仁」があるかと問われて、それに直接の回答を与えずそれぞれの弟子が持つ能力と適性を的確に評価している。子路は勇敢で軍略に優れていたので、大国の賦(軍務全般)を担当するのに適しているという。冉有は細かな行政事務に精通していたので、大貴族の邸宅において執事(執政)を司るのに適していると評した。公西華は年少者ではあるが、礼節を弁えており外交交渉にも優れていたので、衣冠束帯を身に付けて朝廷で官職に就くのに向いているとした。

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[白文]9.子謂子貢曰、汝与回也孰愈、対曰、賜也何敢望回、回也聞一以知十、賜也聞一以知二、子曰、弗如也、吾与汝弗如也。

[書き下し文]子、子貢に謂いて曰(のたま)わく、汝(なんじ)と回(かい)と孰(いず)れか愈(まさ)れる。対(こた)えて曰く、賜(し)は何を敢えて回を望まん。回は一を聞いて以て十を知る。賜は一を聞いて以て二を知るのみ。子曰く、如かざるなり。吾も汝とともに如かざるなり。

[口語訳]先生が子貢に向かって言われた。『お前と回とは、どちらが優れているか?』子貢はお答えして言った。『私ごときが、どうして回(顔淵)を望むことができましょう。顔淵は一を聞いて十を悟ります。私などは一を聞いてそれで二を知るだけです。』先生は言われた。『(お前は顔淵に)及ばない。私もお前と一緒で顔淵には及ばないよ。』

[解説]子貢(由)も顔淵(回)も孔子の誇る高弟で、世に知られた英才であったが、孔子に「お前と顔回とどちらが優れているだろうか?」と問われた子貢は謙譲の徳を発揮して「私などは、一を聞いて十を知る天才の顔回の足元にも及びません」と答えた。それを聞いた孔子は、子貢の謙虚な回答に満足して、「お前が顔回に及ばないように、私もあの優れた顔回には遠く及ばないのだよ」と謙虚に返したのである。

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