孔子と孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した『論語』の雍也篇の漢文(白文)と書き下し文を掲載して、簡単な解説(意訳や時代背景)を付け加えていきます。学校の国語の授業で漢文の勉強をしている人や孔子が創始した儒学(儒教)の思想的エッセンスを学びたいという人は、この『論語』の項目を参考にしながら儒学への理解と興味を深めていって下さい。『論語』の雍也篇は、以下の3つのページによって解説されています。
[白文]21.子曰、中人以上、可以語上也、中人以下、不可以語上也。
[書き下し文]子曰く、中人(ちゅうじん)より以上には、以て上(かみ)を語るべく、中人より以下には、以て上を語るべからず。
[口語訳]先生が言われた。『平均以上の知性・教養を持つ人物には、高度な難しい話をしてもよい。しかし、平均以下の知性・教養の持ち主に、高度な難しい話をしても得るものがない。』
[解説]孔子は知性の高低に関しては『生得説(遺伝説)』を取っていた雰囲気があるが、それは、生れ落ちた身分によって教育水準が決まることの多かった春秋戦国時代という時代背景からの影響も大きい。しかし、孔子は、人並みの平均的な知性があれば、『より高度な知識・技術・教養』を学習できる可能性があると考えており、『後天的な学習行動の有効性』は認めていると考えて良いだろう。
[白文]22.樊遅問知、子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣、問仁、子曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣。
[書き下し文]樊遅(はんち)、知を問う。子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して遠ざく、知と謂うべし。仁を問う。子曰く、仁者は先ず難んで(なやんで)後に獲る、仁と謂うべし。
[口語訳]樊遅(はんち)が知について尋ねた。先生はお答えになられた。『人民に対して人間としての義務を果たす大切さを教え、鬼神(祖先・神霊)を尊敬しながら、遠ざけておくようにする。これが知と言えるだろう。』。樊遅は仁についても質問した。先生は言われた。『仁者は、最初に難しい問題を片付けて、後で実利を得るようにする。これが仁と言えるだろう。』
[解説]孔子が、知的な理解力や解釈能力が余り高くなかった樊遅に対して、『知・仁』について具体例を挙げながら答えた部分である。『知』については、人民の統治と教育の基本を伝え、祖先の祭祀については敬意を抱きながら近づきすぎないようにと語っている、『仁』については、極めて実践的な士大夫(官吏)のエートス(行動様式)が説かれており、まずは自分が行うべき困難な仕事を片付けて、その後に利益を得るようにしなさいという常識的な回答を与えているのである。これは、『弟子の知的能力・理解力』に合わせて適切な解答を与えているという意味で、仏教の始祖・釈迦の『待機説法』に近いものであると言えよう。
[白文]23.子曰、知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静、知者楽、仁者寿。
[書き下し文]子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿し(いのちながし)。
[口語訳]先生がいわれた。『知者は水を楽しんで、仁者は山を楽しむ。知者は動的であり、仁者は静的である。知者は人生を楽しみ、仁者は人生を長生きすることになる。』
[解説]孔子の想定する『典型的な知者』と『典型的な仁者』の差異を、イメージ的にあるいは実際的に説明した章句である。知者は『水』のように臨機応変に時流に対応していくことができるが、仁者は『山』のように泰然自若としていてその場限りの流行に流されることなどはない。知者はアクティブに知性を用いながら実際の社会で活躍し続けるが、仁者は功績や名声を手に入れるような活動には興味が乏しく、静謐で道徳的な人生に時を費やす。自分の才覚を存分に活かしながら楽しむ知者と、自己と他者の調和を図りながら健康に長寿の人生を享受できる仁者との違いを分かりやすく語っている。
