『今昔物語集』の巻第24第16話

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『今昔物語集』は平安時代末期の12世紀初頭~半ばに掛けて、収集編纂されたと考えられている日本最大の古説話集です。全31巻(現存28巻)で1,000以上のバラエティ豊かな説話のエピソードが収載されていますが、作者は未詳とされています。一説では、源隆国や覚猷(鳥羽僧正)が編集者ではないかと推測されていますが、実際の編集者が誰であるのかの実証的史料は存在しません。8巻・18巻・21巻が欠巻となっています。

『今昔物語集』は、『天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)』の三部構成となっており、それぞれが『仏法・世俗の部』に分けられています。因果応報や諸行無常の『仏教的世界観』が基底にあり、『宗教的・世俗的な教訓』を伝える構成のエピソードを多く収載しています。例外を除き、それぞれの説話は『今は昔』という書き出しの句で始められ、『と、なむ語り伝えたるとや』という結びの句で終わる形式で整えられています。

参考文献

『今昔物語集』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),池上洵一『今昔物語集 本朝部(上・中・下)』『今昔物語集 天竺・震旦部』(岩波文庫)

[古文・原文]

巻第24第16話.今は昔、天文博士安倍晴明といふ陰陽師あり。古(いにしへ)にも恥ぢず、やむごとなかりける者なり。幼の時、賀茂忠行(かものただゆき)といひける陰陽師に随ひて、昼夜にこの道を習ひけるに、いささかも心もとなきことなかりける。

然るに、晴明若かりける時、師の忠行が下渡りに夜歩きに行きける供に、歩(かち)にして車の後ろに行きける。忠行、車の内にしてよく寝入りにけるに、晴明見けるに、えもいはず恐ろしき鬼ども、車の前に向かひて来けり。

晴明これを見て驚きて、車の後ろに走り寄りて、忠行を起こして告げければ、その時にぞ忠行驚き覚めて鬼の来たるを見て、術法(じゅっぽう)をもつて忽ち(たちまち)に我が身をも恐れなく、供の者どもをも隠し、平らかに過ぎにける。

その後、忠行、晴明を去り難く思ひて、この道を教ふること瓶(かめ)の水を移すがごとし。されば終(つい)に晴明、この道につきて公私に使はれて、いとやむごとなかりけり。

然る間、忠行(ただゆき)失せて後、この晴明が家は土御門(つちみかど)よりは北、西の洞院(とういん)よりは東なり。その家に晴明が居たりける時、老いたる僧来たりぬ。供に十余歳ばかりなる童(わらわ)二人を具したり(ぐしたり)。

晴明、これを見て、「なぞの僧の、いづこより来たれるぞ」と問へば、僧、「己は播磨国の人に侍り(はべり)。それに陰陽の方をなむ習はむ志(こころざし)侍る。然るにただ今この道にとりてやむごとなくおはします由(よし)を承りて、少々のこと習ひ奉らむと思ひ給ひて参り候ひつるなり」と言へば、晴明が思はく、この法師はこの道にかしこき奴にこそありぬれ、それが我を試みむと来たるなり、此奴(こやつ)にわろく試みられては口惜しかりなむかし、試みにこの法師、少し引き陵ぜむ(りょうぜん)、と思ひて、この法師の供なる二人の童は、識神(しきじん)の仕へて来たるなり、もし識神ならば忽ちに召し隠せ、と心の内に念じて、袖の内に二つの手を引き入れて、印を結び、ひそかに呪を読む。

その後、晴明、法師に答へていはく、「しか承りぬ。但し今日は自ずから暇なきことあり。速やかに帰り給ひて後に吉日をもつておはせ。習はむとあらむことどもは教え奉らむ」と。法師、「あなかしこ」と言ひて、手を押しすりて額に当てて、立ち走りて去ぬ(いぬ)。

今は一二町(いちにちょう)は行きぬらむと思ふほどに、この法師また来たり。晴明見れば、然るべき所々(ところどころ)車宿り(くるまやどり)などを覗き歩くめれ。覗き歩きて後に、前に寄り来たりていはく、「この供に侍りつる童部(わらわべ)、二人ながら忽ちに失せて候ふ。それ給はり候はむ」と。

晴明がいはく、「御坊は希有(けう)のこと言ふ者かな。晴明は何の故にか人の御供(おんとも)ならむ童部をば取らむずるぞ」と。法師いはく、「我が君大いなる理(ことわり)に候ふ。なほ免し(ゆるし)給はらむ」と、わびければ、その時に晴明がいはく、「よしよし。御坊の人試みむとて、識神を使ひて来たるが安からず思ひつるなり。さやうには異人(ことひと)をこそ試みめ。晴明をばかくせでこそあらめ」と言ひて、袖に手を引き入れて物を読むやうにして暫くありければ、外(と)の方よりこの童部二人ながら走り入りて、法師の前に出で来たりけり。