[白文]24.子曰、斉一変、至於魯、魯一変、至於道。
[書き下し文]子曰く、斉、一変せば魯に至り、魯、一変せば道に至らん。
[口語訳]先生が言われた。『斉国を一度、変革すれば魯国のようになり、魯国を一度、変革すれば理想の道(政治)へと到達することが出来る。』
[解説]孔子が理想としていた政体は『周王朝の礼を遵守する封建制』であり、孔子がもっとも深く敬愛していたのは周王に大政奉還をした周公旦(しゅうこうたん)である。孔子の祖国である『魯』は周公旦が建国した国であり、桓公の時に中華大陸を制覇するくらいの勢威を誇った『斉』は周の武王を補佐した名軍師の太公望呂尚(たいこうぼう・りょしょう)が建国した国である。周の王政復古を理想とした孔子は戦国時代の諸国の中で、周の礼制の遺風を僅かに残している魯と斉にもっとも強いシンパシーと期待を感じており、魯と斉を政治改革することで戦国諸侯に『模範的な政治(新たな社会秩序)』を示せると考えていたのである。
[白文]25.子曰、觚不觚、觚哉、觚哉。
[書き下し文]子曰く、觚(こ)、觚ならず、觚ならんや、觚ならんや。
[口語訳]先生がいわれた。『伝統的な觚(こ)の杯(さかずき)も、本来の觚の形を失った。これが觚であろうか。これが觚であろうか。』
[解説]觚(こ)とは、お酒を飲むための杯のことであり、この形が古来からの伝統的な形を失ってしまったことを孔子は嘆いているのである。何故なら、孔子は『古代の觚』を『古代の周礼』に重ね合わせているからであり、儒教が基本的に保守思想である以上、伝統的な形態や慣習が無闇に変化させられることを好ましくないと考えていたからである。
[白文]26.宰我問曰、仁者雖告之曰井有仁焉、其従之也、子曰、何為其然也、君子可逝也、不可陥也、可欺也、不可罔也。
[書き下し文]宰我(さいが)、問いて曰く、仁者はこれに告ぐるに井(せい)に仁ありと曰うと雖も、それこれに従わんか。子曰く、何為れぞ(なんすれぞ)それ然らんや。君子は逝かしむべきなり、陥らしむべからざるなり。欺くべきなり、罔し(あやうし)ことあるべからざるなり。
[口語訳]宰我(さいが)がお尋ねして言った。『仁者は、(嘘であっても)井戸の中に人が落ちたと聞けば、即座に井戸に飛び込むでしょうか。』。孔子がお答えして言われた。『どうしてそんなことをするだろうか。君子であればそこまで行かせることはできるが、井戸の中にまで落とすことは出来ない。君子を騙すことはできるが、状況を確認しないままに飛び込むような無知には出来ない。』
[解説]孔子は姑息な才知と弁論に優れた宰我を余り気に入っていなかったといわれるが、宰我は孔子を困らせるような質問を意図的にするような性質があったという。この章句の質問も、他人への思いやりが深い仁者であれば、『井戸に誰かが落ちている』という噂を聞けば、すぐにその井戸に飛び込むべきなのでしょうかという孔子の仁徳の賢明さを試す質問をしている。しかし、孔子は、仁者とは愚者のことではないとして、『井戸に本当に人間が落ちていれば飛び込むが、状況を正確に理解せずに無闇やたらに飛び込むものではない』という説明をしている。狡知と弁論の才能に秀でた人であれば、仁者を一時的に騙して欺くことはできるかもしれない。しかし、たとえ仁者が騙されて井戸まで連れていかれたとしても、井戸の内部の状況(人間の有無)を確認せずにいきなり飛び込ませられるようなことはないということである。
[白文]27.子曰、君子博学於文、約之以礼、亦可以弗畔矣夫。
[書き下し文]子曰く、君子博く(ひろく)文を学びて、これを約するに礼を以てすれば、亦以て畔かざるべし(そむかざるべし)。
[口語訳]先生が言われた。『学問に励む君子が、幅広く文献・書物を学んで、礼によってその知識を集約するならば、正しい道徳の規範から外れることはないだろう。』
[解説]儒教では勤勉な学術研究を奨励するが、ただひたすらに膨大な参考文献を読んで知識を集めても『本当』の学問にはならない。孔子は『書物から得た各種の知識』を、社会秩序や人間関係の根本にある『礼』と結びつけることで、人間として正しい道を歩み続けることが出来ると教えたのである。
[白文]28.子見南子、子路不説、夫子矢之曰、予所否者、天厭之、天厭之。
[書き下し文]子、南子(なんし)を見る。子路(しろ)説ばず(よろこばず)。夫子(ふうし)これに矢いて(ちかいて)曰く、予(われ)、否む(こばむ)ところのものは、天これを厭てん(すてん)、天これを厭てん。
[口語訳]先生が南子に会われた。弟子の子路はこれを不満に思った。その為、孔子は子路に誓約して言われた。『私にもし間違いがあったならば、天が私に罰を与えるであろう、天が私に罰を与えるであろう。』
[解説]南子は衛の霊公の夫人で、美麗な容姿を持ち好色であったことで知られる女性だが、孔子は南子からの相次ぐ謁見の要請を断りきれなかった。一説には、美貌を誇る南子が孔子を性的に誘惑して、孔子はその魅力的な誘いを拒みきれなかったという話があるが、それが事実であるか否かは分からない。恐らくは、そういった孔子のスキャンダルが衛国や周辺国に噂話のように流布してしまったのだろうが、それを知った男女関係に厳しい子路が不快に思って、孔子に詰め寄ったのである。孔子はこういった噂話のスキャンダルが事実無根であることを主張し、もし自分にやましいところがあれば天が神罰を下すであろうと誓約したのである。孔子の恋愛話や男女関係を匂わせる論語の章句はこの部分しかないが、こういった孔子の噂話的なスキャンダルを敢えて掲載していることを面白く感じる。
[白文]29.子曰、中庸之為徳也、其至矣乎、民鮮久矣。
[書き下し文]子曰く、中庸の徳たる、それ至れるかな。民鮮なき(すくなき)こと久し。
[口語訳]先生が言われた。『中庸の徳は、至高の徳であるな。しかし、人民に中庸の徳が少なくなってから、随分と長い時が流れたものだ。』
[解説]孔子は、『過剰な行き過ぎ』や『過度の不足』を抑止して、過不足なく適度に行動する『中庸の徳』の大切さを繰り返し説いている。孔子の生きた時代は、弱肉強食の風潮が強まった乱世の時代であり、社会全体から適度に物事を行うという『中庸の徳』が失われてしまっていたのである。
[白文]30.子貢曰、如有博施於民、而能済衆、何如、可謂仁乎、子曰、何事於仁、必也聖乎、堯舜其猶病諸、夫仁者己欲立而立人、己欲達而達人、能近取譬、可謂仁之方也已。
[書き下し文]子貢(しこう)曰く、如し能く博く民に施して能く衆を斉わば(すくわば)何如(いかん)。仁と謂うべきか。子曰く、何ぞ仁を事とせん、必ずや聖か。尭・舜もそれ猶(なお)諸(これ)を病めり。夫れ(それ)仁者は己(おのれ)を立てんと欲して人を立たしめ、己達せんと欲して人を達せしむ。能く近く譬え(たとえ)を取る。仁の方(みち)と謂うべきのみ。
[口語訳]子貢(しこう)が質問をした。『もし人民に広く恩恵を与えて、大衆を救済することができるならばどうでしょうか。これを仁と呼んでもいいでしょうか。』。先生がお答えになられた。『どうしてそれが仁のみの問題に留まるだろうか。それは聖である。尭・舜の聖人でさえ、この問題を気に掛けていた。まず、仁者は自己が立ちたいと思えば、他人を立たせ、自分が達成したいと思えば他人に達成させるのである。仁者は身近な例えを用いて実践する。これが、仁徳の道というものである。』
[解説]孔子の弟子の子貢が、人民の福祉の向上や苦悩する万民の救済といった壮大な目的を提示して、これを『仁』であるかと孔子に問うた章句である。孔子は、あらゆる人々の苦悩や困窮を救済する道は、儒教の説く『仁』の徳を遥かに超えた聖人君子のみが行い得る『聖』の道であるという。仁者は、古代の伝説的な聖王(聖人)である尭・舜のような奇跡的な『聖』の道を実践することは通常できない。孔子は、まずは『現実的な仁の目標』を定めて他人を自分のできるところから助けていくことが大切であると説き、『理想的な聖(万民の広範な救済)』よりも『現実的な仁(他者への思いやりと支援)』の実践に重点を置いたほうが良いと考えたのである。
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