その時に法師のいはく、「誠にやむごとなくおはします由を承りて、試み奉らむと思ひ給ひて参り候ひつるなり。それに識神を古より使ふことは安く候ふなり。人の使ひたるを隠すことは更にあるべくも候はず。あなかたじけな。今よりひとへに御弟子(みでし)にて候はむ」と言ひて、忽ちに名符(みょうぶ)を書きてなむ取らせたりける。

また、この晴明、広沢の寛朝僧正(かんちょうそうじょう)と申しける人の御坊に参りて、もの申し承りける間、若き君達(きんだち)・僧どもありて、晴明に物語などしていはく、「その識神を使ひ給ふなるは、忽ちに人をば殺し給ふらむや」と。

晴明、「道の大事をかくあらはにも問ひ給ふかな」と言ひて、「安くはえ殺さじ。少し力だに入れて候へば必ず殺してむ。虫などをば塵ばかりのことせむに必ず殺しつべきに、生くやうを知らねば、罪を得ぬべければ由なきなり」など言ふほどに、庭より蝦蟇(かえる)の五つ六つばかり踊りつつ池の辺りざまに行きけるを、君達、「さは、あれ一つ殺し給へ。試みむ」と言ひければ、晴明、「罪造り給ふ君かな。さるにても試み給はむとあれば」とて、草の葉を摘み切りて物を読むやうにして蝦蟇の方へ投げ遣りたりければ、その草の葉、蝦蟇の上にかかると見けるほどに、蝦蟇は真平に○○て死にたりける。僧どもこれを見て、色を失ひてなむおぢ怖れける。

この晴明は家の内に人なき時は、識神を使ひけるにやありけむ、人もなきに蔀(しとみ)上げ下ろすことなむありける。また、門もさす人もなかりけるに、さされなむなどなむありける。かやうに希有のことども多かりとなむ語り伝ふる。

その孫、今に公(おおやけ)に仕えてやむごとなくてあり。その土御門の家も伝はりの所にてあり。その孫、近くなるまで識神の声などは聞きけり。

されば晴明なほ只者にはあらざりけりとなむ語り伝へたるとや。

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[現代語訳]

今は昔、天文博士の安倍晴明(あべのせいめい, 921-1005)という陰陽師がいた。昔の英傑・俊才にも恥じることがない、優れた人物である。幼少期から賀茂忠行(かものただゆき)という陰陽師の大家に従って、昼も夜もなく陰陽道を学び続け、その実力には何の不安や問題も無かった。

さて、この晴明がまだ若かった時期に、師匠・忠行が下京の辺りに夜間に外出すると聞いて、そのお供をしていた。晴明は徒歩で師が乗る牛車の後ろに従っていたが、忠行は牛車の中で熟睡していた。

晴明が牛車の前方に視線を向けると、何とも恐ろしい様子の鬼たちが、こちらに向かってやってくる。驚いた晴明はすぐに牛車に走り寄って、忠行を起こして鬼が迫る事態を報告した。

目を覚ました忠行は、鬼のやって来るのを見ると、隠形(おんぎょう)の術を用いて、すぐに我が身も従者の姿も、鬼たちの目から隠してしまった。そのお陰で、無事にその現場をやり過ごすことができたのである。

その後、忠行は晴明の側を離れがたいと思うようになり、まるで瓶(かめ)の中の水を別の容器に移し替えるかのように、陰陽道の奥義をすべて伝授した。その教育・指導によって、晴明は、陰陽道の分野で、公私にわたって重用されるようになったのである。

そして、忠行が亡くなった後のことである。晴明の家は土御門大路からは北、西の洞院大路からは東にあったが、ある日、一人の年老いた僧の装束をした陰陽師が訪ねてきた。お供に、十歳ほどの子どもを二人連れている。晴明が「御坊はどちらさまですか?どちらからやって来ましたか?」と問うと、老僧は「私は播磨の国(現在の兵庫県)の者です。私は陰陽道は志していますが、晴明先生がこの道で特に優れた能力を持っていると聞いて、少々ご指導をして頂きたいと思って参りました」と答えた。

その時、晴明は内心で「この法師は陰陽道でかなりの実力を持っているようだ。きっと私の力を試してみようと思ってやって来たのに違いない。ここで試されて失敗してしまったら恥をかいてしまう。その前にこっちからこの老僧の実力を試してやるか」とつぶやいた。

そこで、「この法師のお供をしている二人の子どもの正体は識神(陰陽師が操作可能な人間ではない霊的存在・紙型などに命を吹き込んで識神にしたりもする)だろう。もし識神ならすぐに隠してしまえ」と念じて、袖の中に両手を入れ、指を組み合わせて法印を結び、ひそかに呪文を唱えた。

そのまま何も知らない風を装って、晴明は法師に「私に教えを受けたいという御用は承知しました。ただ今日は用事があって時間が無いので、このままお引き取り願います。後日、改めて日を選んでここに来てください。習いたいことがあれば、全部教えて差し上げます」と答えた。法師は「おぉ、ありがたいことだ、ありがたいことだ」と手をすり合わせて額に当てて拝んだ。感謝した様子で、立ち上がって走り去っていった。

もう100~200メートルほど行ったと思われる頃に、この法師がもう一度戻ってきた。晴明が見ていると、人の隠れていそうな所、車庫なんかを覗き込みながら、晴明のいる場所まで戻ってきて言った。「私の供をしていた子どもが、二人とも急に姿を消してしまいました。二人を返して貰えませんか?」と。

「不思議なことをいう御坊ですね。この晴明がどうしてお供の子どもを取り上げなければならないのだ?」と、知らないふりをした。法師が「先生、おっしゃることはごもっともです。どうか許してください」と謝った。すると、晴明は「よしよし分かった。御坊がこの私を試そうとして、識神(しきがみ)を連れてきたのが気に入らなかっただけだ。他の者には通用するかもしれないが、この晴明には通じない」とたしなめて、袖の中に手を入れて何か呪文を唱えるようにしていたが、暫くすると、外から子どもが二人走ってきて、法師の前に立っていた。

それを見た法師は、「実は、先生が非常に優れた陰陽師の権威だとお伺いして、一つ試してみようと思っていたのですが、私の負けですね。しかし、識神を使うのは昔から簡単なことですが、人の使っている識神を隠すことはできません。識神を簡単に隠せるとはやはり素晴らしい。ただ今から、先生の弟子にして頂きたい」とお願いした。すると、法師はその場で弟子が師に贈る名符(みょうぶ)を書いて、晴明に差し出したのである。

ある時、晴明が広沢の寛朝僧正の住居にお邪魔して、いろいろな相談をしていると、側にいた若い貴族や僧侶が晴明に話しかけてきた。「あなたは識神をお使いになるそうですが、その術で即座に人を殺すことができますか?」と質問した。晴明は、「陰陽道の奥義をずいぶんとあけっぴろげに聞くもんですね」と言って、「そう簡単に人は殺せませんが、少し念力を用いれば、必ず殺すことはできるでしょう。虫などであれば、ほんの一瞬の念力によって殺せますが、生き返らせる術は知らないため、殺生の罪を犯すことになります。念力での殺生は無益なことですよ」と答えた。

その時、庭先に5、6匹のカエルがいて、池のほうへと飛び跳ねていった。それを見た貴族の若者が、「では、カエルを一匹殺してみてください。あなたの力を試してみたい」と頼んだ。晴明は、「罪を犯したがる貴族さまですね。どうしても、お試しになりたいのであれば」と言って、草の葉を摘み取り、呪文を唱えてカエルのほうへと投げ遣った。すると、投げた草の葉がカエルの上に乗って、カエルはぺちゃんこに潰れて死んでしまった。これを見た僧侶たちは、顔色を真っ青にして怖がった。

晴明は、家人・従者がいない時には、識神を使用人として使ったのだろうか。人の気配もないのに、雨戸の開閉が勝手(自動的)に行われていた。また、門を閉める人もいないのに、ひとりでに閉まっていることがあった。晴明の周囲では、このような不思議な現象がいろいろと起こったと伝えられている。

晴明の子孫は今も朝廷に仕えて高位高官として重用されている。土御門の屋敷も代々受け継がれて伝えられている。子孫にも、つい最近まで識神を使う晴明の声が聞こえていたという。

そのため、安倍晴明はやはりただものではないと、語り伝えられているのだ。

[感想]

平安時代の王朝の基本的な学問や秘術として『陰陽道(おんみょうどう)』というものがあり、安倍晴明(あべのせいめい)は最も有名で優れた超能力を持つとされている陰陽師である。7世紀頃に中国から伝来した陰陽道は、『陰陽五行説(火・水・木・金・土)』に基づいた合理的認識によって世界の成り立ちや構成要素を理解しており、陰陽道は古代日本における“科学的な学問(当時において客観的に世界を捉えていると認識されていたが近代科学とは全く異なる)”であった。

陰陽道は当時、恐るべき神秘的な呪術・念力・卜占(占いの予測)を発動する学問と見なされており、朝廷では『中務省(なかつかさしょう)の陰陽寮』によって一線級の優れた陰陽師たちを管理していた。中務省には陰陽頭(長官)、陰陽博士、陰陽師、天文博士、歴博士などの役職があり、陰陽師は宇宙の運行や未来の現象を『占い・呪術』などの超能力的な方術によって予測できると考えられていた。本章では、平安時代における陰陽師の最高権威とされる安倍晴明の興味深いエピソードが伝えられており、陰陽師が『識神・式神(しきがみ)』と呼ばれる召使いのような精霊を自在に使いこなすことができたことが分かる。

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